東方の用語に「科学世紀」という語が存在する。特に秘封と関わりの深い用語であり、ファンダムにおいてはもっぱら秘封倶楽部、蓮子とメリーのいる世界を示す語として扱われている。
蓮子とメリーのいる世界は幻想郷とは違う我々の知っている「京都」や「東京」がある世界であるが、その科学力は現実のそれよりけっこう進んでおり、食品の合成技術、京都東京間を1時間足らずで結ぶ新幹線(現実世界で走っている東海道新幹線では2時間半ほどである)、重力まで統一された統一理論の完成など、なかなか輝かしい成果が上がっている。
この現実より1世紀くらいは進んでそうな科学力を持つ近未来世界を「科学世紀」と呼びたくなるのはとても分かるが、筆者としてはこの世界を「科学世紀」と呼ぶのに疑問を感じる点が多々存在する。
ここでは筆者の目に見える秘封の世界と「科学世紀」という言葉について持論を述べていきたいと思う。
まず、東方原作において「科学世紀」という語がみられるのは筆者の把握している限りで3か所、音楽CDのタイトル「夢違科学世紀」、同CDに収録されている楽曲「科学世紀の少年少女」、書籍『東方文花帖』でZUN氏が東方の楽曲についてコメントしているコラム記事にある「科学世紀の少年少女」のコーナーである。
このうち、文花帖のコラムは「科学世紀」という語についてZUN氏がどう考えてこの語を使っているのかがよく分かる資料である。一部を引用すると次のような内容である。
科学世紀って言ってもまるで未来を感じない曲。それは当然で、科学世紀という言葉自体が古いイメージしか無いからですね。実際この曲は「科学世紀を懐かしむ曲」という複雑なテーマに挑戦した物です。(中略)レトロな服装を着た少年少女が、オカルト紛いの科学に没頭する世界。そういう幻覚を見ます。決して明るい物では無いけど、常に前向きな世界。セピア色の科学。
(書籍『東方文花帖 ~ Bohemian Archive in Japanese Red.』90ページより引用)
この話からは、ZUN氏の中で「科学世紀」とは未来というより過去のイメージが強いらしい事が感じられる。少なくとも高度に科学が発展した未来をそのまま表した語ではなさそうに見え、どちらかと言えば過去に語られていた「未来」の像、すなわちレトロフューチャーを指しているように思える。
かつて昭和後期の子供向け雑誌などでは「未来予想図」というものがよく描かれていたそうで、そこには銀色の服や空飛ぶ車を代表とする「未来的」な夢想が想像上の21世紀を彩っていたという。この未来予想図に描かれた世界は、科学の進歩した来世紀という意味で正しく「科学世紀」であると言え、ZUN氏の言う「科学世紀を懐かしむ」もこのかつての未来予想図を想っての言葉である事は間違いないだろうと思われる。
また、夢違科学世紀のブックレット内、楽曲「科学世紀の少年少女」の項には曲名の横に副題のような形で「21th Century Boy and Girl」と書かれている。先述の「科学世紀を懐かしむ」の概念と併せて考えるに、この「21th Century」とは現実の21世紀(夢違科学世紀は2004年発表のCDである)の事ではなく、かつての未来予想図に描かれていた夢想の21世紀である事は間違いないだろう。
翻って、秘封の時代は21世紀初頭に描かれた、進んだ科学力を持つ世界である。しかし未来の科学に夢を見ていた未来予想図と違い、秘封の世界は科学力は進んでいるものの非常に暗い雰囲気である。メリーは子供たちが笑って歌い踊る夢を見てこんな国に住みたい=現実の国はそうではないと思い、蓮子もこの国の子供たちは楽しくなさそうに見えると言っている。夢想は夢想でも悪い夢想である。
夢違科学世紀の「夢違」とは悪夢を良い夢に変えるまじないの事や、悪夢の予言を打ち破る事を指す単語であり、明らかにこの秘封の世界は実現したい夢ではなく、夢違うべき悪夢の世界として描かれている。
ZUN氏のいう懐かしく前向きな「科学世紀」とは鏡写しのように対照的な世界であるように思う。
一旦「懐かしき科学世紀」の概念を横に置いて、この言葉をただ単に「科学の時代」として考えたとき、それなら秘封の世界は「科学世紀」と呼べるかと言われると、むしろさらに「科学世紀」と呼ぶにふさわしくない姿が見えるように思う。
それがもっとも端的に記されているのはCD伊弉諾物質のブックレット、楽曲「日本中の不思議を集めて」の項である。
そこではこのように書かれている。
人はいつから不思議を受け入れなくなったのだろう。
暗闇に火の玉が浮かんでいれば、昔は死者の無念の魂だとか、狐が人を騙す時の火だとか言ったものだった。
そこには深い想像力があった。
科学が進んでも、想像力が重要なのは変わらなかった。科学の大半は想像力で出来ているからだ。火の玉は燐の自然発火だとか、プラズマだとか、脳の仕組みで起こる錯覚だとか想像した。
