はじめに
七夕坂夢幻能で宇佐見蓮子はこのような発言をした。
この世の全ては場の干渉だったんだ。
実は、この世界観は秘封倶楽部世界のみならず、幻想郷世界を考える上でも非常に有益な視座を提供してくれる。
本稿ではそれを示すために場の考え方に基づいて幻想郷を覆う結界を考察するとどのようなものになるのかを見ていきたい。
場の干渉とは何か
とはいえ、そもそも蓮子の発言の内容を理解していなければそれに基づく場の干渉としての結界の有り様も上手くイメージすることはできない。まずはこの発言自体を解説する必要がある。
まず、現代の物理学における物の見方と照らし合わせるならば、蓮子の発言は決して突飛なものではない。専門用語としては「場の励起」という表現の方が一般的だろうがちゃんと現実にある考え方なのである。よって物理学においてそれが何を意味するのか、という解説がそのまま蓮子の発言を解説することになろう(ただ、言葉のニュアンスを踏まえると両者は微妙に異なることを指すと考えられる。蓮子の発言が物理学の視点からおかしいという意味ではないので途中でついで程度に補足するものとする。
言葉の形から、この話の理解には二つの段階が必要ということが分かる。つまり「場とは何か」と「場の干渉(励起)とは何か」である。
※逆に言うと、最低限この二つさえ解説すれば蓮子の話は一旦理解できるので、今回はこの二つしか解説しない。量子力学分野で本来重要な重ね合わせとか量子は確率論的に分布しているにすぎないとかそういう話はあえて一旦脇に置いてより単純化したモデルの中で解説する。なので物理学徒の皆様におかれましては書いてないことをもって「正しくねえじゃねえか!!」と石を投げることはお控え願いたい。
(いや、石は投げてもいいというか、「私ならもっと上手く物理学に基づいた東方考察記事を書けるね」という方は大歓迎だし、そもそも今回記事を書いてる目的の一つがある種のカニンガムの法則的効果を狙ってのことではある)
まず、「場とは何か」を理解するために天気の話をしよう(話題に困った人が仕方なくする雑談のネタということではない)。
例えば、この文書を書いている時点で京都市は気温が31℃、東向きに2mの風が吹いている。天気予報なので特定の観測地点における情報しか調べても出てこないが、理論上、やろうと思えば地球上のあらゆる地点において気温や風向きを調べることはできる。
これこそが場である。場とは、任意の座標(場所)に対して何らかの値を出力させる地図あるいは関数のことだ。(応用編として、場には風のように向きも意味を持つベクトル場や気温のような向きについての情報は持たないスカラー場といった区分がある)
天気予報は地球上でしか機能しないが(気温はギリいけそうだが、宇宙空間の大部分において風は無風だろう)、物理学における場は特に指定がなければ原則宇宙全部に存在するものを指す。例えばこの宇宙にはヒッグス場という「物の動きづらさ」をもたらす場が存在するので光子以外のあらゆる素粒子は光速未満の速度に減速されて質量を獲得している。
次に、場の干渉もとい励起の説明をするために、また天気の話に戻る。
今、外で雷は落ちているだろうか?
