穢れなき生は可能か——『エロティシズム』から読む月の民

幻覚度7

 序にかえて——バタイユという人物

 ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)とはフランスの思想家、作家である。フランス文学者である酒井健は「どの人間にも共通してある合理的な思考を前提にしてバタイユは、この思考にはどうにも理解できないものがあることを伝えようとした」¹と述べる。そして、「この思考しえぬものとは、激しい不快感、底知れぬ不安感をそそりながらも同時にまた抗しがたいほどの魅力を湛えているもの〔…〕恐しいほどの荒々しさを呈しつつも、怪しげに輝いてこちらを強く牽引する何ものか」²とする。

 本稿では、バタイユ著『エロティシズム』を通して、月の民の「穢れ」概念を読み解くことを試みる。「エロティシズム」もこの「思考しえぬもの」に含まれている、ということになるだろう。ここで、念のために断っておくと、本稿は、神主の脳内を明らかにすることを目指したものではない。あくまで、新たな解釈の提示を目的としている。決して、神主は『エロティシズム』を基に「穢れ」概念を構築している、などと言いたいわけではない。

 引用において、原文で付されていた傍点は太字をもって表し、読み仮名は<>内に示した。

¹ 『バタイユ 聖性の探究者』、酒井健、人文書院、2001、17頁。
² 同前。

 第一章 「穢れ」と「過剰」の対応

 本章では、『エロティシズム』に登場する「過剰」という概念と月の都における「穢れ」がどのように対応しているのかを提示する。本書において「過剰」は何度も用いられ、様々なニュアンスを含むが、「過剰」とは生の根底でうごめく暴力性を宿した運動である、ということにおいては通底していると思われる。

 以下では、まず原作における「穢れ」の説明を引用し、その論点を抽出する。

 月の都が嫌った穢れとは、生きる事と死ぬ事。特に生きる事が死を招く世界が穢れた世界なのだと。生きる為に競争しなければならない地上を穢れた土地、穢土と呼び、月の都を穢れの浄化された土地、浄土と呼ぶ者もいる。
 生も死も無い世界が限りなく美しい。だが何も無い世界が理想というのとも違う。生きる為に他人から搾取したりせず、自分達が生み出した物だけで全ての者の生活が賄える世界が理想なのだと言う。
 地上は生きる事が最善であるが故に、死の匂いが強くなるのだと言う。その死の匂いが生き物に寿命をもたらす。だから地上の生き物には全て寿命があるのだと言う。³

 以上はレイセンによる「穢れ」の説明である。ここには3つの論点が見出せる。

 第一に「穢れとは、生きる事と死ぬ事」である。第二に「生きる為に他人から搾取したりせず、自分達が生み出した物だけで全ての者の生活が賄える世界が理想」である。第三に、生きるために争い合うことから生じる「死の匂い」が寿命を生じさせる。

 これらがどのように「過剰」と対応していくのか。少々長くなるが『エロティシズム』からも引用する。ここでひとつ言っておくと、『エロティシズム』の内容は晦渋であり、その読解は骨の折れる作業となる。よって細かく議論を追わずとも理解できるように、引用の後でその要点を解説する構成にしている。

 生は、その全体から眺めてみると、再生〔生殖〕と死が織り成す巨大な運動である。〔…〕生は本質において過剰さだ。生とは生の浪費のことだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くす。生は、自分が創造したものを際限なく滅ぼす。生ある存在の多くはこの運動のなかで受動的である。⁴

 単細胞生物の充溢は、一個の生命体から二つの新たな生命体を産みだす創造的な危機へ向かうのだが、この充溢は、有性生殖の危機に達する男性器と女性器の充溢に較べると、原初的である。
 だがこの二つの危機は、いくつか本質的な様相を共通して持っている。両者の場合とも根源にあるのはエネルギーの過剰なのだ。そしてまた、産みだす生命体と産みだされた生命体の双方において、増加が見て取れる。最後に、個体の消滅という共通点が挙げられる。⁵
 
