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ニコニコゲスト
東方の世界では、神・妖の類は人間からの信仰により存在しているとされています。
しかし東方緋想天EDにて「神々が大地を作った」 伊弉諾物質にて「伊弉諾が日本を作った」、との記述がある事から、人間からの信仰を必要としない神々も存在すると推察できます。加えて、人間からの信仰(?)を失った彼岸や天界が存在できてている事から、東方世界は必ずとも人間の信仰を必要とせず自立した世界構造であるとも読み取れます。
皆さんは東方世界の構造をどの様に捉えますか?
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takenoko参加者
諏訪子のように純粋な信仰から成り立つ神もいる一方、神奈子のような神霊は元々が人間の亡霊であり、信仰が無くとも存在自体は保てると思われます。東方における広義の「神」とは、種族的なものというより、信仰という外付けのエネルギー源を備えた存在と解釈することができるでしょう。
古い神々の一例として月の民がいますが、彼らは穢れによる寿命を恐れて月へ移り住んだという経緯があるため、ベースは我々と同じ「生物」だと考えることができます。つまり、太古の神々というのは、超古代から生きている生物(古代人?)やその亡霊たちのことではないか……というのがわたしの見解です(ここは諸説あると思います)。
「彼岸や天界」はいわゆる死後の世界として、今でも世界中で信仰されている現役の概念だと思います。妖怪や神ではなく世界そのものが信仰を必要とするという設定はわたしの知る限り無かったと思うので、「自立した世界構造である」という点は特に疑わずとも問題無いのではないでしょうか。 -
貝渦ゲスト
個人的には、東方世界の神や妖怪は「例外なく、存在全て、又はその一部が、精神を持つ存在からの想いで成り立つ」と考えています。そして、天界や死後の世界等の異界も「想いによって成立する」ものだと。
そしてそれに伴い、創造神等の「周りに信仰や畏れを向ける存在が居ない時代に生まれた・存在していた神や妖怪」、これが「想う人間が居ないのだから信仰や畏れを必要としない存在」とするのは早計と捉えています。というのも、そもそも「信仰や畏れは概ね『その存在の発生より未来から生じて届く』もの」と思われる為です。
例えば妖怪「山彦」は「山への声の反響」に対する畏れから生まれるのでしょう。しかし、「山への声の反響」への畏れを人間が覚えた「その瞬間、その時代に」妖怪・山彦は生まれたのでしょうか?
いえ、その恐れの感じられ方を考えると「今まで生じていた山彦現象全てが妖怪・山彦の仕業だという事にされる」ので「妖怪・山彦は遥か過去から存在していた事になる」のです。妖怪は「未来の人間の畏れによって過去に生み出される」のだ、と。
これは神話から生まれる神も同じ。人間が神話を作った、その神話は「昔の出来事」と言うテイで語られる訳ですから「神は未来から来る信仰によって過去に誕生する」という事になります。
それなら、「創造神の神話」も「未来の人間が創造神を想って神話を作り、それにより過去に生まれた」という事になるのでしょう。また、このような「想いによって生み出される」というのは「世界ごと」という事になるでしょう。
「想った存在が居る世界の直線状の過去に遡って生み出される」のではなく、「過去に渡って、その神や妖怪の存在する別の可能性の世界が発生し、それが想像を行った人間達の居る世界に合流する事で具現化する」というロジックです。
その為、「太古の神々が存在する世界」と「神々なんてものは居ない、恐竜や原人の闊歩する世界」は双方を否定するのではなく両立します。加えて、これらの「想いによって成り立つ存在、世界」と「想う存在」の間には優劣はないとも考えています。
「創造神や太古の神々が人間の想像如きに頼っている」という話では無く、「想像と実体の間に、完全な正体の確定がもたらされるまでの間は優劣や明確な差異は無い」という事です。
「胡蝶の夢」の表裏、「蝶として送った一生の夢」と「人間である現在」は「どちらが夢なのか」を何らかの方法で確定されるまでは「どちらも夢と現実、どちらである可能性もある、故に等価」という事です。創造神神話、太古の神々の世界、天界や死後の世界。
これらは、既に忘れられる事も完全に否定される事も出来ず、確立した「神話」「伝承」として口伝、書伝によって世界に広く流布され、解釈は分かれど多くの人間が認識している・今後認識しうる可能性が存在している以上、既に「一つの確立した世界、可能性」として成立しきっていると考えます。……逆に、「想いの力を全く受けていない、信仰や畏れとは全く無縁な神や妖怪」というものが存在したとして。
東方の世界観、世界システム的に「知られ、性質を表す名を付けられ、多くの人間に認識された」時点で「問答無用で想いの力は受け取ってしまう」ものと思われます。「斬り落とされた鬼の腕」や「一時期人気者になったアザラシ」まで受け取ってしまっているのですから。
そうなると、「既に知られている神や妖怪」は「想いの力を受け取ってしまっている」事になる訳で。「元からの力」なのか「想いを受け取った結果過去に遡って『得ていたことになった』力」なのか、そこに区別が付きません。