普通の気象条件で目に見えるレベルの雷が落ちることはない。地球もとい全宇宙にある電磁場(気温や風の場というのは例えだが、こっちは物理学でも用いられる場)は普通は雷が存在する状態にないと言い換えられるが、条件が変化する(エネルギーが与えられる)と大量の光子(光の正体にして電磁力を伝える素粒子)が出現し空を移動する(より現実に即していうならば、スポーツ応援におけるウェーブのように場の中で光子が存在する座標が次々と移り変わっていく)。これが「場の励起」ということである。
光は出現したり消滅したりが日常的に起こるので納得しやすいだろうが、同じことは物質にも言える。場の理論においては、物質をもたらす場がある地点において励起して「ここには物があります」という数値を返しているから物がある、ということになるのだ(例えば加速器は光速に近い速度で加速している膨大なエネルギーを持った粒子同士を衝突させることで新たな粒子を生み出している。E=mc^2より、エネルギーと質量は本質的に等価である)。
一方、場が世界にもたらしているものは励起による物の存在だけではない。場の相互作用もまた欠かせない要素である。雷の例で言えば、我々が雷を見ることができるのは雷の光子が網膜と相互作用し、その刺激が電気信号として神経を介して脳に伝わるからである。こうした場が励起して「物」が存在することと「物」が他の場と相互作用することで様々な現象が起こることをひっくるめて蓮子は「場の干渉」と表現しているものと思われる。
まとめ
- 場って何?→天気図みたいに座標に応じてその「場」の内容に対応した何らかの値を返すものだよ
- 場の干渉って何?→場が励起して場に対応した何かが出現したり場同士が相互作用して色々なことが起こることだと思うよ
場の作用としての結界
いよいよここから本題に入っていく。つまりは、物理学的な考え方を用いることで東方考察をしようという試みの実践である。
幻想郷を成立させている結界、「幻と実体の境界」や「博麗大結界(常識と非常識の境界)」はこの世の全ては場の干渉であるという理論においてはどのように説明されるだろうか?
まず、この世界には一つの場が存在するとする。この場で出力されるのは、その座標がどの程度幻か、というものである。これにより、世界を幻っぽいものと幻度が低い実体が混ざったものと表現することができる。
注意点として、この「場」は結界ではない。むしろ結界以前の、日常の中に普通に神や妖怪がいた世界、幻想郷が単にとある山奥にある領域だった時代がこの時点では想定される。
さて、場が存在するならば、幻の度合いは数値として扱うことができるということになる。ということは、例えば摂氏0度を境に氷点下かそうでないかが分かたれるように、ある値を境にして幻か実体かを明確に定義することが可能ということになる。この定義を与えて幻と実体をフィルタリングしているものが「幻と実体の境界」ということになる。
ところで、幻想郷に関わる結界のメカニズムを考える上で、一つ重大な問題がある。それは結界の範囲と作用に領域的な非対称性があるというものである。
どういうことか?
まず、結界の範囲は全世界ではない。もし結界が全世界に及ぶものならばそれにより隔離された幻想郷もまた全世界に遍在する場所ということになるが、それでは幻想郷は地理範囲としては海を持たない山奥と明言されているという設定と矛盾してしまう。
ところが、「幻となったものを幻想郷に呼び寄せる」の「幻となった」の対象範囲は幻想郷が地理的に存在する範囲だけではなく全世界に及んでいる。常識と非常識の境界たる博麗大結界も同様であり、例えば「外の世界で聖徳太子の実在(あるいは聖徳太子女性説)が否定されため女性としての聖徳太子が幻想郷に出現した」という事例における「聖徳太子の実在の否定」は日本のとある山奥で局所的に起こったことではなく日本中(ないし全世界)で起こった事象である。
幻想郷を覆う結界をどのようにモデル化するにしてもこの非対称性は解決されねばならない問題である。のでここから説明をつけていく。説明をつけるにあたって「先にこうした設定があるからこうすれば説明がつく」という形を取るため原作では特に明言されていない仮定を設けることとなるが、幻覚度の高い記事ということでそこはご容赦願いたい。
まず、結界の領域自体は元々地理的概念としての幻想郷があった範囲、つまり日本のとある山奥に限定されている。