 過剰は、死を不可避な結末にしている。停滞だけが生命体の不連続性(彼らの孤立)をしっかり維持している。この不連続性は、個体を個々別々なものに分離している障壁を運命的に覆す運動への挑戦にほかならない。生、より正確には生の運動は、たしかに、しばしのあいだこの障壁を必要としている。というのもこの障壁がなければ、どんな複雑な組織も、どんな効果的な組織も可能にならないからだ。しかし生は運動であり、この運動においてはいかなるものも、運動から安全に守られてはいない。無性動物は、自分自身の発達ゆえに、自分自身の運動ゆえに死んでゆく。有性動物は、自分自身の過剰エネルギーの運動に対して、そしてまた自然一般の運動に対して、かりそめの抵抗を示しているにすぎない。ときとして有性動物は、自分自身の力の衰退だけが原因で、自分の組織の崩壊だけが原因で死んでゆく。これは本当のことだ。私たちは次の点を見誤ってはならない。ただ無数の死だけが、これら繁殖してゆく有性動物を袋小路から抜け出させるのである。人工的な組織によって人間の延命が確保されている世界。そんな世界の思想は、人々に悪夢の可能性を抱かせ、わずかな遅延の彼方には何も見えないようにするものだ。最終的には死が存在することになる。繁殖が招来している死、生の過剰が招来している死である。⁶

 第一の引用では、生の本質は過剰や浪費であり「生は、自分の創造したものを際限なく滅ぼす」ような暴力性を備えていることが、第二の引用では、生命を産みだす「充溢」の根源には「エネルギーの過剰」があることが、第三の引用では、「過剰」は死をもたらすもので、加えてその死から生命は逃れられないことが述べられる。さらに引用する。

 つねに限界を超え出て<エクセデ>、部分的にしか減じえない運動が自然のなかにはあるし、人間のなかにも存続している。たいがいの場合、私たちはこの運動を説明することができない。いやそもそもこの運動は、本性上、何ものによってもけっして説明しえないものなのだ。だが私たちは、この運動の支配下にあることを感じながら生きている。私たちを運び去る宇宙は、理性が限定するいかなる目的にも応えていないし、たとえ私たちが理性を神に対応させようと試みたところで、私たちは理性とこの無限の過剰<エクセ>〔つねに限界を超え出る<エクセデ>もの〕——その面前に私たちの理性は存在する——とを、無分別に結びつけることしかしていないのである。とはいえ私たちが把握可能な概念を形成しようと欲しているその神も、自らのなかにある過剰によって、絶えず、この概念を超え出ながら、理性の限界を超え出ているのだが。
 私たちの生の領域では、過剰は、暴力が理性に勝る限りで現れる。⁷

 途中に含まれる神についての論点は措くとして、重要なのは、自然および人間は「つねに限界を超え出て<エクセデ>、部分的にしか減じえない運動」すなわち「過剰」の支配下にあるということである。また、この引用の前で、人間は「労働もしくは理性の世界」と「暴力の世界」の両方に属する存在であると述べられている。⁸このことを踏まえれば「私たちの生の領域では、過剰は、暴力が理性に勝る限りで現れる」という一文が、「過剰」は人間が「暴力の世界」にあるとき表出するという意味だと理解できる。もっとも、「労働もしくは理性の世界」にあるときも「過剰」は消滅しておらず、つねに生命の内部でうごめいている。

 以上のことを踏まえると「穢れ」と「過剰」がどのような形で対応しているのかが見えてくる。

 「穢れとは、生きる事と死ぬ事。特に生きる事が死を招く世界が穢れた世界」とレイセンは語るが、これは生が死をもたらすというあり方が「穢れ」であることを意味する。そして「過剰」は生の本質であり、生命の誕生の根底にあり、暴力性を有し死をもたらす運動である。どちらも、生の内部から死がもたらされるという点で対応しているのだ。もっとも、レイセンは生命の誕生について明確には語っていない。しかし、概してそれは命の危険を伴い、そして生命はその維持に他の生命を要求する傾向を持つ以上、その増殖はより多くの死をもたらし得る。この意味で「穢れ」概念の射程に含み得るものとして、生命の誕生は捉えられるだろう。

 また、月の民は「生きる為に他人から搾取したりせず、自分達が生み出した物だけで全ての者の生活が賄える世界が理想」と言うが、「過剰」とその理想とは両立しがたい関係にある。「生は本質において過剰さだ。生とは生の浪費のことだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くす」という一文を思い出されたい。そして、ここでの浪費は、個体あるいはひとつの共同体内で完結するものではなく、個体、共同体どうしの奪い合いなども含んでいる。この生は文脈的に生全体を指しているからだ。

