西行寺幽々子の愛国者という肩書について

西行寺幽々子は外の世界、つまり我々の生きる日本を愛する愛国者であるとされている。これについての詳細な探求は外の世界についての西行寺幽々子の発言があったのかあったなら如何なる発言なのかをまとめる必要があるが、今回は簡単な所感を述べるに留まるので後に本気になればこれについて取り掛かりたいと思う。今回は西行寺幽々子という亡霊は如何なる愛国者なのかというのについて、私の所感を述べたいと考える。其の為にはまず冥界について述べる。

まず冥界とは閻魔の裁きの後地獄行きを免れた魂の、成仏か転生かの待合室である。そしてその冥界の幽霊の管理をしている家系が西行寺家である。冥界は四季が存在し、春になれば一面の桜が咲き誇るとされている。冥界に四季が存在しているのは、つまり顕界の日本と同じ時空間の原則によって冥界は構成されているということである。対して地獄には四季が無いと考えられる。何故なら自然と生命という存在が無いからである。これは東方三月精四部にてクラウンピースがヘカーティアに自然と生命について学んでもらいそれを最終的に地獄に再現しようとしたことから分かる。(クラウンピースは妖精、つまり生命の象徴、故に何かすれ違いを感じるがここではそれについて考えないでおく、多分だが地獄には顕界のそれとは違う決定的な何かが欠落してるか付与されていると考えられる)四季とは自然の移り変わりそのものであり、生命と季節の関係はお互いに密接である。季節の変動により生命はその活動、様態を変化させる。季節は自然の移り変わりそのものであることから、自然の権化たる妖精に、春告精という存在がいるのも頷ける。求聞史紀にも熱くなったり寒くなるなどの様々な現象一つ一つに妖精は宿るとされている。冥界は死後の世界でありながら、その世界は顕界と同じ世界観を共有している。これは幻想郷における顕界と冥界の接続地とも言える無縁塚という存在についても何かしらの関係性が考えられる。そこから導き出される仮説として、白玉楼は無縁塚に存在していたが八雲紫が境界操作により白玉楼を冥界に接続した説などがある。無縁塚については後にまた少し触れる。今それについて詳しくは触れない。幻想郷は地獄とは明らかに明確な境界を持っているが、冥界はそうではない。勿論冥界への正規ルートは、死んだ後に中有の道を通り、三途の川を渡り、彼岸に至り裁きを受けた後に行くルートではあるのだが。とはいえ生と死という境界が大前提であると考えるならば、冥界が地獄よりも顕界寄りな環境にあるのは歪であると言える。今はその境界に穴も空いてしまっているのだから大分不安定と言えるだろう。実際その歪さについて四季映姫が興味深い発言をしている。魂魄妖夢に、顕界への往来の多さを咎めると同時に、「生きている者とは同じでは無いし、死者でも無い。その不安定な位置に居るから、冥界に住め、幽霊も斬れる」と花映塚内で説いている。我々人間、否、死んだ後だから幽霊だろう。我々?幽霊にとって冥界はあくまで待合室、つまり通過点である。冥界の幽霊はまだ迷い(不安定な状態)に晒されそれを断ち切れていないのだ。故に輪廻転生を元から必要とする。だからこそ不安定な冥界は待合室としてうってつけである。魂魄妖夢はそんな冥界の通過点という理を逸脱している存在だ。冥界そのもの、つまり不安定な主体状態(半人半霊)をしているが故に冥界に留まっているのだろう。このことについては幽霊の迷いを断ち切ってしまう白楼剣も関係してくるはずだ。対して西行寺幽々子はどうか。求聞史紀には西行寺家について冥界の桜とともに永住を許されてる家系と述べられている。この許可は閻魔が幽霊の統制を取れる能力を買ってその管理を命じてるからである。とはいえ西行妖と幽々子、冥界を切り離すことは難しい。許されてるという形だがこの亡霊にはむしろここにいてもらわなければ大変なことになってしまうだろう。冥界の理を逸脱する二人が冥界を管理しているということだ。東洋では陰陽のように相反するような物同士の存在が存在を成り立たせているという考え方である。故にこれもその類を感じさせる。また冥界の空間については特筆する点がある。冥界の空間、その権限については閻魔にあるという点である。求聞史紀にある、西行寺幽々子の説明欄の幽霊移民計画の項を見れば分かるが、冥界の空間拡張を閻魔が行っている。少なくとも冥界の空間を如何に制御するかは閻魔の権限であることが分かる。冥界は地獄に対して明確な境界があると同時にその運営には地獄(是非曲直庁)に一部権限があると言える。閻魔の名前は四季映姫であり、四季を映す姫と単純に解するならば≒生命を映す姫とも言えるだろう。四季により映し出されるもの、それは各生命の潮流に他ならない。そしてそこには白黒付けるという目的(能力)とどう関係があるかという問いが生じてくるが、しかし今そこには触れない。

