序文
なんだか霊夢と幽々子って共通点が多いよねという思い付きから、筆を走らせてみました。途中から蓮子もその輪に加わってもはや何が何やら。7000文字ぐらいありますが、ゆゆゆか過激派の妄言を楽しんでいただけますと幸いです。
魂魄思想と輪廻転生
幻想郷の死生観は魂魄思想と輪廻転生がドッキングされたような実に日本的な形をしているのではないかという前提で考えると、わりとやりたい放題できてしまうので細かい突っ込みはいくらでもできそうなんですが、とりあえず思ったことをつらつら書いてみたいなと思います。
三魂
妖夢のスペルカードに天神剣「三魂七魄」がある通り、冥界のロジックは道教や中国の民間伝承の影響を受けている事に間違いはなさそうなのですが、この「三魂七魄」のうちの「三魂」はさらに、次の三つに分類されます。(諸説あり)
天魂:死後に天界へ昇る魂
地魂:死後に地の下の冥界へ向かう魂
命魂:死後に墓の下の棺の中に残る魂
-引用元-
「三魂七魄」は、伝統的な中国文化における概念で、人間の魂と精神の核を体内で表すと信じられています。三魂とは、人間の体内の3種類の精神的な本質を指します。それは、天魂、地魂、人魂です。天魂は人の意識を表し、地魂は感情を表し、人魂は活力または生命力を表します。七魄とは、人の主要な感情的反応を制御する7つの感情を指します。喜び、怒り、悲しみ、恐怖、愛、憎しみ、そして欲望です。これらの感情は、「尸狗」、「伏矢」、「雀陰」、「吞賊」、「非毒」、「除穢」、そして「臭肺」の魄によって象徴されています。-引用元-
人の精神は分けて魂魄と呼ぶことができ、その魂は三つあり、一つは天魂、二つは地魂、三つは命魂である。三魂のうち、天魂と地魂の二魂は常に外にあり、命魂のみが身体に宿る。天魂・地魂・命魂の三魂は常に一緒にいるわけではない。人が死ぬ時は、まず七魄が散り、その後で三魂が離れる。天魂と地魂は肉身に依附して万象を顕化することもでき、肉身から離脱して自由に存在することもできるから、人の天魂と地魂はまた身外化身とも称される。
つまり、富士見の娘(生前の幽々子を便宜的にこう呼びます)の命魂は魄の宿る肉体と共に西行妖に留まっていて、天魂・地魂はそれぞれフリーエージェントとなったんじゃないかなと思うわけです。博麗霊夢西行寺幽々子説を推すと、この時点で富士見の娘の天魂は自身の死に気が付かずに亡霊となり、地魂は地に還り輪廻の輪に加わったという感じになるかもしれません。
【富士見の娘の魂の行先】
➡天魂:意識 亡霊となり西行寺幽々子として活動
➡地魂:感情 輪廻の輪に加わり博麗霊夢に転生(?)
➡命魂:生命 西行妖
幽々子の性格の変遷
幽々子は生前と死後で性格がガラリと変わっているようで、これはたぶん亡霊として天魂が彷徨ううちに別の地魂が結びついたか、天魂から新たな地魂が発芽したかしたんじゃないかなと思ったりしています。(命魂は亡霊でいる為には必要ないとして)生前の記憶が無いのは記憶を命魂に置いてきたからか、或いは地魂が離れたせいかもしれません。
テキストによって幽々子は亡霊となってから死に誘うのを積極的に楽しんでいたようにも、死に誘う能力をあまり使いたくないと思っているようにも書かれていますが、或いはどちらも本当だったのかもしれないなと思ったりします。
亡霊と輪廻転生の狭間
幻想郷の亡霊は概ね生前と同じように振舞うし、生前と同じように家族と過ごす事もあるようなので、意識も感情もあり、記憶もある事が伺えます。命魂は肉体から離れられない事を鑑みると、恐らく通常の亡霊は死んだ事に気が付いていない状態で、天魂と地魂がセットになったままの状態という事になるかなと考えられます。意識と感情がセットになっていると記憶も残ると考えるのが自然かもしれません。
天魂の行方
天魂と地魂が乖離すると記憶が消失する。或いは記憶は地魂に宿っていると仮定した場合、富士見の娘は天魂(意識)が死を意識しないまま亡霊となり、地魂(感情)が死を自覚し受け入れたという事になるわけですが、そうであるならどういう死に方したんでしょうか。