 さらに、生きるために争い合うことから生じる「死の匂い」が寿命を生じさせるというのも、「過剰」の概念を通して解釈できる。生は「過剰」であり「自分の力と資源を使い尽く」そうとし、「自分が創造したものを際限なく滅ぼす」。先述したが、この生は生全体を意味する。したがって、生きるための争いは、この記述の具体的な状況のひとつとして解釈できるだろう。

 まとめると、「過剰」と「穢れ」および「死の匂い」が概念として完全に一致しているわけではないにせよ、それらは近しい性格を持っていると言える。いずれも生と死の連関の内に説明される概念だからだ。とりわけ「過剰」は生の源であること、死をもたらすこと、浪費することと関係する。もし、月の民がこの概念を把握するならば、「穢れ」と同様に忌避の対象として措定するだろう。

 また、以上の考察の説得力を高める存在として妖精がある。

 『求聞史紀』にて妖精は「大自然の具現」、「自然現象そのものの正体」だとされている。⁹また『紺珠伝』では、鈴仙が「妖精は穢れの象徴」と、クラウンピースが「生命の象徴である我々妖精族がここを支配している限り月の民は手も足も出せないって聞いたのに」と述べている。¹⁰これらのことから、「自然」や「生命」と「穢れ」が少なくとも月の民にとっては近しい概念と捉えられていることが理解される。「穢れとは、生きる事と死ぬ事」であったが、「生と死」、「自然」、「生命」、これらは「穢れ」の周辺概念として認識し得るだろう。
 先述のとおり『エロティシズム』には「つねに限界を超え出て<エクセデ>、部分的にしか減じえない運動が自然のなかにはある」——この運動は「過剰」のことである——とある。「自然」と「穢れ」を接続する妖精は、「過剰」と「穢れ」の結びつきを示唆しているのである。

³ 『東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.』、ZUN、一迅社、2010、130頁。
⁴ 『エロティシズム』、ジョルジュ・バタイユ、酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004、139-140頁。
⁵ 同前、161頁。
⁶ 同前、167-168頁。
⁷ 同前、65頁。
⁸ 同前、64頁。
⁹ 『東方求聞史紀 PERFECT MEMENTO IN STRICT SENSE.』、ZUN、一迅社、2007、8頁。
¹⁰ 『東方紺珠伝 〜 Legacy of Lunatic Kingdom.』、上海アリス幻樂団、2015。

 第二章 「不連続性」の維持への志向

 本章では、月の民の永遠への志向を「不連続性」の維持への志向として捉えていく。まず、「不連続性」とは何であるか。例によって、引用を丁寧に読まなくとも理解できるようにするが、以下に関してはかなり分かりやすいように思う。

 生殖をおこなう存在は互いに異なっている。産みだされた存在も相互に異なっているし、彼らを産みだした存在とも異なっている。各存在は自分以外の他のすべての存在と異なっている。各存在の誕生、死、そして生涯におけるさまざまな出来事は、他の存在たちに対して利害を及ぼしうるが、直接的に利害が及ぶのは当の存在だけなのだ。この存在だけが生まれ、この存在だけが死んでゆくのである。一個の存在と他の存在とのあいだには深淵があり、不連続性があるのだ。 
 この深淵は、たとえば、私の話を聞いているあなたがたとあなたがたに話しかけている私とのあいだにも横たわっている。私たちは交流しようと試みるが、私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう。あなたが死につつある場合でも、死につつあるのは私ではないのだ。私たち、すなわちあなたと私は、不連続な存在なのだ。¹¹

 つまり「不連続性」とは存在と存在との間を隔て、それぞれを個として成り立たせている溝である。バタイユは「あなたと私」を例に出すが、人間どうしも「不連続性」によって分かたれているのだ。しかし、人間はいつまでも個として存在を保ち続けられるわけではない。死を運命づけられた存在である。死は「不連続性」にどのような影響を与えるというのだろうか。

 私たちは、不連続性から存在が引き離されることがもっとも暴力的な事態であることを理解するであろう。私たちにとって最も暴力的な事態とは死である。私たちは、自分たち不連続な存在が少しでも長く存続するのを見ていたいという欲求を執拗に持つが、死はまさしくそのような欲求から私たちを引き離してしまうのである。私たちにある個体性が突然消えてゆくと思っただけで、私たちの心は動転してしまうのだ。¹²