しかし、情報化社会が進むと想像力は死滅した。
情報が誰にでも平等に与えられる物になった時代に想像の余地は無かったのだ。
火の玉の正体は与えられた情報の海の中に必ず答えがある。無ければ、何かの間違いで片付ければ良い、と。
(CD『伊弉諾物質 ~ Neo-traditionalism of Japan.』より引用)
「情報化社会」は現実の21世紀に到来した概念であるが、秘封の世界においてはその力は現実のものよりさらに増し、科学に重要な想像力さえ殺してしまったという事が読み取れる。すなわち秘封の時代はもはや「科学世紀」ではなく、「科学が死んだ世紀」であるという説である。
同「伊弉諾物質」では秘封の世界の人間は大抵の病気を治療でき、どうしても治療できない先天性のものは病気ではなく個性として扱う事で、治らない病気は「存在しない」という事になっていると書かれている。これは秘封の世界の人間が「世界のすべてを手中に収めた」と考えている事の一例であろう。
また、「大空魔術」では観測に必要なエネルギーが物理的に用意できないという理由でミクロの世界の物体の観測に限界が訪れ、物理学は事実上終焉を迎えたとも書かれている。解釈の余地こそあるが、新しい領域には物理的に入れないという状態である。
これらの描写から考えられるのは、秘封の時代は解ける謎はすべて解け、解けない謎は「存在しないもの」として扱われているという事である。実際、現実の科学においてもビッグバン以前の世界やブラックホールの内側といった物理的に観測できないものについては「因果律的にこの世界と関係しないもの」として科学の対象から外れる事例がある。
科学とは観測を重ねデータを集めそこに通底する法則を想像し、考案された法則に沿う新しい観測結果によって「正しい法則」の地位を与え、その法則では説明できない観測結果が現れたらそれも説明できる新たな法則を考え出すという事の繰り返しで、未知のものを既知に変えていく学問である。思うに秘封の時代は観測できるものは科学者たちの想像しうる限りすべて観測し、そのデータがすべて噛み合う法則を考え出し、すべてが「既知」になった世界なのだろう。
それは確かに科学の一つの勝利ではあるが、東方の世界は人の「想像しうる限り」を超えた世界が広がる世界観である。実際、鳥船遺跡でケガをしたメリーは作中の科学では説明できない症例として扱われており、決してその科学は完全無欠ではない事が示されている。
しかし、作中でメリーの症例は「存在しないもの」として隔離され握り潰されている。メリーの症例は科学者たちの想像しうる範囲の外側であったのは確かであろうが、物理的に観測できずデータが取れないブラックホールの内側とは話の違う、今目の前で起こっている前例のないデータである。それを握り潰すのは未知のものを観測し既知に変えていく営みである科学とは真逆の、未知を否定し無視する姿勢に見える。
これは秘封の世界を科学の時代、「科学世紀」と呼ぶにふさわしくない理由として決定的であると思う。
ただし、読者としてこの世界は「科学世紀」ではないと思う一方で、この世界が「科学世紀」を自称していそうなイメージもまた非常に強い。
先に述べた通り、この世界は想像しうる限りすべてが既知になった世界で、それは科学の大きな成果であり、その「すべて」を記した情報たちに「科学」の名が冠せられている事は想像に難くない。そうして勝利を収めた科学を戴く時代を「科学世紀」と呼ぶのはまったく自然な事だろう。
筆者は基本的に秘封の時代を「科学世紀」とは呼ばないが、秘封の時代を指してあえて「科学世紀」と言う場合、このような「僭称」のニュアンスが強く含まれる。
伊弉諾物質では秘封倶楽部は不思議を受け入れ、留まる所を知らない想像力を持つ者として描かれている。
秘封の世界の科学は多くを既知にしたが、ある壁にぶつかった所で歩みを止め、その壁の外側の未知を存在しないものとして扱い黙殺した。秘封倶楽部はその壁を打破しうる存在として描かれ、さらなる未知に迫る可能性を読者である我々に強く感じさせる。
未知を既知に変えていく営みである科学により寄り添っているのが科学世紀を僭称する秘封の世界ではなく、霊的・オカルト的な「非科学的」な世界観を持つ蓮子とメリーである事は、ZUN氏の辛口な皮肉を感じさせる所である。
余談
以上の話は初めてまとまった文章にしたものだが、散文の形では昔からTwitter(自称X)やBlueskyなどで折に触れて話している話である。
個人的には別に他人に秘封の時代を科学世紀と呼ぶのをやめさせたいという意図まではないのだが、数名のフォロワーが秘封の世界を話題にする際に「科学世紀」という語を明らかに避けるようになったのを観測している。
自意識過剰かもしれないが、発言の責任というものを感じる一件であった。

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