東方Projectにおいて物語や弾幕勝負という根幹を担うのはほとんどが女性である。
勿論、作者が女の子でいかなければならなかったという理由は存在する。
ZUN氏は2015年の京都大学での講演において男性キャラクターがほとんど登場しない理由について「女の子がキャッキャワイワイしているのが見たいし、弾幕は男性的じゃない」と語っている。
しかし本稿ではこの理由をドゥルーズ的に説明することを試みたい。
本文
ドゥルーズは意味の論理学においてこのように論ずる。
そこで少女はストア派を把握しうる存在であり、少女だけが出来事の意味を解し非物体的的な分身を解き放つ。
逆に少年は偽物の知恵や動物性が備われていると論ずる。
要は少女はストア派的な出来事の担い手、つまり言葉や出来事から生じる表面を移動する。もっと分かりやすく説明するならば表面の意味として捉えることができるのが少女であると。
つまり少女は身が軽くどこまでもいける存在なのだ。
ドゥルーズの言葉に生成というものがある。これは=で女になることを意味している。
ブログ「Jazzと読書の日々」ではドゥルーズ入門の著者である澤野氏の論評を踏まえ以下のように記している。
まず生成と存在の二項対立が存在する。
存在はアイデンティティのことで重力に縛られている。つまり少年のことである。
生成は浮遊しており社会に縛られない。あの世とこの世の間に生き仲介を行う役目を持つ。
これは東方的に言うならば幻想少女そのものではないだろうか。浮遊することはつまり空を飛ぶことであり、あの世とこの世の間に生きることは死というものが軽いこの幻想郷で生きるということに繋げることができる。
先述したようにZUN氏は「女の子がキャッキャワイワイしているのが見たいし、弾幕は男性的じゃない」と話したがまさに弾幕自体がドゥルーズの生成なのだ。浮遊し、いざとなったら人を殺すことができるモノ。
そして澤野氏はこのように続ける。
「魔法というものが女になることを通してしか実効性を持たない」
「魔法という力が女になることを通してしか発動されない」
「魔力の発動が女への生成のみに関わる。あるいは魔法が女への生成を追加し生成することだけが魔力の輪をくぐり抜ける」
もはやここまできたら直球だ。
女の子に固有の特別な力とは物理的な機構に因らない浮力であり、特別な浮力を可能にする魔力である、と。
参考文献
ドゥルーズ入門 来たるべき知への招待
ドゥルーズ:「女になる」ということ – Jazzと読書の日々

博麗神主 幻想「京」入り 東方Project 作者ZUN氏が講演


コメント
本旨とは違う部分の補足ですが、「女の子がキャッキャワイワイしているのが見たい」というのは京都大学新聞による要約で、より正確には「キャッキャワイワイしているところにガチなやつ(男性キャラ)が入ってきて、しかも負けるとなると恥ずかしい(ので男性キャラクターは作りにくい)」という文脈の発言ですね。