 我々は不連続な存在であり続けることを望むが、死は否応なしに我々をそうでなくさせるのである。「不連続性」を破壊すると言ってもよいかもしれない。

 言うまでもないことだが、月の民が「月」の民であるゆえんは、「穢れ」による寿命の発生を嫌ったためである。小説版の『儚月抄』にて「穢れが与える寿命の存在に気付いた賢者がいた。〔…〕穢れた地上を離れる事を決意したという」¹³とある。寿命があることは、言うまでもなく死ぬことを意味する。端的には、月の民は死から逃れるために地上を離れたと言えるのである。したがって、「不連続性」を維持し続けることを志向した、と整理できる。そして先に示したとおり「過剰」は死をもたらす、すなわち生命が互いに「不連続」であり続けることを不可能にするのである。

 なお「不連続性」に対立する概念として「連続性」がある。以下引用する。

 存在の連続性は、ふだん私たちの外に存する。〔…〕私が今、強調したいのは次のことだ。すなわち存在の連続性は個々の存在の根源にあるのであって、死は存在の連続性に到達しない。存在の連続性は死に依存していない。しかしそれでいて、死は存在の連続性を露に示すということだ。この見解は、宗教的な供儀を解釈するときの基礎になるはずだと私には思える。私は先ほど、エロティックな行為は供儀に似ていると語った。エロティックな行為は、これに関わる者たちを溶解し、彼らの連続性を顕現させる。波立つ水の連続性を想起させる連続性を、だ。供儀においては、生贄をただ裸にするだけではなく殺してしまう(生贄が生き物でないときには、この生贄を何らかの仕方で破壊してしまう)。生贄は死んでゆく。このとき、供儀の参加者たちは、生贄の死が顕現させる要素を分有する。この要素は、宗教史家とともに、聖なるものと呼びうるものだ。まさしく聖なるものとは、厳粛な儀式の場で不連続な存在の死に注意を向ける者たちに顕現する存在の連続性のことなのである。暴力的な死のおかげで、一個の存在の不連続性が破壊されてしまうのだ。あとに残るもの、しのびよる静寂のなかで参加者たちが不安げに感じるもの、それこそが存在の連続性である。¹⁴

 バタイユは「連続性」は宗教的儀式で生贄の死に際したときや「エロティックな行為」におよんだとき感じられるものである、と述べている。意外に思われるかもしれないが、両者は類似しているのだ。供儀においては生贄の「不連続性」の破壊——つまりは死である——が要求され、また、「エロティックな行為」は「これに関わる者たちを溶解し、彼らの連続性を顕現させる」。つまり「連続性」に触れることは「不連続性」への脅威に関連している。この意味で月の民は「連続性」への接触を避けていると言えるかもしれない。また、バタイユは以下のようにも述べている。

 生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。私たちは、この滅びゆく個体性が少しでも存続してほしいと不安にかられながら欲しているが、同時にまた、私たちを広く存在へと結びつける本源的な連続性に対し強迫観念<オプセッション>を持ってもいる。私が語るノスタルジーは、私が挙げた基本的事実を認識していようといまいとまったく関係がない。最も単純な存在の分化と融合を知らない人であっても、自分が、無数の波に消えてゆく一つの波のようにこの世界の中に存在していないことで苦悩することはありうるのだ。それはともかく、このノスタルジーが原因して、すべての人間のなかに三つの形態のエロティシズムが生じているのである。¹⁵

 「私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている」のだ。「滅びゆく個体性が少しでも存続してほしいと不安にかられながら欲している」にもかかわらずである。先述のとおり「連続性」に触れることは、「不連続性」を脅かし得る。

