古代列島古墳ディストピアと埴安神

幻覚度5

はじめに

 鬼形獣のモチーフにディストピアがあるのは周知のことかと思われる。畜生界がもろにその二つ名をもらっているが、もちろん埴安神が現れた霊長園も何らかの関係性を論ずるに逃れられないと私は考える。

 今回は前方後円墳をはじめとした古墳や、埴安神について考えたい。

 

古墳という単一化装置

 メディア媒体において古墳を取り扱う際、とりわけ前方後円墳について国家形成の礎や、ヤマト王権との繋がりの証拠として扱われることが多い。実際、そういった側面が存在するのは事実だろう。

 一方で、それだけが事実とは限らない。即ち、ヤマト王権に服属する形になった勢力の視点からの見方は全く異なると言わざるを得ない。

 一般に、古墳の形状や規模により、各地の首長の序列付けがなされていたとされるのはよく知られている。しかし、そもそも各地の首長たちは、はじめからその形式を持っていたとは到底考えられない。それぞれの地域首長は独自の形状の墳丘墓をその前の段階において形成していた。前方後円墳はそれぞれの要素を合わせたものであると解釈されることが一般的だが、各地の首長にとってみれば自己の集団が持ってきた葬送の場に異物を混入されたことに他ならない。

 詳しくは別の機会に述べたいが、人間社会のとりわけ東アジアにおいて、葬送の形というのは集団のアイデンティティに深くかかわるものである。それを統制し、序列のための道具として扱うことにする行為は各地域のアイデンティティを削ぎ、単一化する行為に他ならない。要するにある種のディストピア化である。

 各地の首長はこの動きに対して、墳丘は様式に従いつつも、石室や棺、副葬品などの別の構造体に独自性を持たせつつ、一定の自立性を保った。

 このせめぎ合いは古墳の終末まで続くが、結局のところ詳細部を完全に単一化するまでには至らず、東国では埴輪などで独自性を保つなど、地域によっては一定程度の葬送の独自性を保ち続けることに成功したとも言える。

 他方、中央の軍による破壊の対象となったものも存在した。

 

破壊された古墳

 528年、磐井の乱が発生した。乱の詳細は省くが、『釈日本紀』引用の『筑後国風土記』逸文 磐井墓条には次のような記述がある。

当雄大迹天皇之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風。生平之時、預造此墓。俄而官軍動発、欲襲之間、知勢不勝、独自遁于豊前国上膳県、終于南山峻嶺之曲。於是、官軍追尋失蹤。士怒未泄、擊折石人之手、打墮石馬之頭。

 すなわち、磐井の乱に際して磐井を取り逃がした軍兵が怒り、磐井の墓に立てられていた石人や石馬を破壊したとするものである。

 磐井の乱の顛末はさておき、事実、磐井の墓とされる岩戸山古墳で見つかった石人や石馬などは人為的に破壊された痕跡が存在している。一方で、磐井の氏族である筑紫君はその後も存続しており、祭祀そのものは継続していたことが近年指摘もされている。

 これだけ見ると兵の暴走であり、祭祀に関する介入がなされたようには見えづらい。別の方面での楔の一つが現在の地図上においても見て取れる。

 

崇められる造形神

 磐井の乱を契機に、ヤマト王権は糟屋屯倉や那津官家などを設置することで、筑紫君の勢力圏であった博多湾近辺の支配権を徐々に確立させていったことはよく知られる。これと共に当該地域にもう一つの変化が生じた。それは、牛頸窯跡群の成立による須恵器などの窯業生産体制の変化である。

 それまでは在地の比較的小規模な工人集団が各集落や工房で窯業を行っていた地域に、突如陶邑に次ぐ西日本最大級の規模の巨大生産地が出現したのである。

 そして、当該地域、すなわち博多湾から太宰府を越え、筑紫君氏の累代の祭祀対象である筑紫神(人命尽神)を祀る筑紫神社の北までの地域には、ある土の神を祀る社が密集している。

 その神こそが埴安神である。それを祀る埴安神社や地禄神社などの名を持つ社が現在でも夥しい数存在している。

 明確な史料が存在せず、史料に則って論ずることはできないが、牛頸窯跡群と埴安神を切り離すことは困難であろう。

 当該地域は言ってしまえばヤマト王権により異化され、同一化された場所である。埴安神がその同一化の尖兵たる存在か、あるいは抵抗のために誂えられた存在かは定かではないが、抑圧かあるいは抵抗に関連する神であったと一つ考えることができるのではないだろうか。

まとめ

 製作に当たり、意図されたかそうでないかは分からないが、古墳や埴安神は鬼形獣のテーマに近い解釈が可能な存在であると言える。特に、中央からの視点が前提に置かれることが多い歴史学であるが、変わった見方をしたならば別の側面が見えてくるものであるとも言える。

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