区別が付く方法、それは「本当に想いを全く受け取らない」事。つまり「名前も存在も誰も認識せず知られていない」事です。それなら間違いなく「過去から未来に渡って全く想いの力に依らない」存在という事になります。
しかし、そうなるとそれは神でも妖怪でもなく「誰にも知られず隠れ住んでいるだけの怪生物」という事になってしまうので……よって、想いの力が時間を、世界を越えるものであると思われる以上「全ての妖怪、神などの存在や異界は想いによって成り立つ」と考えます。
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V層もどき参加者
>東方の世界では、神・妖の類は人間からの信仰により存在しているとされています
>「神々が大地を作った」 伊弉諾物質にて「伊弉諾が日本を作った」
結論から言うと、いずれもその通りです。(それを実現するような世界構造が存在しています)まず、「東方の世界」には広義・原義のものと、狭義・その都度の方便のものとの二種類があります。
広義のものは、「可能性上ありうるすべての世界を包含した世界」です。
これは神主の作品においてその都度色々な呼称で呼ばれています。
例えば、七夕坂夢幻能においては「夜」と呼ばれています。東方夢時空においては「可能性空間」と呼ばれています。
以降、簡単のために、これを「大世界」と呼称します。狭義のものは、「ある作品、ないしは誰かの認識によって明らかになっている世界」です。
例えば、七夕坂夢幻能においては、『夜じゃなくてもお化けはいるから』における「夜じゃない」世界であり、「この世」と呼ばれているものです。
以降、簡単のために、これを「小世界」と呼称します。また、それぞれの場合によって、この「小世界」は異なるものとなります。
例えば、東方紅魔郷という作品においては、その作中の世界が「小世界」であり、更に、その中で例えば霊夢が目にしている世界が「小世界」です。
この場合に、紅魔郷の小世界と霊夢の見る小世界とは重複・類似しつつも、究極的には異なる小世界となります。
その上で、そうであることは世界の構造上問題となりません。
(燕石博物誌において「メリーによると、人はそれぞれ僅かに異なる世界を見ているのだという。」「興味深い事に、違う世界を見ていてもコミュニケーションは成り立つらしい。」と述べられている通りです。)さて、「大世界」は、その定義上、あらゆるすべての「小世界」を包含します。
別の言い方をすると、「大世界」をなんらかの手段によって切り取ったものが「小世界」となります。これを踏まえると、小世界とは「誰かの認識によって、可能性空間が切り取られた世界」となります。
ここで、「誰かの認識」とは、いかなる存在のいかなる認識によるものでも構いません。
感覚であっても、想像であっても、認識の範疇です。つまり、誰かが「神々が大地を作った世界」を想像していたなら、それは「小世界」として存在しています。
誰かが「伊弉諾が日本を作った世界」を想像していたなら、それは「小世界」として存在しています。例えば、伊弉諾が日本を、国の形を想像、認識したなら、伊弉諾の眼前には実際に日本が存在しています。
これは伊弉諾が認識によって「無形であり可能性を有する存在」・「夜」から、「有形であり可能性を失った存在」を括りだしたということです。さて、「神々が大地を作った世界」「伊弉諾が日本を作った世界」が可能性空間に包含されているとします。
ここから人間の信仰・認識が問題となります。大世界・可能性空間はその定義上、無限の広さを持ちます。
その可能性空間において、無限に存在する「小世界」は互いに高次元において接近・離脱し干渉し合っています。
七夕坂夢幻能における「この世の全ては場の干渉」「時間そのものも場の干渉の一つ」とはこのことを表現しています。
(例えるなら、バラバラに散らばった映画のフィルムの一つ一つのコマに映っている図像が個別の「小世界」であり、コマからコマへと小世界を移動し続けている状況が時間の流れと考えても構いません)ここで、「可能性空間」の高次元において、「自らが起点とする小世界から、ある小世界に接近すること」とは、「ある小世界を認識すること」と等価です。
つまり、例えば、「神々が大地を作った世界」が自らの世界であるためには、「自らが起点とする小世界ないしはその近辺の小世界に『神々が大地を作った世界』を存在させるために、そのように認識をなす存在」が必要になります。
「そのように認識をなす存在」が例えば人間であったなら、その人間の認識が信仰と呼ばれるものであることもあるでしょう。これは、「神々が大地を作った世界」のみならず、「彼岸の世界」であっても、「天界の世界」であっても、「神・妖の類そのもの」であっても同じことです。
つまり、「ありとあらゆるものの可能性がなににも依らずにあらかじめ存在している」けれども、それを有形・有限の存在とするためには(例えば人間のような)誰かが必要であり、その誰かによる(例えば信仰のような)認識が必要であるということです。
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東ノ目参加者
