墨染の位置
京都市の墨染は伏見区深草の一部(南限)として扱われることが多いです。また、東に行くと東山の南に当たります。
深草は伏見稲荷があることでも有名な場所です。
墨染から南に行くと伏見の町に入ります。
深草・墨染の冥界との関わり
深草野(深草)は古くは平安京の南の風葬地(遺体を野ざらしにして葬る地)として知られていました。その南限の地かつ山という異界との入り口という立地上、平安京における境界や死者とのかかわりでは重要な地と言えます。
南北の位置
一見すると平安京から見ると南のはずれの果てに見え、完全に異界側にも見えます。
しかし、平安時代末に近づくとそうとも言えなくなる状況が生まれました。
それは鳥羽殿の造営です。
鳥羽殿とは?
鳥羽殿
とばどの
京都市伏見区竹田・中島のあたりを占めて、十一・十二世紀の間に造営された離宮。白河・鳥羽・後白河の三代にわたる法皇が御所として使用し院政の舞台となった。中でも鳥羽法皇はこの中で崩御、その域内に設けられた墓所(安楽寿院陵)に葬った。ほか白河法皇の成菩提陵、近衛天皇の安楽寿院南陵がある。このあたり鴨河・桂川の合流点でその溢水地となり離宮造営当時は所々に池沼あり、風景のすぐれた所であった。また、平安京造営時には朱雀大路を延長した鳥羽の作路(つくりみち)がこの地点に達しており、京との往返は便利であったため早くから貴紳士の別業が設けられた。その一つ藤原季綱の鳥羽水閣をあらためて応徳三年(一〇八六)に白河天皇退位後の後院とされた。これが鳥羽殿のはじめで、関係位置から南殿と呼んだ。北殿は寛治二年(一〇八八)、東に位置する泉殿は同六年の造営があった。この泉殿の付近に鳥羽上皇の御所も造られ、含めて東殿と呼ばれた。またややおくれて田中殿が造営された。東殿と田中殿の造営時は不明。これら御所には南殿に証金剛院、北殿に勝光明院、泉殿に成菩提院、東殿に安楽寿院、田中殿に金剛心院と御堂が付属していた。なおこの区域の北方に名神高速道路が敷かれたことから、昭和三十五年(一九六〇)に発掘調査を行い、以後今日に至るまで百二十次をこえる調査を継続して、御所・御堂・庭園の規模を知ることができた。特に昭和六十年の調査では、金剛心院の跡から、供養願文どおりの釈迦堂・九体阿弥陀堂・小御堂・寝殿および付属建物、庭園とその施設を検出した。遺物(瓦・装厳具類の断片)によってこれら建築が質の高いものとわかった。『国史大辞典』より
しかしこの鳥羽殿の南殿の真東に墨染はあたります。
鳥羽殿と崇徳院
崇徳院は怨霊として伝えられ、また西行(佐藤義清)がその女房と懇意になり、娘を設けたとする説話があります。
その崇徳院が四国に流される前に幽閉されていた場所こそがこの鳥羽殿でありました。その真東に現在位置するのが墨染であり、その地には墨染の桜が植わっています。

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