「爾子田里乃」と「丁礼田舞」の元ネタは摩多羅神の眷属である「尼子多」と「丁禮多」です。彼女たちの“姓”は明らかにこの二童子に由来しています。
しかし下の名前の方はどうでしょうか。「里乃」と「舞」という二人の名前は一見して元ネタが分かるようなものではありません。これにも何か意味があるのでしょうか。もしあるとしたら、それはどのような意味なのでしょうか。今回の考察ではこの点について考えていきたいと思います。
やや長い記事になりそうなので、先に結論を書いてしまうと「里乃」と「舞」は続けて読むことで「里の舞」になり、それは「山の天狗」と対比になっているのだと筆者は考えています。だから彼女たちのスペルカードに「テングオドシ」があるのではないか…というものです。
それでは以下に、その意味と内容について書いていきたいと思います。
里乃の謎
二童子のうち、名前の意味が分かりやすいのは「丁礼田舞」の方です。この「舞」というのはおそらく舞踊の意味で、バックダンサーである彼女にぴったりな名前です。これは直感的に分かり、それ以上考えなくてもよいと思えるほどに自明なネーミングです。
一方、分かりにくいのは「里乃」の方です。「里乃」とはいったい何でしょうか。筆者は初め、「舞」と対になるような概念で、ダンスに関わる何かがあるのではないかと考えていました。しかし管見の限りではそれらしいものはなく、しっくりくる概念は見当たりません。
そこでむしろ、シンプルに「里の」という意味で解した方が良いのではないか、と思うようになりました。「里乃」の「乃」はひらがなの「の」になった漢字ですので、本当にストレートに意味をとればそういうことになります。
「里乃」が「里の」だとすると、二童子の名前は対になっているというより続けて読むほうが自然です。「里乃」と「舞」は二人で一つの意味、「里の舞」になると考えることが出来ます。
障碍の民と天狗
二童子の名前が「里の舞」だとすれば、気になるのは『天空璋』におけるこのセリフです。
障碍の神……秘神……あ、思い出しました!障碍の民の祖は二つに分かれ、一つは山に棲み、天狗となった。もう一つは仏の後ろに潜み人里に棲んだ。それが障碍の秘神……。もしかして貴方は……!
『天空璋』6面で、射命丸が目の前にいる秘神の正体に気付く、という場面です。このセリフで天狗と隠岐奈らには浅からぬ因縁があることが明かされました。両者は共通の祖先をもつ同類だったのです。
古い時代に存在した「障碍の民の祖」という母集団は二つに分かれて、一つは山に棲み、もう一つは人里に棲みました。山に棲んだ集団は「天狗」となり、人里に棲んだ集団は仏の後ろに潜み「障碍の民」になった……。
また、6面では隠岐奈からこのようなセリフがあります。
あっはっは、これは面白い!後戸の国に天狗とはな!世も末か。本来、私たちは天狗と同じ障碍を司る者だが、住むべき場所は違う。
4面では舞からこのようなセリフもあります。
舞:ほー、天狗……?
文:はいそうです。お話をお聞きしたいのですが、お時間宜しいでしょうか?
舞:だめだめだめ。アンタは同類だが天敵じゃないか。天狗が出てくることも想定していたが驚いたわー。
以上を総合すると、「天狗」と「障碍の民」は共通の祖先を持ち、共通の属性を持つものの、山と里で住む場所が違い、敵対もしている……ということになります。
爾子田里乃、丁礼田舞たちは“この仏の後ろに潜んだ”側の者です。それは簡単に言ってしまえば、人里に住んだ芸能民のことでしょう。元ネタの話になりますが、古い時代の猿楽は寺院の後戸で演じられていたことが分かっています(*1)
「里乃」と「舞」の二人は、そのあたりを端的に「里の舞」という名前で表現しているのではないでしょうか。
天狗オドシと二童子
天狗と敵対するという意味では、里乃と舞はかなり先鋭的なものを持っています。冒頭でも触れましたが、二人のスペルカードには“狂符「テングオドシ」”があります。
これの元ネタの「天狗怖(ヲドシ)」は、比叡山でかつて行われた儀式のようなものです。常行堂の後戸で跳ね踊ったり、経を前後めちゃくちゃに読んだりと、狂気じみた振る舞いをすることで天狗を退ける、という趣旨のものでした。『渓嵐拾葉集』の記述によれば、これは摩多羅神の霊威を発動させ、天狗を調伏する行法であったことが窺えます(*2)