或いは、天魂も地魂も死を受け入れてはいたが、地魂が冥府に還っても、天魂は命魂が西行妖に留まっているために成仏する事が出来ずに彷徨うはめになってしまったと考える方がスマートかもしれません。
いずれにせよ天魂(意識)だけが残って彷徨っていた幽々子は自我の無い夢遊病状態というか暴走モードというかこいしちゃん状態で、自分がもっている能力をただ意味もなくふるい続けた時期があったのかもしれないなと思ったりもします。その後、どういう経緯か地魂を得て感情も記憶の蓄積も得る事ができたので無意味に能力を振るうことに自制的になったと考えるのもそれほど不自然ではなさそうです。
地魂の行方
さて、一方の地魂は冥府に向かうわけで、たぶん地獄に行ったんだと思いますが、幽々子(天魂)が冥界の管理者になったり、そもそも望んで死に誘っていたわけでもなく、西行妖の封印にも寄与(命魂)したりと免責事由は結構あるので、地魂も1000年ぐらいで娑婆に戻れたとしても不自然ではないかもしれません。(地獄の刑期は最短で1兆6000億年と言われていて供養による免責があったりなかったりする。地球どころか宇宙が滅んでそう)
そうして輪廻の輪に加わった地魂は、新たな天魂・命魂と共に新たな人格を形成、或いは、地魂も天魂と同じように地獄に落ちることができずに彷徨っているうちに天魂・命魂を発芽させていったのかもしれませんが、いずれにせよ富士見の娘のような巨大な業を背負って生き抜いてきた魂が普通に一般人ができるかと言うとそんな事もないような気がします。外の平和な社会ならまだしも、幻想郷でそれは無理そうな気がしてなりません。
霊夢と幽々子の類似点
さて、仮に前章までの推論が正しかったとして、別に富士見の娘の地魂の行く末は博麗霊夢である必要はありません。単に波乱万丈なだけで良いなら大きな力を持つ妖怪になってもいいわけです。本章では、何故霊夢と幽々子の繋がりを考えるに至ったかを提示していきたいと思います。
蝶
幽々子が蝶であるのはもう見ればわかるんですが、霊夢も蝶なところがあります。テーマ曲のひとつである『二色蓮花蝶』、巫女の袖が蝶の羽を見立てているとも取れる。
非想天則のスペルカード発動時のポーズも蝶を見立てたと思われるものが、霊夢にも幽々子にもあります。目を瞑り、背を張り、両手をほぼ水平に広げるポーズはこの二人にのみ共通するもので、これは蝶の象形と捉えるのが妥当でしょう。ちなみに同じようなポーズを取りそうなキャラでいくとパチュは腕を高く掲げていますし、早苗は陰陽師っぽい構えを取ります。
最短距離を走る習性
霊夢は人間のわりに無意識の内に瞬間移動するという特異な能力を持っていたりしているわけですが、たぶんそれは凡人には知覚しえない最短距離を選んでいるせいで、本人的には普通に選んだ最短ルートが他者から見たら瞬間移動してるように見えるんじゃないかなと思ったりする事もあります。
対する西行寺幽々子は非常に頭の回転が速く、異変解決に出向いた時にはもう誰がその異変を引き起こしているのか分かっているような言動を取る事も少なくないというか、儚月抄の時なんて紫と一切接触せずに紫の計画の全貌を見抜いていたりしていて意味が分からないんですが、これは霊夢がただ真っすぐ飛んで瞬間移動するように、思考が最短距離を駆け抜けて瞬間移動しているんじゃないかなと思ったりするわけです。
髪の色
幽々子は薄い桃色か紫色、霊夢は黒髪ですが、PC98時代は概ね紫色をしてたりします。幽々子の髪の色は生前はもっと濃かったという話も聞きかじっているので類似性が見られる気がします。まぁ、似たような色彩のキャラはいっぱいいるので気のせいレベルかもしれません。
従者のカラーリング
幽々子の従者である魂魄妖夢は全体的に緑白黒のカラーリングをしていますが、霊夢の奴隷である(あった)玄爺も普通に緑色の亀なので全体的に似通ったカラーリングをしているとも言えます。こじつけがすぎる気もしている。
