西洋哲学から東方のカミ、純狐の能力を考察する

幻覚度 9

注:この考察では、名付けられていない存在をカミ、名付けられたカミをとして使い分けています。

また、思想に馴染みの無い人のために考察に使った思想の解説もしていますが、既に知ってるという人、結論だけ聞きたい人は読み飛ばして構いません。

はじめに

先日、私の好きなふぺふぺ氏のツイッターに「人文を使って考察する人が増えてほしい」といった趣旨の投稿があるを見つけた。これがこれを投稿しようと思ったきっかけである。

この投稿を見た時に、思想マニアである私は大いに賛成し、いいねもリツイートもしたのだが、よく考えたら私の考察(未完のストック含む)は仏教まみれで、人文を使っているかと言われると少し怪しい。

そこで浅学ながら人文を使った考察に挑戦する事にした。

そしてなぜこのテーマになったのかというと、このテーマを思いついたからである。

考察本文

ソシュール言語学から解釈するカミ

このテーマでまず始めに思い浮かんだのはソシュールである。私は香霖堂の「名付け」に関する記述がこの考察のキモになると考えた。

そこで言語関係で西洋哲学となった時、私にはソシュールとウィトゲンシュタインが思い浮かんだ。どちらも私が好きな思想家である。

ウィトゲンシュタインはどちらかといえば言葉の使い方に言及した思想家なので、言葉の生成に注目したソシュールから見ていこうと思った。

ソシュール言語学の私的解釈

簡単に言えば「差異によって言語が生まれた」とする言語学である。例えば英語には亀の訳としてturtleとtortoiseの2通りがある。生息地が水辺か陸地かで区別しているそうだ。

こういった違い(差異)を気にするかで新たな語彙が生まれるかが分かれる。というのが、私なりのソシュール言語学の解釈である。

ここから思いついたのが次の解釈だ。

カミの名付け=カミの相対化

差異を認めて名を付けるというのは、カミという存在を相対化し、大勢の中の1柱から1神格に昇華する行為に他ならない。

これによって八百万から、言わば特異点を見出されたのがいわゆる「信仰を持つ神」なのではないかという説だ。

例えばタケミカヅチの場合、元々甕に宿るカミの内の1柱だったのが「力が強い」というところに差異を見出されてタケミカヅチと名付けられ、武神となったのではないかという事だ。

神の強さは信仰の強さとよく言われるが、これは大衆がその特異性を見出すために、神としての個がハッキリしてくるという意味なのではないだろうか。

そして名が付く前のカミというのは特異性を見出されなかった、言わば「普遍的」なカミなのではないか。

こう考えた訳である。

普遍的であるということは、「武神という性質上、武具を連想させないものには宿れない」といった制約が無いということも意味する。これがカミの「万物に宿る力」なのではないだろうか。

と、ここまで書いて詰まってしまった。単に私の力不足かもしれないが、この説では純狐の能力を説明できそうにない。

この説から考えるのなら、純狐の純化、すなわち名前を失くさせる能力というのは差異を失くさせる事に繋がるのだが、その純化によって生み出されるという「純粋な力」の説明がつかないのだ。

半ば諦めた思いでヒントを探していると、とある妙案が思いついた。

サルトルの実存主義で解釈するカミ

天啓だった(主観)。これを思いついたのは再びふぺふぺ氏の当該ツイートを見た時だ。このツイートには続きがあり、「でもドゥルーズが〜とかサルトルが〜とか話しても大半の人は分からないのかもしれない」と書いてあった。

「そういやそんな人たちも居たな」と思いながら何気ない気持ちで手持ちの哲学者図鑑のサルトルのページを開いたとき、私の頭に電流が走った。「これだ」と、そう思った。

サルトル実存主義の私的解釈

サルトルといえば自由の刑、実存は本質に先立つ、即自存在、対自存在、アンガージュマンとたくさんの有名な言葉が浮かぶが、一つ一つ解説すると余裕で1面使えてしまうのでここでは考察に使った思想だけ解説する。

まずは「実存は本質に先立つ」だ。

実存とは人間の存在の事である。そこから上の言葉を言い換えると、「人間は本質を与えられる前に存在する」となる。

そして「本質は自分で作らなければならない」というところまでがワンセットなのもこの思想だ。

そしてアンガージュマン。日本語にすれば自己拘束である。

社会に対してもし何か実現したい理想がある場合、理想がやってくる事を待つのではなく、自ら社会に参加(=社会に拘束)しに行こうじゃないかというものだ。

ちなみに私はこの「拘束」こそ自己の本質を規定する要素になると解釈している。

社会とは何も国だとか世界だとか大きいものだけで無い。家族や学校、会社だって大きく見れば社会だ。

そういった小さな社会にたくさん参加し拘束される事で自己の本質が出来上がってくるのではないかというわけだ。

本職哲学科からしたら見当違いも甚だしい解釈かもしれないが、こう解釈した方が私が分かりやすい上に考察にも使えるので、どうかプラグマティズムな目線で見逃して欲しい。

さて、ここから思いついた解釈が次である。

神=信仰によって拘束されたカミ

神とは、人々の信仰によって拘束され、その本質を決定された存在なのではないかということだ。

タケミカヅチをまたまた例に出すと、「力の強い神である」という信仰によってその本質を「武神である」と拘束された。といった感じだ。

信仰が拘束具であるならば信仰無きカミは拘束無き正に自由な存在であり、だからこそ万物に宿る力を持ち、逆に形が無いのであろう。

この前提のもと純狐の力を考察すると、純化するとは、この拘束を一時的に無くす事なのではないかという結論に達した。

もともとあった拘束を解き放てば、後に残るのは文字通り「純粋な力」である。

拘束を完全に解くと不定形の何かになってしまうはずなので、純狐はこれを部分的に起こせるのではないか。

例えば紺珠伝で純狐は妖精を生命力の塊にしたそうだが、これは生命力以外の余計な部分の拘束を解き、妖精を生命力+純粋な力とする事で実質的に生命力の塊にしたということなのではないか。というわけだ。

哲学好き以外に読ませる気のない補足

無解説で哲学用語をぶっ込むので注意されたし。

サルトルの思想を使ってここまで考察した時、私の脳がすごいこと(主観)を閃いた。

例えば秋姉妹のような与えられた信仰をそのまま受け入れる神は即自存在的な神、神奈子のような自分で自分の新たな信仰を確立させようとする神は対自存在的な神と言えるのではないかというものだ。

それだけである。オチは無い。

まとめ

サルトルの思想を応用すれば、神の定義や純狐の能力の説明が付く。かも。という事だ。「神道の神や中国元ネタのキャラに西洋哲学って何だよ」というツッコミは受け付けない。私がこれを真理と思うのだから私の中では真理なのである。(まさに実存主g(殴))

哲学科から怒られない内に今回の考察は締めとする。

参考(敬称略)

田中正人「哲学用語図鑑 完全版」

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