里乃:もー、舞ったらおっちょこちょいなんだから。天狗なんて引き入れてどうするのよ。絶対に怒られるわよ。
舞:いやー失敗したわー。でも僕は怒られるとは思わないよ。僕らの仕事は天狗を退く事だからね。ここでやっつけちゃえば良い。
『天空璋』5面でも舞は「僕らの仕事は天狗を退く事」とはっきり言っています。二人はどうやら対天狗特効のような属性を担っているようです。それゆえ、ことさら「山の天狗」と対比になるように「里の舞」という名前を持っているのではないでしょうか。
それは天狗の敵対者という事を強く意識したネーミングなのかもしれません。
里の修正会と山の修正会
考察としては以上でほぼ言いたいことは言い尽くした感があるのですが、「山と里」というキーワードで考えていたところ、たまたま興味深い文章を見つけたので最後にこれを紹介して終わりにしたいと思います。
翁の発生の母胎は修正会・修二会である可能性が高い。修正会には、京都や奈良の国家祭祀の相貌を持つ「里の修正会」と比叡山、多武峰、日光山などの修行主体の「山の修正会」の二系統がある。能勢朝次の見解に基づいて、平安時代から鎌倉時代初期の修正会で、咒師、特に法咒師は鎮魔や辟邪を行い、猿楽咒師がこの外想を受け継ぎ、広義の猿楽も組み込んだとされてきた。翁の当初の担い手は咒師かと考えられ、その論拠は興福寺修二会二月五日の春日社頭の翁が「咒師法」と呼ばれたことと、咒師と翁の芸態の共通性であった。天野文雄は伊勢猿楽の史料などを根拠に、方堅(法堅)という刀と鉾で四方を祓う芸態を重視し、反閇や地鎮の作法が法咒師から猿楽に伝わったと見る。修正会五日の翁の出現は多武峰や日光山の摩多羅神祭祀の日と一致する。「咒師法」「法堅」「法事」という呪的力を持つ法の展開が、「里の修正会」と「山の修正会」を繋ぐ共通性であろう。
平安時代の京都の修正会の多くは、阿弥陀悔過を行っており常行堂との連続性はある。特に山は阿弥陀の浄土とされ、「山の修正会」は常行堂と結びついて独自の発展を遂げた。そこには修験や堂衆などの修行者も関与し山中の鬼や天狗や荒ぶる神霊を後戸に鎮め、それを統御して法力を誇示する様を芸能化したのであろう。六十六番猿楽は「法事」であった。多武峰の修正会延年では参籠の僧侶が翁面をつけて舞い、摩多羅神の顕現と見なされた。
(『神と仏の民俗』鈴木正崇/吉川弘文館/2001/p319~320)
修正会・修二会というのは正月や二月に寺院で行われた法会のことです。仏教儀礼を中心としつつも、神道的要素、陰陽道的要素、民俗的要素などをふんだんに取り入れた年頭の祝祭でした。だいたい藤原道長の時代から始まり、院政期以降さらに盛んになったといいます(*3)
毛越寺、日光山、多武峰など常行堂のある寺院では、この修正会が摩多羅神を本尊として行われました(*4)
そして特に“多武峰”の修正会において、摩多羅神の前で奉じられた舞が、のちに能楽の『翁』(面ではなく演目としての「翁」)になったと考えられています(*5)
ともあれこのような『天空璋』を思わせる語が乱舞する文脈において「里の修正会」「山の修正会」という言葉まで出てくるのは驚きです。東方のそれと関係するかどうかは分かりませんが「山と里」の対比は何やら元ネタでも意味を持っているようです。
(以下あまりにも細かすぎる話)
上記の引用文では「翁の当初の担い手は咒師かと考えられ」という部分がありますが、これは“咒師の芸から翁猿楽は誕生した”という従来の説をふまえた記述と思われます。しかしこの説には反論があり、能楽研究者の松岡心平氏によると翁猿楽を生み出したのは咒師ではなく、咒師とペアを組んで演技をしていた下臈猿楽という身分の低い猿楽グループだったといいます。修正会において、咒師とこの下臈猿楽は共に後戸に詰めていて、おのおの独立しつつもペアとなって芸を尽くしていたようです(*6)
参考文献
・『能を読む① 翁と観阿弥 能の誕生』角川学芸出版/2013
(*1)p321,(*3)p322~324,(*5)p302,p319,(*6)p347
・『改訂新版 異神 中世日本の秘教的世界 Ⅰ 新羅明神・摩多羅神編』山本ひろ子/戎光祥出版/2024
(*2)p173,(*4)p255
・『神と仏の民俗』鈴木正崇/吉川弘文館/2001


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