考察ではないです、短いのとただ思った事を書き込んだようなものです
ヒソウテンソクについて説明
ヒソウテンソクとは東方緋想天則にて登場した守矢の近くに現れたロボっぽい何か、それ以外不明
出番がこれっきりの存在
本当に存在意義が不明、意味はあるのだろうが明らかに黄昏の悪ふざけで出た感じである、外見も見たことあるデザインを踏襲しつつオリジナリティを出してはいる
扱いにくすぎて存在を忘れ去られてる
文字通りどう扱えば良いか原作者も困っただろうと思われるし、産み出した黄昏が完全に存在を忘れてる辺り完全にノリで出した、稗田の本にも記載が無い辺り本当に存在が黒歴史化してる気がしないでもない
たまにこの黄昏の正気なのか疑う場合があるがこれでも作品キャラの扱いには入るらしい、何か守矢でそう言う関連の売られてたなら良いがそう言う様子も無い
蛇足
香霖堂になら○ジン○ーZとかのDX超合金フィギュアは流れついてるとは思われる
コメント
「ロボっぽい何か」のヒソウテンソクですが、これは、制作者によってそれっぽく生き物であるかのように振る舞う空の器であって、そのようなものを内実の詰まった生き物であるかのように見るのは、単に見る側の問題でしかない、というものです。
これは、(ロボットものとしての)ガンダムやエヴァンゲリオンと同様で、ガンダムやエヴァンゲリオンが生きているかのように動くのは、操縦者による操縦やプログラミングの結果でしかないわけです。(ロボットものの作品にはそうでないようなものもありますが、それは別の話です)
さて、「制作者によってそれっぽく生き物であるかのように振る舞う空の器」を考えた場合に、創作物において「作品に出てくるキャラクター」はどのように考えられるか、という問題があります。
ある作品において、その登場人物、キャラクターが「作中に存在している人形であり、作者の振り付けにそって動いている」だけなのであれば、そのキャラクターは「制作者によってそれっぽく生き物であるかのように振る舞う空の器」に該当するでしょう。
(これは、香霖堂において魔理沙が、アリスと人形とが会話を行うことを指して、「さもしい一人芝居」と評していることと同じ話です。非想天則においてアリスの人形であるゴリアテ人形が現れるのも人形とキャラクターの話をするという趣旨からです。)
一方で、ある作品において、その登場人物、キャラクターが「作中世界に存在している生き物であり、作中ではたまたま作者の意図と同期して動いている」のであれば、そのキャラクターは「空の器」には該当しないでしょう。
このふたつの考え方は作品制作・創作における方法論の違いであって、どちらかが優れどちらかが劣っているという話ではありませんが、神主の創作においては、例えば幻想郷においては、後者の考えが採用されていると考えます。
このために、非想天則において、作中の登場人物、キャラクターとヒソウテンソクとは「別物」と扱われているし、別物であると示すことに強い意図がある、と考えます。
つまるところ、ヒソウテンソクの存在意義は、「生き物でないものを示すことで生き物の存在を浮き彫りにすること」であるし、そのために、キャラクターを収録する幻想郷縁起に取り上げられないのも妥当であろう、と考えます。
ありがとうございます
ヒソウテンソクが作品キャラとしてはあまりにも浮いた感じなのはそう言った意味合いがあったのですな