 ここでひとつの問いが生じる。すなわち、月の民は「連続性」へのノスタルジーを有しているのか、と。私の知る限り、月の民は生贄を用いた儀式を行っておらず——儀式のために生贄を死なせる行為は「穢れ」を生むに違いない——また、月の民の性に関する記述は原作にない。もっとも、次章では後者について取り上げていく。少なくとも能動的に有していることを示す証拠は見つけられない。ただ、どうしようもなく有している可能性は残る。バタイユは「私が語るノスタルジーは、私が挙げた基本的事実を認識していようといまいとまったく関係がない」と、そのノスタルジーを人間にとって本性的なものかのように表現しているからだ。そして、地上人と月の民の差異は「穢れ」の有無であることが『紺珠伝』のあるエンディングで語られている。¹⁶であるならば、月の民も「本源的な連続性に対し強迫観念<オプセッション>を持って」いると予想できるだろう。

 本章の議論を整理する。生命の個体を成り立たせるのは「不連続性」であった。そして「過剰」によってもたらされる死は、それを破壊する。ゆえに月の民は「不連続性」の維持を志向すると言えるのだ。また、「不連続性」に対置される「連続性」は、死や「エロティックな行為」に際して感じられるもので、「不連続性」を脅かすことに関連する。そこから月の民の「穢れ」への忌避を「連続性」に触れることへの忌避と読み替えられるが、バタイユは、人間はそれにノスタルジーを持つと述べており、月の民もその内部で「連続性」への欲求を有しているのかもしれない。

¹¹ 『エロティシズム』、前掲、19-20頁。
¹² 同前、27頁。
¹³ 『東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.』、前掲、57頁。
¹⁴ 『エロティシズム』、前掲、35-36頁。
¹⁵ 同前、24-25頁。
¹⁶ 『東方紺珠伝 〜 Legacy of Lunatic Kingdom.』、前掲。

 第三章 月の都における性

 第二章の後半において「エロティックな行為」という語が登場したが、本章ではまさにそういった、月の都における性の扱いについて考察していく。第一章において、「生命を産みだす『充溢』の根源には『エネルギーの過剰』がある」と記したが、生殖を目的としない性についても取り上げていきたい。では引用する。

 私たちがせいぜい言えることは、労働と違って性活動は暴力であり、直接的衝動として性活動は労働を混乱させることができるということだけである。〔…〕私たちの内部で性の自由に対立している禁止は一般的であり、普遍的なのだ。個々の特殊な性の禁止は、この普遍的な禁止の変化しうる外面なのである。〔…〕あの≪不定形で普遍的な禁止≫はつねに同一なのだ、と。たしかにこの禁止の対象は、この禁止の外面と同様、変化する。しかし問題となっている対象が性活動であろうと死であろうと、この禁止が狙いと定めているのはつねに暴力なのだ。人を恐怖させ、しかしまた魅惑する暴力なのだ。¹⁷

 性活動に関係したその他の禁止、たとえば月経の血や出産の血に関係した禁止も、近親相姦と同様に、暴力の不定形の恐ろしさに還元できるように思える。こうした液体は、体内の暴力の表出とみなされる。血液自体からして暴力のしるしなのだ。月経の血は、さらに性活動の意味と、性活動に発する汚<けが>れの意味を持つ。汚れは暴力の結果の一つなのである。出産も、こうした全体から切り離せない。出産それ自体、引き裂かれることであり、秩序ある行為の流れを越える過剰なのではあるまいか。¹⁸

 供儀の外的な暴力が明示していたものは、血液の流出や生殖器からの性液の湧出にはっきり見て取れる存在の内的な暴力だった。¹⁹

 性に対する禁止は様々な形をとりつつ多くの社会に存在している。例えば分かりやすいものとしては、近親相姦への禁止などが挙げられる。バタイユは、これらの根底には「不定形で普遍的な禁止」があると述べる。そして、なぜ禁止されているのかといえば「暴力」への忌避である。「性活動に関係したその他の禁止、たとえば月経の血や出産の血に関係した禁止も、近親相姦と同様に、暴力の不定形の恐ろしさに還元できるように思える」と彼は述べる。そしてこの「暴力」とは「存在の内的な暴力」である。

 性行為は「生殖器からの性液の湧出」を、出産や月経は「血液の流出」を伴うが、これらがその「暴力」の表出を示しているのだ。第二章において供儀の話を引用しているが、生贄の出血に関しても同様の事が言える。これら「存在の内的な暴力」の表れは、生命の内部でうごめく「過剰」の運動による。したがって、月の民は「過剰」の表れとしての性を忌避するという予想が成り立つ。第一章では「過剰」と「穢れ」の対応を示したが、性的な行為に「過剰」を見出せるのならば、それは「穢れ」と結びついた行為であろう。