八雲紫の執着
生前の富士見の娘と友人であった八雲紫が、性格が別人のようになったとはいえ亡霊となった西行寺幽々子と友人関係を構築するのは別に不自然な話ではありません。また、幻想郷を愛する八雲紫が、博麗大結界を守護する博麗の巫女の庇護者として振舞うのも不自然な話ではありません。けれど、ここに宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンの関係を組み入れると話がややこしくなってきそうな感じがします。偶然も3つ重なったらなんとやら、というわけで、次章ではそこを掘り下げていきます。
八雲紫と富士見の娘
東方妖々夢で東方projectを知り、無事ネクロファンタジアで脳を焼かれて罪袋の一員となっていた僕は、「幽々子に霊夢に蓮子に、色んな女に粉かけて回ってて、まったくゆかりんは仕方がないなあ」などと思いながらニコニコとゆかりんファンタジアを歌って過ごしていたのだが、節操がなさそうなわりに彼女が深い執着を見せるのは恐らくこの三人だけ(当社比)なのである。
富士見の娘=(霊夢≒幽々子≒蓮子)
賢明な読者諸氏の方々は凡そ僕が何を言いたいのか分かってきたかと思うので、さっそくこの三人の共通点を洗っていきたい。そういえば二色蓮花蝶には『蓮』の文字も入っているなという発見を今した。
前章で述べたように、霊夢にはワープ癖があり、幽々子には超思考とも呼べる力がある。蓮子の能力は『星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力』であり、一見して関連は無さそうなのだが、深堀していくとそうでもない。大空魔術で「プランク並に頭が良いかもしれない」と自称し、メリーに「この世界の仕掛けが全て見えている」と言わしめる蓮子の能力は、『世界の構造を見通す力』であると言っても良い。時間や座標の把握は、その副産物に過ぎないのだろう。そこで、改めて、三人の特性を振り返ってみたい。
幽々子:物事の本質を掴む事に長ける
霊夢 :空を飛ぶ程度の能力
蓮子 :世界の構造を見通している節がある
霊夢が空を飛べるのは何者にも縛ることができないからである。裏を返せば、霊夢は世界の構造が見えているからこそ構造の持つ支配から逃れる事ができているとも言えるし、これは蓮子の能力の発展形として捉える事もできるかもしれない。また、永夜抄で見せたような『最初から黒幕の存在を完璧に把握しているかのような言動』をする幽々子の物事の本質を掴む事に長けた特性は、世界の構造を見通す蓮子の性質を思わせる。感覚と気分だけで生きていそうな霊夢を除いて、頭の回転が速いのも共通項といっていいだろう。
胡蝶の夢としてのマエリベリー・ハーン
八雲紫とマエリベリー・ハーンの類似性の指摘は長らく語られて久しい。とはいえ必ずしも、八雲紫=マエリベリー・ハーンとして捉えるのはいささか乱暴なようにも思っている。マエリベリー・ハーンにはマエリベリー・ハーンとしての人格があり、彼女は八雲紫そのものでは決してない。そこで考えられるのが胡蝶の夢である。幻想郷で眠る間は外の世界のマエリベリー・ハーンとなり、マエリベリー・ハーンが眠る間は幻想郷の八雲紫となるという考察は今までも語りつくされてきたものであるだろう。
そして、マエリベリー・ハーンと同じく、宇佐見蓮子も幻想郷に生きる誰かの胡蝶の夢なのではないだろうか。これもまた語りつくされてきたものである。なので今回はここに一石を投じてみたい。
胡蝶の夢としての宇佐見蓮子
宇佐見蓮子は誰の胡蝶の夢なのか。罪袋の一員である僕にとってもこの掲題は長らく強い興味の対象だった。包み隠さずいうのであれば、疑いようもなく霊夢であるだろうとすら思っていた。しかしながら、紫と幽々子との関係を思えば、外の世界で関係を睦むのは幽々子の夢こそがふさわしいのではないだろうかという思いもあり、罪袋は一度、考える事をやめていたのである。