そして、結界の領域内においては幻度は非常に高くなりやすくなっている。結界の作用としてそうなっているのかもしれないし、幻想郷が幻を許容することが場を励起させやすくしているとも考えられる(雷が発生するのはエネルギーや条件が満たされることによる電磁場の励起だが、「幻場」を励起させるエネルギーにあたるのはおそらく認識である)。
この場の状態がアリジゴクの穴、ないしは雲を集める台風のように作用して幻を引き寄せているのではないか、というのが本稿での説である。
主に「幻と実体の境界」を念頭に置いて話を進めてきたが、博麗大結界においても扱うパラメータが幻かどうかではなく常識と非常識であるということを除けば概ね同じになる。
ただし、博麗大結界の場合それが幻想郷とその「外側」を隔離する作用をも有しているという点においては「幻と実体の境界」とは区別される。これについては二通りの仮説があり、
- 結界の作用として常識と非常識が相互に非干渉なものとして扱われるようになる
- 人間含め常識側の存在は非常識を認識することができないため、幻想郷が「非常識側」と定義された時点でそれ以上の操作をしなくとも外の世界からは認識されない存在となった
のいずれかと考えられる。
場の作用として結界を捉えることの利点
本稿の理論では複数の仮定を置いている。うち「この世界は場の干渉である」という部分は秘封倶楽部側とはいえ原作での言及があることだからまだいいとして、「結界の作用として場にアリジゴク的に幻が集まりやすい領域が生まれる」などは原作で言及されたことがない。
もし仮定を置いた挙句その仮定を置くことによる利点(ここでの利点とはそのモデルを採用することで世界をより上手く説明できる、ということである)を示せなければ理論としてはカスの極みということになってしまう。つまりは説明責任があるのである。
よって、こうしたモデルを仮定することによる利点、つまりこのモデルの仮定により何が上手くいっているのかを説明する。
1.幻想郷と外の世界とのある種の連続性が上手く説明される
幻想郷は博麗大結界により外の世界とは隔離されているが、完全にではない。例えば外の世界での天気予報は機能する(東方酔蝶華第22話)し、幻想郷内からも飛行機雲が観測可能である(香霖堂第二部第十一話)。飛行機雲もだが、幻想郷に特に問題なく出入りできるものもあれば極稀にしか結界を突破しないものもあるなど、隔絶の程度にはその事物の性質に応じて相当の差がある(東方求聞口授など)。
このモデルにおいては空間的(数学的にはxyzの3次元で表される座標)は外の世界とは変わらなく他の数値により分かたれていると説明するため、例えば外の世界での天気予報が幻想郷でも通用するのはある種当然とすら言える。
また、幻とも実体とも言いがたいもの(常識とも非常識とも言いがたいものでもいい)がどちらか片側の世界にだけ存在するとは考えにくいので例えば「幻の空気」と「実体の空気」が両方存在して、それが幻か実体か以外に両者を区別する方法はないので他の場の作用は同じように受けて結果外の世界と普通に空気の出入りがあるように見える、などと説明することができる。
2.東方Projectの世界観がなぜ「和」なのかに説明が与えられる
結界が地理的には日本のある領域に存在していて、そこの場からアリジゴク的に幻を集めているのだとすればより近い日本の幻ほど集まりやすいのは当然のことである。
3.月の都が幻想郷外の異界であり、かつ距離がちゃんと地球から38万キロメートルあることに説明がつく
幻想郷の領域は日本の特定地点に限定されているため月は狭義には幻想郷外である。
ただし、この理論においては元々実体と幻(ないし常識と非常識)を場により遍在としているので幻想郷外の幻の存在を否定しない(これは4番目の利点にも関わる)。また、幻の月は幻度が閾値を超えた月と定義される以上空間座標における位置関係は現実の地球と月に対応する。よって、幻の月たる月の都への移動といえども、「常識的な」ロケットによる移動を選択する限り、移動距離ならびに所要時間は現実世界でロケットを用いて月に行く場合と一致することになる(東方儚月抄)。