 小説版の『儚月抄』において「二人の姫は私の遠い親族である。人間風に言えば私から見て又甥<またおい>の嫁、及び又甥夫婦の息子の嫁」という記述がある。²⁰しかし、「人間風に言えば」という留保の存在も含め、ここから直ちに、生殖が行われていることは導けない。

 月の民の生殖が、また生殖を目的としない性の実態が地上人と異なるとすれば、どのような差異があるのか。前提として、月の民は性にまつわる「過剰」を忌避するだろうことを示してきた。そこで、例えば制限、管理、外部化が考えられる。具体例を挙げてみよう。法律などによって性にまつわる行為を制限する。生殖や月の民の性に関する欲望をテクノロジーを用いるなどして管理する。月の都で発生した性の「穢れ」を地上や幻想郷など外部に廃棄する。もっとも、原作で月の民の性について深掘りはされていないため、単なる予想の域を出ない議論ではある。

 最後に次章への導入として、これらの「穢れ」の忌避の仕方に共通する要素として禁止があることを指摘しておく。管理や制限は、許容と非許容の境界の創造を意味し、必然的に禁止を伴う。したがって「穢れ」を忌避する限り、それにまつわる禁止は——様々な形式が考えられるが——常につきまとう。ここで、バタイユの言を引用して締めとしよう。曰く「禁止は侵犯されるために存在している」。²¹

¹⁷ 『エロティシズム』、前掲、79-81頁。
¹⁸ 同前、86頁。
¹⁹ 同前、151頁。
²⁰ 『東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.』、前掲、14頁。
²¹ 『エロティシズム』、前掲、103頁。

 第四章 穢れなき生は可能か

 禁止と侵犯の関係について『エロティシズム』ではどのように述べられているのか。引用する。

 侵犯は、何度繰り返されても、禁止に打ち勝つことはできないが、しかしあたかも禁止は、禁止が排除するものに栄光の呪詛を与える手段にすぎないかのようなのだ。²²

 「侵犯してはならない禁止がときとして侵犯されることがある。だがこれは、その禁止が不可侵でなくなったということを意味しているのではない」。私たちはさらに、次のような不条理な主張にまでたどりつくことになろう。「禁止は侵犯されるために存在している」。この主張は、一見して無謀な発言に思えるかもしれないが、じつのところそうではなく、二つの正反対の情動のあいだの避けがたい関係を正確に言い表しているのである。私たちは、消極的な情動の影響下にあるときには禁止に従わざるをえない。逆に情動が積極的であるならば、私たちは禁止を侵犯する。だが禁止が侵犯されても、消極的な情動の可能性と意義が消去されるわけではない。それどころか、侵犯はこの消極的な情動を正当化し、またこの情動の源泉にもなっている。同様に、もしも暴力が私たちを最悪の事態〔死〕へ導きうるということを知らなかったら、あるいは少なくともこれを漠然とでも意識していなかったとしたら、私たちは暴力に恐怖しなくなってしまうだろう。²³

 一言では、禁止と侵犯は不可分なものとまとめられるだろうか。「私たちは、消極的な情動の影響下にあるときには禁止に従わざるをえない。逆に情動が積極的であるならば、私たちは禁止を侵犯する」のである。この一文は「禁止は、禁止が排除するものに栄光の呪詛を与える」という記述とも関連する。禁止と侵犯は、前者が後者の魅力を高めるという構造になっているのだ。そして、禁止の侵犯は、禁止の意義を失わせるのではなく、「侵犯はこの消極的な情動を正当化し、またこの情動の源泉にもなっている」。月の民にこの図式を当てはめるならば、「穢れ」の忌避を目的に設定されているであろう禁止は、それを侵犯したいという欲求——侵犯は「穢れ」との接触を意味する——と隣り合わせだ、となる。これは逆説的である。月の民は「穢れ」を遠ざけるが、それは同時に「穢れ」に魅力を与えることでもあるのだ。

