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・同じ一つの場所から石油と血液の二通りの解釈が生まれているのか、違う場所にあった本質的に同じもの同士が合体しているのか
答えそのものではないのですが、なにか参考になれば、との思いから、メタなお話をご紹介します。
神主は、5年ほど前に、心の裡に溜め込んだ感情・想いと、そのアウトプットについて語っています。
2019.05.26 ポリポリ☆クラブ第93回「集え!作る人と遊ぶ人!~2人の距離は秒速ポリ☆メートル~」
18分15秒頃から
◆作り手とファンとの距離感について
ZUN:結構、多分、この話で一番ごちゃごちゃしているのは東方ですよ。世界一ごちゃごちゃしてるんじゃないかな。
「作っている」とか、「遊んでいる」とかのようなジャンルがない、だからまあ、「あそこに|来ている人たちはみんな参加者だ」みたいなぐらいのことになっていると。
やっぱりその、ゲームを遊ぶこと自体が僕は「クリエイティブじゃない」とは思わない。
ゲームを遊んで、なにかいろんな感情が起こる、ね。
実際に絵を描かなかったとしても、なにか感情が起こっている人はもうクリエイティブな感じになっている。
それをどうアウトプットするかだけなんで。
今だったら、「プレイしてるだけ」も実況動画とかで一応クリエイティブになるから。
もう別に、わざわざ絵を描かなくたって、曲を書かなくたっていいんですよ。
「自分がこんだけ好きだ!」ってアピールするだけでも、だいぶ、他の人から見たら新鮮だったり、クリエイティブの部分が多いので。
ここはやっぱり、「一億総クリエイター」ですよ。
吉永:文字だけの感想ツイートでも、それによってやろうとする人が現れたり。
他人の心を動かしたら、もう一部クリエイティブだってことですよ。
「このゲーム、人生で一番面白かった」みたいなことを書いたら、それを見てやろうとする人もいるじゃないですか。
ZUN:それをアウトプットしないで、裡に溜めてる人だって、もう、いつか爆発する可能性だってある。
ずっと溜め続けているような人もいますけど。
ここでいう、「裡に溜まるもの」が穢であり有機物であり生命の活力・変化の種子であり、機縁です。
内側に溜まるそれらをアウトプットするならば、それは石油や核分裂・核融合燃料のように振る舞うでしょう。
一方で溜め続けたそれが、アウトプットすることや自分の心を動かすことを拘束してしまうならば、それは亡者の血や厄、怨霊のように振る舞うでしょう。
また、神主は、獣王園リリース直後の2軒目ラジオにて、ちやりの服装や曲、あり様について語っています。
2023.08.31 2軒目から始まるラジオ(第156回)
52分46秒頃から
◆ちやりの塩基コードと饕餮文について
ZUN:あの、(ちやりの)服の、裾とか模様も見ました?
(略)
ZUN:ああいうとこ、すごい凝ってるんですよ。
(略)
ZUN:なんて書いてるか、あとで考えてみてよ。
(略)
ZUN:こういうのをね?細かいとこを見てくと、意外とデザイナー考えてるなって思うよ。地獄のデザイナー。
(略)
ZUN:あれが、(塩基配列コードでありつつ)饕餮文に見えるんですよ。
ここで、饕餮文というのは、紋様であると同時に、神主が頻繁に参照している諸星大二郎作品(孔子暗黒伝)によれば、器に刻みつけられた魂魄の形です。
血液は、生命の活力・変化の種子であると同時に、連綿と連なる過去の生命の遺伝的記憶、生命の化石であり、更にはその血の主の魂魄の形の一部でもあるということです。
2023.08.31 2軒目から始まるラジオ(第156回)
59分05秒頃から
◆ひきこもりの幸せについて
ZUN:(ちやりの曲が)ここから気持ちいい。やっぱ、ひきこもりの気持ちよさがある。
(略)
ZUN:これはひきこもりもねやっぱ、幸せなんだ。そういうのをすごい出してる。
ここでいう「ひきこもり」は、アウトプットに至らずとも、自らの裡に溜めた心の動きを楽しんでいる人ということです。
意味合いとしては、鬼形獣における瓔花の賽の河原での石積み、完成に至らずとも楽しんでいる話とも同様です。
つまり、石油・血液とは、世界に継承蓄積された記憶であり、血統に継承蓄積された記憶です。
それら他者の記憶を取り込んで、自らの中で楽しむこと・糧とすることも、別の形を新たに取らせてアウトプットすることも自由です。
「記憶」に着目すれば、「同じ一つのもの」と捉えても妥当でしょうし、「誰の血・誰の遺物・誰の記憶か」に着目すれば、「別の場所・別の存在によるもの」と捉えても妥当と考えます。
どのような解釈にせよ、形をなした記憶であり、同時に新たな姿に変ずる可能性を内包したものであり胎蔵されたもの、という点から外れなければ、いかようにも成立するのではないかと考えています。