ここまで冥界の世界観について纏めた。今までの纏めからして、西行寺幽々子が管理しているものは、冥界そのものというより、そこに存在する凡庸な幽霊であると言えるだろう。そんな西行寺幽々子の出身地は都の方である可能性が示唆されている。彼女のスペルカードに亡郷という単語がある。この点からも彼女は元々日本、大和の国に関係性のある人間であることが分かる。彼女が日本を愛するのは故郷であるからだろうか、私はそれだけではないと考える。とはいえこれは東方という世界観は日本の世界観や思想を、zun氏の中で解釈され、それが反映されたものであるという私なりの幻想郷、東方Projectに対する一つの仮説、解釈に大きく基づくものなので、あまり強く申し上げるべきものではないのは承知である。そこを敢えて申し上げるならば、西行寺幽々子はずばり死に関する日本人の捉え方の象徴であり、かつその思想そのもの側から見た我々日本人というまなざしが愛国者という表現にもつながったものと私は考える。同時にそれは幻想郷と冥界の世界観にも当てはまるだろう。死への誘いや死との距離感について柳田國男はその著書『先祖の話』で分かりやすくまとめている「日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持を、抱いていた(中略)第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くは行かぬと思ったこと、第二には顕幽二界の交通が繁く、招き招かるることがさまで困難でなきように思っていた」と書き記されている。同じような描写は集めたらば切りが無い。平田篤胤の霊能真柱は極端だが極楽浄土や地下の黄泉の国も拒否している。また慈円は『愚管抄』にて、頼朝の天下平定は、宗廟の神(冥)もそれが理に適うと認めたものであるが、冥界では平家の怨霊がまだ影響を保っていることを注意として書き加えている。これはつまり、顕界はそれ自らの意思だけでなく冥界の動向に応じて事が運ばれているということである。このように顕界と冥界は応じ合うものとされてきた。花映塚における顕界の現象も、やがて冥界に幽霊の混雑を巻き起こすように。そんな日本では死した魂は蝶や蛍となって帰って来るという言い伝えは多い。例えば宇治川の蛍や八幡の蛍などだ。先の大戦の戦死者の魂が蝶になり帰ってきたという話も遺っている。西行寺幽々子は蝶を扱った弾幕やスペルカードを使用しているのは、彼女が死した魂自身であり、それらを操ることができるからだろう。更に皆まで言うものでもないが、桜と日本人の死について改めて申し上げる必要もあるまい。桜は始まりの季節でありながら終焉を思わせる。神道には産霊という思想があるが、これはムスヒ、つまり結びという言葉に終わりと交わる瞬間の2つの意味があるということである。またムスコなどといった新しき生成を意味する言葉に通じることから、終わりと始まりの2つは縁起を成し、新しきを産むという思想がある。無縁とは縁が無いという意味ではない。無という言葉は東洋では前向きに捉えられるとされる。それは無限の可能性などといった考え方であり無縁塚も外の世界からの可能性が頻繁に発生する。また無限というようにそこに極まりは存在しない、つまり境界が曖昧なのである。それは悟りの極地、往生である。このように西行寺幽々子、またそれを取り巻く環境は日本人の死についてと密接な関係性が見いだせるのである。さて、本当はまだ核心に至れた気がしないが、話すこもそろそろ無いのでを西行寺幽々子の愛国者ということについてまとめ、いや赤裸々に述べようと思う。

赤裸々に言いたいことを言えば幽々子は観音様の如く我々衆生に優しく微笑みかつ“死してなお、愉しく”ということを示しているのだということ。彼女が食いしん坊なのは私達が亡き者達に沢山お供え物をし、先祖を厚くもてなしている証拠だということ。そういうことを述べたかったのである。もはやそれは考察でもなんでもないのだが。冥界も顕界も我々は多分どちらも経験したことのある場所であろう。何故ならば我々は輪廻転生の途中の存在であるからである。解脱し天界に迎えられ天子に会えるのは何時になるのだろうか。冥界における考察から導き出される愛について、私は凡庸な者の一旦の終わりには懐かしさのある一時の安らぎで迎えてくれるということを感じる。しかしそれは通過点であり、我々はまた自分の迷いと向き合い顕界に転生し善行を積まなければならないのだ。幽々子はそんな我々をどんな顔して見送ってくれるのか、私は笑顔だったと記憶している。彼女は死を誘う能力を潜在的に秘めている。それは私達日本人が、死という存在に何らかの幽玄の美を感じることの裏返しでもあるだろう。無縁塚の紫の桜は一年に一度、袖を濡らすように散り、それは無縁塚が涙する如きものと幻想郷縁起には記されている。私はそんな無縁塚に幽々子はその従者を連れて佇む姿を幻視する。幻想郷でも屈指の儚さの境地であろう。罪を犯した者の咲かすその桜が咲く時、彼女はこの国の人を想い涙したのだろうか。何よりも死んだ魂の管理者(永遠の少女)が、今なお生きる我々日本人を愛してくれているのは、やはり素敵だと思う。顕界に成されてきたものは亡くなった者達が我々に遺した愛の結晶である。これが日本人の死生観のやはり根本的なものであり、それが西行寺幽々子が愛国者である一番の原因であるのではないだろうか。

最後に考察投稿の場においてこのような自分の思い全開なものを投稿したことを謝罪します。また、このような素晴らしい場を設けてくれた鴨居能嵎さん達にはこの場を借りて感謝申し上げます。

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