 さらに、バタイユはこのように述べる。

 暴力がいわば禁止から溢れ出るということがある。掟が無力になると、以後、確固とした何ものも暴力を抑制しえないかのように見える——あるいはそのように見える場合がある。禁止は暴力に対立しているのだが、しかし原則として、暴力こそが、禁止を生じさせている原因なのである。その根底的な暴力、つまり死が、禁止を超え出る。しかしたいていの場合は、そうした死の超出がもたらす破砕感は比較的小さな混乱しか惹き起こさない。無秩序な諸衝動を制限したり、儀礼に従って秩序づけたりする祝祭や葬儀には、この混乱を解消する力がある。ただし、その本性によって死に打ち勝ったと思われていた絶対者に対し、死が勝<まさ>ってしまうと、あの破砕感も勝<まさ>ってしまい、無秩序は際限がなくなってしまう。²⁴

 自然に禁止という拒否を対立させて、自然を抑えたいと願い、じっさい抑えたと思ってきた。自分のなかで暴力の動きを制御し、そうすることで同時に現実世界でも暴力の動きを制御していると考えた。しかし暴力に対置させようとしてきた禁止の柵が無力だと見て取ると、人間が今まで自分自身を守ろうとしてきた制御のほうも意味を失ってしまうのだ。そうなると、人間のなかで抑えられてきた衝動が荒れ狂いだし、以後、人間は自由に人を殺し、性欲の高まりを抑えるのをやめて、それまでもっぱら人目を忍んできたことを公然と、奔放におこなって憚<はばか>らなくなる。²⁵

 ここには月の都の行く末に対する示唆が含まれているように思われる。バタイユは「暴力がいわば禁止から溢れ出ることがある。掟が無力になると、以後、確固とした何ものも暴力を抑制しえないかのように見える」と述べ、その例に「死に打ち勝ったと思われていた絶対者」に死が勝った状況を挙げる。その状況はより抽象的に言えば、「暴力に対置させようとしてきた禁止の柵が無力だと見て取」れたときとなる。つまり、事の次第によっては、禁止は無制限の侵犯に晒され得るのだ。

 絶対者の死、これを月の民に置き換えるならば、例えばツクヨミの死などが想像される。もしそのようなことがあれば、月の都における「穢れ」にまつわる禁止は徹底的に侵犯され、「穢れ」にまみれてしまうだろう。もっとも、ツクヨミが本当に絶対者に該当する立場なのか、ツクヨミが死ぬことがあり得るのかについて、原作から根拠を与えることは難しい。

 最後に、月の民が「穢れ」を遠ざけながら社会を維持していることに孕まれる緊張を示すことで、章題の問いに答えていきたい。

 まず、「過剰」とは生の本質でありながら、死をもたらす暴力的な運動であった。つまり「過剰」は「穢れ」と近しい概念で、月の民にとって忌避されるべきものである。ここに第一の緊張がある。すなわち、生命は「過剰」をどうしようもなく内部に宿しているのだが、それを極端に遠ざけようとする思想を月の民は有しているのだ。

 次に、人間は「連続性」へのノスタルジーを持っていることについてである。バタイユは死に際したときや「エロティックな行為」におよんだとき——それらは「過剰」の表れである——、我々は「連続性」に触れると述べた。言い換えれば「連続性」に触れることは「過剰」が「不連続性」を脅かす状況を目の当たりにすることなのだ。つまり、「連続性」に触れるという行為は、「穢れ」への曝露につながる。しかし、バタイユは、人間は「失われた連続性へのノスタルジーを持っている」と言う。そして『紺珠伝』のあるエンディングは月の民が人間であることを示唆していた。したがって、ここに第二の緊張が生まれ得る。

 第三の緊張は、先に記述した禁止と侵犯の関係性である。禁止はその侵犯を完全に防ぐどころか、むしろ構造的に必要とすらしているのである。そして、きっかけ次第では、侵犯は無制限に行われる。

 では「穢れなき生は可能か」。すなわち、「穢れ」に対して管理や制限などを行い、穢れの少ない社会の構築は可能であろう。しかし、『エロティシズム』の言に従えば、完全に「穢れ」と無縁な世界の構築は不可能だと言える。月の民は生ける存在であるが、生は本質的に「過剰」を宿しており、人間は本性的に「連続性」へのノスタルジーを抱き、禁止と侵犯は不可分な関係にあるからだ。

²² 『エロティシズム』、前掲、77頁。
²³ 同前、102-103頁。
²⁴ 同前、106頁。
²⁵ 同前、108頁。

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