個人的には、東方世界の神や妖怪は「例外なく、存在全て、又はその一部が、精神を持つ存在からの想いで成り立つ」と考えています。そして、天界や死後の世界等の異界も「想いによって成立する」ものだと。
そしてそれに伴い、創造神等の「周りに信仰や畏れを向ける存在が居ない時代に生まれた・存在していた神や妖怪」、これが「想う人間が居ないのだから信仰や畏れを必要としない存在」とするのは早計と捉えています。
というのも、そもそも「信仰や畏れは概ね『その存在の発生より未来から生じて届く』もの」と思われる為です。
例えば妖怪「山彦」は「山への声の反響」に対する畏れから生まれるのでしょう。しかし、「山への声の反響」への畏れを人間が覚えた「その瞬間、その時代に」妖怪・山彦は生まれたのでしょうか?
いえ、その恐れの感じられ方を考えると「今まで生じていた山彦現象全てが妖怪・山彦の仕業だという事にされる」ので「妖怪・山彦は遥か過去から存在していた事になる」のです。妖怪は「未来の人間の畏れによって過去に生み出される」のだ、と。
これは神話から生まれる神も同じ。人間が神話を作った、その神話は「昔の出来事」と言うテイで語られる訳ですから「神は未来から来る信仰によって過去に誕生する」という事になります。
それなら、「創造神の神話」も「未来の人間が創造神を想って神話を作り、それにより過去に生まれた」という事になるのでしょう。
また、このような「想いによって生み出される」というのは「世界ごと」という事になるでしょう。
「想った存在が居る世界の直線状の過去に遡って生み出される」のではなく、「過去に渡って、その神や妖怪の存在する別の可能性の世界が発生し、それが想像を行った人間達の居る世界に合流する事で具現化する」というロジックです。
その為、「太古の神々が存在する世界」と「神々なんてものは居ない、恐竜や原人の闊歩する世界」は双方を否定するのではなく両立します。
加えて、これらの「想いによって成り立つ存在、世界」と「想う存在」の間には優劣はないとも考えています。
「創造神や太古の神々が人間の想像如きに頼っている」という話では無く、「想像と実体の間に、完全な正体の確定がもたらされるまでの間は優劣や明確な差異は無い」という事です。
「胡蝶の夢」の表裏、「蝶として送った一生の夢」と「人間である現在」は「どちらが夢なのか」を何らかの方法で確定されるまでは「どちらも夢と現実、どちらである可能性もある、故に等価」という事です。
創造神神話、太古の神々の世界、天界や死後の世界。
これらは、既に忘れられる事も完全に否定される事も出来ず、確立した「神話」「伝承」として口伝、書伝によって世界に広く流布され、解釈は分かれど多くの人間が認識している・今後認識しうる可能性が存在している以上、既に「一つの確立した世界、可能性」として成立しきっていると考えます。
……逆に、「想いの力を全く受けていない、信仰や畏れとは全く無縁な神や妖怪」というものが存在したとして。
東方の世界観、世界システム的に「知られ、性質を表す名を付けられ、多くの人間に認識された」時点で「問答無用で想いの力は受け取ってしまう」ものと思われます。「斬り落とされた鬼の腕」や「一時期人気者になったアザラシ」まで受け取ってしまっているのですから。
そうなると、「既に知られている神や妖怪」は「想いの力を受け取ってしまっている」事になる訳で。「元からの力」なのか「想いを受け取った結果過去に遡って『得ていたことになった』力」なのか、そこに区別が付きません。
区別が付く方法、それは「本当に想いを全く受け取らない」事。つまり「名前も存在も誰も認識せず知られていない」事です。それなら間違いなく「過去から未来に渡って全く想いの力に依らない」存在という事になります。
しかし、そうなるとそれは神でも妖怪でもなく「誰にも知られず隠れ住んでいるだけの怪生物」という事になってしまうので……
よって、想いの力が時間を、世界を越えるものであると思われる以上「全ての妖怪、神などの存在や異界は想いによって成り立つ」と考えます。