返信先: 転生における「魂」の語の用法について

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#3570
V層もどき
参加者

・魂魄をまとめた概念というのは妥当か(文中での魂(たましい))

東方においては、ある概念・事象について、それを表現する主体によって異なる言葉で表現されることがあります。
(例えば、永夜抄においては、魔法について「古代の力のコピー」と表現され、茨歌仙においては、「全人類の気質」と「阿頼耶識」とが同じものであるかのように表現されています。)
これを踏まえると、作中において、ある主体が魂魄思想について受容している・知悉している・仄聞していることは、直ちに作中世界が普遍的に魂魄思想によって構成されていることを必ずしも意味しないと考えます。
ある主体の表現は、その主体の記憶や感覚によってそのように見えた・感じたことを示しているに過ぎないと考えます。
このため、作中の概念について作中の表現をもとに検討する場合は、その表現が示された文脈や主体を踏まえて検討する必要があると考えています。

・輪廻転生における「魂」はどのようなものか

輪廻転生の文脈における「魂」については、神主がこれまでに輪廻転生や魂について述べた言葉からその意味に近づくことができると考えます。

神主は、第3回東方シリーズ人気投票の藤原妹紅の項にてこう述べています。
「人間である一番の憑拠は、人間であると言う想い。DNAはその次である。」
人間が人間であるということは「人間であると言う想い」であるとしています。これは魂に相当すると考えます。
(魂魄を別個と考えるなら、DNAをはじめとした「心・魂でなく肉体の根拠となるもの」は魄とみなしてよいかもしれません)

神主は幻想掲示板での2005年1月31日(月)02時13分の投稿『ゲーム学』にてこう述べています。
「ただ読んで聞いて真似してを反芻するだけでは、決して理解には至らない。考える事も含めて初めて形に至るのです。どこぞのゲームみたいじゃないですか。」
「最終的に面白さを感じるのは、考えることの出来る人間なんだ。 同時にその面白さを創れるのも、考えることの出来る人間だけだ。」
「ゲームをより高いものに持って行くのに重要なのは、理論ではなく哲学。実学ではなく虚学。結果ではなく経過。主食ではなくお菓子。まぁなんでもいいや。」
「工場で生まれたクローンの腕は、高い実用性を持つしそれで商売も出来るでしょう。しかし、その腕には魂は宿らないし個人の名前も付かない、と考えているがいかがだろうか?」
「人間が居ない世界での議論。そこに残るのは結果と真実と理論だけと言うこと。」

ここでは、「魂が宿った」ものが「他者によって個体名が名付けられる」ものであると示されています。
また、「面白さ」「ゲームをより高いものに持って行くもの」と魂とは同義であると示されています。
よって、魂とは、哲学・虚学・経過の産物であり、主食や簡素な衣服のような必然によるものではなく、お菓子やフリルのような選択によるものであること、考えることによって感じられ、考えることによって創られるものであると示されています。
魂を感じる・見出すのは考える人であり、魂を創る・生み出すのも考える・選択を行う人であるということです。

我々が「魂が宿っている」と感じるのは、その対象が「生きている」と感じるときです。
我々が「生まれ変わっている」と感じるのは、その対象が「魂を受け継いでいる」と感じるときです。
我々が「魂を受け継いでいる」と感じるのは、その対象の振る舞いに「ある存在の振る舞いが受け継がれている」と感じるときです。

これを踏まえると、魂とは、可能性を胎蔵した動的プロセスであり、そのプロセスが他者によって弁別可能であるもの、と言えます。
(ここでいう、可能性を引き出す行為・プロセスの駆動は、魂を感じる主体によって行われるものです)

>永夜抄の妹紅との会話では「魂を失った肉体はすぐに滅ぶ」と「魂」を魄に近い意味で使用している場面があります。

「魂を失った肉体はすぐに滅ぶ」とは、肉体が、死んでいる・結果になっている・可能性を失っているということ、複製・反芻の産物となっているということであり、肉体が滅びるというのは必然であるといえます。
「考える事も含めて初めて形に至る」とは、考えることによって創ることができる・可能性を形にできるということであり、例えば、それによる被造物には肉体も含まれます。(これは、憑依華における憑依に係る肉体の振る舞いや、七夕坂における「古典的な意味での物質は存在しない」という話と整合的です)

神主は東方書譜での2003年11月3日(月)00時49分の投稿『文化の日も』にてこう述べています。
「続編は発展や成長させたものとも言えます。」
「材料から完成品になることは、決して成長では有りません。」
「木から椅子を作るように、材料を含みながら、全く別の物に生まれ変わる事。」
「これは材料としての存在を消す(無かった事にする)事で、新しい作品になると言う訳なのです。」

ここでは、「生まれ変わる」ことについて、「もととなった材料を含みながら、全く別のもの・作品になること」であると示されています。
これはメタにおいては、過去作や参照した他作品、自身の体験をもとに作品が創られることを示しています。
この場合に、「魂を受け継いでいる」と感じるのは、作品・表現の中に、過去作や参照した他作品、神主自身の体験が、形を変えても存在していると他者が弁別したときです。
(これは、東方の作中において諸々の形で表現されている概念なのですが、例えば、「血」として表現されています。「地の底の血の池地獄」や「吸血鬼」などの表現はそれを踏まえてのものです)

そしてメタにおいての輪廻転生・生まれ変わりと魂との関係性に対応する形で、作品内の輪廻転生・生まれ変わりと魂との関係性も存在していると考えます。
(例えば、茨歌仙44話『寿命を超越するもう一つの手段』における仏舎利・練り上げられても元の材料の色を模様として残すやしょうま・聖人の神性にて表現されているものはそのひとつと考えます)

輪廻転生という文脈においての魂という言葉の意義については、東方の作品外・作品内について、それぞれ以上のような意味であると考えています。