月に関連して言うならば、空間座標上実体の月と幻の月が同一地点にあるならば、実体の月を観測することで幻の月を観測になる可能性はある。この懸念は「外の世界の人間は非常識を知覚できない」により否定されるように思えるが、マエリベリー・ハーンみたいな人間がうっかり観測しないとも限らないのである。月の都が人類の月進出を過度に警戒するのもさもありなん。
4.幻想郷外の異界、特に秘封倶楽部作品で描写される諸々を統合的に理解できる
そもそも東方世界と秘封倶楽部世界を同一とみなす(ここでの同一は全く同じ世界の裏表でもいいし、もっと緩く東方原作と秘封倶楽部原作はパラレルワールドの関係にあるでもいい)ことには是非があるが、本稿では相互干渉を匂わす描写が東方秘封両方の側にあること、メタ的に同一作者による創作世界であることをもって理論の統合は可能という立場に立つ。
そして始点が蓮子の発言にインスピレーションを得た理論であるだけに秘封倶楽部世界観は東方世界観以上に上手く説明される。
まず、元々この世界は幻と実体が共存している世界だったということにより、メリーの能力がほぼ完全に説明される(つまり、本来は知覚できない幻側や非常識側のものを例外的に知覚可能な人物がメリー)。
また、幻想郷を成立させている結界群は幻や非常識を強く周囲から引き寄せるが、幻想郷外の幻や非常識を完全に消滅させているわけではない。むしろ本質的に場であるならば幻想郷外にもおそらく幻想郷程ではないだろうが幻度の高い座標は存在していて、これが秘封倶楽部が暴く対象たる結界と考えられる。秘封倶楽部の活動が行われている場所がほぼ確実に幻想郷外であるにも関わらず(一応海がない山側の地形であるというのは満たしているが、幻想郷がデンデラ野かつトリフネかつ善光寺かつ七夕坂であるなどというのは流石に無理がある)ちゃんと異界には触れている。
ここからは秘封倶楽部ですらないある意味完全な与太になるが、遠野のように妖怪伝承が強く遺る地域もまた、幻想郷のように認識により幻の場が励起された地点と考えることができる。あるいは幻や非常識の知覚は困難でありそれが幻想郷の隔離を生んでもいるが、実は厳密には知覚可能で、それがかの世界における「霊感が強い」ということなのかもしれない(秘封倶楽部に話を戻すと、メリーの家系は霊感が強いらしいし)。
終わりに
今回は「世界は場の干渉である」という視点の元、物理学っぽい雰囲気で結界の有り様を考察した。この「場」の考え方は他にも応用可能であり、例えば幻想郷の神々はいずれも何らかの場に値を与える定義能力と言い換えることができる(神奈子や諏訪子はまさに場の励起による物の創造であるし、逆に千亦は所有権という情報を消し去っている)。
また逆に、場ではなく例えば認識論や哲学から同じような結論を引き出すことも可能と考えられる。というより従来は結界の構造はむしろそうしたアプローチから考察されていたものであり、今回のやり方は相当変化球だった。
ところで香霖堂第二十六話では物理の層と心理の層と記憶の層の3つから世界は構成されるという話が出てくる。この話で主眼となっていたのは記憶の層であるが、物理の層と心理の層もまた世界の構成要素であり、かつこれらの層を同一の理論で扱うことができるのだとすれば、この回もまた今回示唆された物理的な結界論と心理ないし認識の構造としての結界論の互換性を補強していると言えよう。
個人的には、メリーの専攻である「相対性精神学」とは「相対性理論+精神学」であり、現代の学問領域では完全に別物の「相対性理論による世界の記述」と「精神学、心理学」を統一した学問領域であるという可能性が生じている(つまるところ、実は蓮子の専攻とメリーの専攻は別々なのではなく相当に重なっている)のではないか? と思い始めているが……。これを論ずるにはまだ私自身の理解が追いついていないこともあり、一旦筆を置かせて頂きたい。
参考文献もとい一般向け現代物理学解説本紹介
・野村泰紀「宇宙はどう生まれたのか 世界の「起源」がわかる素粒子物理学超入門」2026年 マガジンハウス新書
比較的平易。ただし素粒子論からのアプローチであり、本稿において依拠している考え方とは対立がある
・ローレンス・クラウス著 長尾莉紗 北川蒼訳「私たちは何を知らないのか」2024年 株式会社KADOKAWA
神主も読んでいるらしい。やや難しい
・堀田昌寛「無とは何か」2026年 SB新書
現時点では珍しい古典的な意味での実在を否定する立場に立つ一般向け解説書。だいぶ難しい

コメント