>東方の世界では、神・妖の類は人間からの信仰により存在しているとされています
>「神々が大地を作った」 伊弉諾物質にて「伊弉諾が日本を作った」
結論から言うと、いずれもその通りです。(それを実現するような世界構造が存在しています)
まず、「東方の世界」には広義・原義のものと、狭義・その都度の方便のものとの二種類があります。
広義のものは、「可能性上ありうるすべての世界を包含した世界」です。
これは神主の作品においてその都度色々な呼称で呼ばれています。
例えば、七夕坂夢幻能においては「夜」と呼ばれています。東方夢時空においては「可能性空間」と呼ばれています。
以降、簡単のために、これを「大世界」と呼称します。
狭義のものは、「ある作品、ないしは誰かの認識によって明らかになっている世界」です。
例えば、七夕坂夢幻能においては、『夜じゃなくてもお化けはいるから』における「夜じゃない」世界であり、「この世」と呼ばれているものです。
以降、簡単のために、これを「小世界」と呼称します。
また、それぞれの場合によって、この「小世界」は異なるものとなります。
例えば、東方紅魔郷という作品においては、その作中の世界が「小世界」であり、更に、その中で例えば霊夢が目にしている世界が「小世界」です。
この場合に、紅魔郷の小世界と霊夢の見る小世界とは重複・類似しつつも、究極的には異なる小世界となります。
その上で、そうであることは世界の構造上問題となりません。
(燕石博物誌において「メリーによると、人はそれぞれ僅かに異なる世界を見ているのだという。」「興味深い事に、違う世界を見ていてもコミュニケーションは成り立つらしい。」と述べられている通りです。)
さて、「大世界」は、その定義上、あらゆるすべての「小世界」を包含します。
別の言い方をすると、「大世界」をなんらかの手段によって切り取ったものが「小世界」となります。
これを踏まえると、小世界とは「誰かの認識によって、可能性空間が切り取られた世界」となります。
ここで、「誰かの認識」とは、いかなる存在のいかなる認識によるものでも構いません。
感覚であっても、想像であっても、認識の範疇です。
つまり、誰かが「神々が大地を作った世界」を想像していたなら、それは「小世界」として存在しています。
誰かが「伊弉諾が日本を作った世界」を想像していたなら、それは「小世界」として存在しています。
例えば、伊弉諾が日本を、国の形を想像、認識したなら、伊弉諾の眼前には実際に日本が存在しています。
これは伊弉諾が認識によって「無形であり可能性を有する存在」・「夜」から、「有形であり可能性を失った存在」を括りだしたということです。
さて、「神々が大地を作った世界」「伊弉諾が日本を作った世界」が可能性空間に包含されているとします。
ここから人間の信仰・認識が問題となります。
大世界・可能性空間はその定義上、無限の広さを持ちます。
その可能性空間において、無限に存在する「小世界」は互いに高次元において接近・離脱し干渉し合っています。
七夕坂夢幻能における「この世の全ては場の干渉」「時間そのものも場の干渉の一つ」とはこのことを表現しています。
(例えるなら、バラバラに散らばった映画のフィルムの一つ一つのコマに映っている図像が個別の「小世界」であり、コマからコマへと小世界を移動し続けている状況が時間の流れと考えても構いません)
ここで、「可能性空間」の高次元において、「自らが起点とする小世界から、ある小世界に接近すること」とは、「ある小世界を認識すること」と等価です。
つまり、例えば、「神々が大地を作った世界」が自らの世界であるためには、「自らが起点とする小世界ないしはその近辺の小世界に『神々が大地を作った世界』を存在させるために、そのように認識をなす存在」が必要になります。
「そのように認識をなす存在」が例えば人間であったなら、その人間の認識が信仰と呼ばれるものであることもあるでしょう。
これは、「神々が大地を作った世界」のみならず、「彼岸の世界」であっても、「天界の世界」であっても、「神・妖の類そのもの」であっても同じことです。
つまり、「ありとあらゆるものの可能性がなににも依らずにあらかじめ存在している」けれども、それを有形・有限の存在とするためには(例えば人間のような)誰かが必要であり、その誰かによる(例えば信仰のような)認識が必要であるということです。