東方香霖堂第一部第十五話「名前の無い石」に「この世は様々な物すべてが混ざった混沌の世界だった。だが、太古の神々がこの世の物一つ一つに名前を付けて回り、今の世の様に秩序の取れた世界が生まれた」という記述があります。ここにある、あらゆるものには名前がつく前の状態が存在するという考え方、またこの抜粋に続くモノに名前がつく前の純粋な力こそが神の力であるという考え方は他の作品でもたびたび登場します(手前味噌になりますが本サイトの考察記事『八百万の神と名付けの話』もご参照ください)。
さて、現実世界の神話において物事の区別がはっきりしていない状態、すなわちカオス(混沌)から始まるものは洋の東西問わず数多く存在し、前述の抜粋の通り東方世界においてもこの神話の流れは踏襲しているものと思われます。質問主さんが挙げている情報も日本神話における天地開闢との一致点が見られ、この説を裏付けます。こうした創造神話において人間は世界創造の過程で神の手により創造されるか、人間のはじまりが神話に組み込まれないのいずれかで(ちなみに日本の記紀神話は後者という解釈が一般的です)、どちらにせよ人間の信仰は必要なく世界は創造されるというのが結論と考えます。
こうした必ずしもその成り立ちに人の介在が必要ではない世界に対して人間がどういう役割を果たしているのか、という部分については先に解答してくださった方々との重複になってしまうので私からは差し控えさせていただきます。
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guestゲスト
>東方緋想天EDにて「神々が大地を作った」 伊弉諾物質にて「伊弉諾が日本を作った」、との記述がある
これこそが信仰であり、行為の前に行為者を想定するという態度によって神や妖怪が生み出される例だと思います。何かがある。じゃあその何かを作った誰かがいる。
私達は強い風を伴う降雨を台風と呼び、個別に名前をつけています。このことを台風に対する信仰と呼ぶことができるでしょう。あまつさえ個々の台風に意志を認めることさえあります。人格を投影することもあるでしょう。すると、神様が出来上がるわけです。名前を使うと同一の対象を指示することができます。あのスペカ(例えば「金閣寺の一枚天井」とか)避けられないよね、みたいに。
「そこに名前を持った何者かがいる」と思った時点で居た事にされるわけですね。弾幕の実態は一つ一つの弾ですが、全体として一つのスペカを形作るように見えます。スイミー。
有ると思えば有るし、無いと思えば無いものなのでしょう。だから信仰が要点になるのだろうと思います。 -
海景優樹ゲスト
そもそもの話として、東方Project内において「〝ありとあらゆる全ての〟神・妖の類は人間からの信仰により存在している」と語られてはいないことに留意が必要です。
結論から言えば、人間の信仰に関係なく存在する神・妖、あるいはその他のオカルトはありうると捉えた方が自然かと思います。
まず、おっしゃる通り「神々が大地を作った」「伊弉諾が日本を作った」と記述がある他、へカーティアの存在からギリシャ神話の背景(または、それに近しい神話形態)が東方Project内には存在しているとして良いでしょう。そうした場合、人間の信仰を第一として神が生まれる構図は矛盾しています。自然に考えれば、人の信仰に関係なく神様は存在していることになるかと思います。
あるいは「神話という物語」を鵜呑みにしたらそうなるかもしれないが、それはあくまで「人間の語った話」なのだから、それさえもが作り話・人間の信仰であると考えるかもしれません。確かにそれは面白い考え方なのですが、地の文にて創造神話が示唆されたり、神話上のキャラクターが登場している以上は、その論に力を感じることができていません。また、「神、妖怪、その他のオカルトな存在」に明確な境界はないという点に目を向けてみたいと思います。
例えば、里乃と舞はomakeテキストにおいて「隠岐奈の魔力により人間では無くなっている。」と記述されています。これを人間の信仰による妖怪化と捉えるのは些か不自然でしょう。他にも一輪が人間から妖怪化したケースなど、特定の信仰・想い・謂れ・概念に関係なく妖が生まれたケースは複数あります。
さらに視点を広げてみれば、同じように信仰や謂れに関係がないと思われる固有の能力は(蓮子の眼、菫子の超能力など)妖怪化のケースより多数存在します。信仰や謂れに関係がなさそうなオカルトな能力が存在するのに、神や妖怪に限っては信仰限定の存在である……とするのは、やはり些か不自然かと思います。
神と妖、そして人間の境界はあやふやで、そこに付随するオカルトな要素に必ずしも人間の信仰が関わっていない。作中要素のみを拾うのであれば、そう考えるのが自然かなと捉えています。
もちろん、それらをひっくるめて「全て人間の信仰や想像が生み出したものだ」と論ずるのは面白いことだと思います。しかし、個人的には作中にそのような強い示唆があるとは思えておらず、結論としては信仰によらない神や妖も存在するだろうと考えています。 -
ニコニコゲスト
回答者の皆様、とても含蓄溢れ明快なご回答を頂きありがたく存じます。
皆様のご回答を拝見させて頂いていると、「うみねこの鳴く頃に」のベアトリーチェの言葉「信じれば実在する、信じなければ実在しない」という言葉を思い出します。私達の普段暮らす世界には様々な「神話」や「摂理」が共存していると思うと感慨深い物です。
重ね重ねではありますが、ありがとうございました。
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