さて、ここまでの考察をすべて踏まえた上で、富士見の娘の魂のうち天魂が亡霊西行寺幽々子となり、地魂が博麗霊夢となったと仮定するのであれば、残るは西行妖に眠る命魂である。つまり、宇佐見蓮子とは、西行妖に眠る富士見の娘の命魂が見る夢の姿ではないだろうかというのが僕の考察の結論である。
散り散りになった三つの魂が、それぞれに人格を得るに至り、博麗霊夢となり、西行寺幽々子となり、宇佐見蓮子となったとするのであれば、この三人は非常に近しい姉妹、或いは同一の存在であると言っても過言ではないかもしれない。
番う胡蝶の夢現
こんな仮定はどうだろうか。富士見の娘の魂は、その死後に、摂理に従って三つに分かれた。魂のうち天魂は亡霊として彷徨い、死を誘う事を楽しむようになったが、やがて自我を得て慎ましい暮らしを営むに至った。魂のうち地魂は輪廻の輪に加わり、或いは輪廻に還る事無く彷徨ううちに肉体を得て、さる神社の巫女となった。そして、魂のうち亡骸に繋がれた命魂は、朽ち果てる事も許されずにただ、友と傍らにある夢を見続けた。
幽々子の友人として傍らに立ち、霊夢の庇護者として傍らに立ち、蓮子の友人として傍らに立つ八雲紫(≒マエリベリー・ハーン)は、しかしてただ一人、友と慕った富士見の娘の傍らにあり続ける事だけを望んでいただけだったのかもしれない。
omake.txt
今回の考察は、妄言に妄言を重ねただけの妄想であると言って差し支えない。ゆゆゆか過激派であり、ゆかりんを愛するカルマ深き罪袋である僕にとっては、実のところ真実などどうでも良いのである。幽々子という本命がいながら、霊夢にも蓮子にも粉をかけて回る恋愛脳な八雲紫も尊いし、そう見せかけておいて、その実、ただ一人の番に執着しつづけていただけの八雲紫というものまた得難く尊いのである。その尊さは決して比べられるものではない。どんなゆかりんも等しく尊いのだ。
今回の考察に至った経緯は去年の例大祭に遡る。友人と制作に励んでいた東方アレンジアルバムで作詞を担当していた僕は、『ゆゆゆか三部作』と銘打ってシームレス3トラック11分という気合の入った作品の作詞に勤しんでいたのだが、その三部作の終盤を締めくくるラストシーン。何故か脳裏をよぎったのは、蓮子とメリーが桜の下を練り歩く姿だったのである。そこに導こうと筆をとっていたわけではなく、ただ自然と筆がそちらへ傾いたのである。
あの直感が正しかったのか、罪袋が見たただの幻覚であったのかは定かではない。なにしろこの考察を書きだした時でさえ、この考察に蓮子を絡ませようとは露ほども思っていなかったのである。ただ漠然と、幽々子と、霊夢と、そして蓮子を結びつける予感が自分の中にあり、それが「こうだったら嬉しいな」という妄執のエンジンを駆動させ、7000文字弱という妄言の塊を生み出したに過ぎない。
しかし僕は思うのだ。この曇りなく濁り切ったキャラ愛こそが、我々を考察へと駆り立て、筆を走らせる衝動の根幹と成り得るのではないかと。その過程で得た知識や知見は、何の実用性ももたらしはしないかもしれないが、僕らの人生を豊かに彩ってくれる。そこで燃やしたキャラへの愛は、僕たちの人生を確実に鮮やかな色彩で満たしてくれるであろうと。
宣伝
せっかくだから宣伝もさせて貰おうと思うのですが、僕はなんなら作詞を始める前から考察厨であったりしました。けれど、そこにあるのがメロディとの対峙であっても、設定テキストとの対峙であっても、或いは弾幕ごっこへの挑戦であっても、僕にとってのそれは愛するキャラクターの心情の根幹を手繰る為の試みであり、挑戦である事に変わりは無かったりします。こんな妄言に、ここまで付き合っていただいた奇特な皆さんには、ぜひとも僕らのサークルスペースまで遊びにきていただけたりすると嬉しいです。よしなに。
浮世舞うは白鷺の囀る声と散る花
綻びてはまた結び巡る春に桜は舞う




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