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一般ぱーぷる参加者
記事制作に向けた文章を書いていたのですが、記事にできるほどの内容にならなかったのでご意見をお伺いしたく思いました。下の箇条書きが主な要点になっていると思うので、それを参考に
無理矢理書き上げた以下の文章をチェックしていただけたら幸いです。
・魂魄をまとめた概念というのは妥当か(文中での魂(たましい))
・輪廻転生における「魂」はどのようなものかスペルカード「三魂七魄」の存在などから、東方の世界観において精神を支える気・肉体を支える気として魂魄を区別する意識が存在していることは確認できます。一方で、魂魄思想の拠り所としている中国の信仰体系では、多くの場合輪廻転生という観念が存在していません。冥界で転生を待つ幽霊がたくさんいるという世界観においてこの「魂」の定義は普遍的なものとなるのか、という点に疑問を感じていたことから、私は転生における「魂」という語の用法について調査したいと考えていました。
仮説として、東方における「魂」は肉体・精神・魂(広義:「たましい」と仮称)の三分立と魂魄論の複合であり、魂(たましい)を精神的なものと肉体的なものに区別したのが魂(狭義:「コン」と仮称)と魄、という風に解釈できるのではないかと考えています。肉体・精神・魂を人間の三要素とする考え方は、西洋錬金術などで登場することがあります。この場合精神と魂の違いが問題になると思いますが、魂魄論と合わせて考えるなら「支えるもの」と「支えられるもの」です。この関係に対して肉体と魄についても同じことが言えるので、「支えるもの」について概念として包括できるのではないかという考えの元、これを魂(たましい)と捉えてみた、という形です。
花映塚では幽霊と魂が同義で使われる場面が多く、幽霊が転生の主体となっていることから魂も同様に輪廻の輪を環っていると考えられます。仮にこれを(輪廻の有無を一旦抜きにして)魂魄の魂(コン)と捉えた場合、転生して新たに生まれ落ちた際魄はどのようにして確保されるのかが不明瞭になります。一方で、これを魂(たましい)と捉えるならその疑問は解消されます。解釈次第では説明を付けることもできそうな微々たる差異ではありますが、より自然という感覚はあると思います。
永夜抄の妹紅との会話では「魂を失った肉体はすぐに滅ぶ」と「魂」を魄に近い意味で使用している場面があります。これも前後の文脈があるので他にも色々な解釈はできるのですが、自分は魂(たましい)の考え方がある上での描写だと考えています。
以上のように、私は東方において「魂」の語が出てきたとき、魂魄の魂(コン)の他にもそれを統括した魂(たましい)として使われる場合があり、こと転生に関する場面では後者なのではないか、という風に考えています。 -
V層もどき参加者
・魂魄をまとめた概念というのは妥当か(文中での魂(たましい))
東方においては、ある概念・事象について、それを表現する主体によって異なる言葉で表現されることがあります。
(例えば、永夜抄においては、魔法について「古代の力のコピー」と表現され、茨歌仙においては、「全人類の気質」と「阿頼耶識」とが同じものであるかのように表現されています。)
これを踏まえると、作中において、ある主体が魂魄思想について受容している・知悉している・仄聞していることは、直ちに作中世界が普遍的に魂魄思想によって構成されていることを必ずしも意味しないと考えます。
ある主体の表現は、その主体の記憶や感覚によってそのように見えた・感じたことを示しているに過ぎないと考えます。
このため、作中の概念について作中の表現をもとに検討する場合は、その表現が示された文脈や主体を踏まえて検討する必要があると考えています。・輪廻転生における「魂」はどのようなものか
輪廻転生の文脈における「魂」については、神主がこれまでに輪廻転生や魂について述べた言葉からその意味に近づくことができると考えます。
神主は、第3回東方シリーズ人気投票の藤原妹紅の項にてこう述べています。
「人間である一番の憑拠は、人間であると言う想い。DNAはその次である。」
人間が人間であるということは「人間であると言う想い」であるとしています。これは魂に相当すると考えます。
(魂魄を別個と考えるなら、DNAをはじめとした「心・魂でなく肉体の根拠となるもの」は魄とみなしてよいかもしれません)神主は幻想掲示板での2005年1月31日(月)02時13分の投稿『ゲーム学』にてこう述べています。
「ただ読んで聞いて真似してを反芻するだけでは、決して理解には至らない。考える事も含めて初めて形に至るのです。どこぞのゲームみたいじゃないですか。」
「最終的に面白さを感じるのは、考えることの出来る人間なんだ。 同時にその面白さを創れるのも、考えることの出来る人間だけだ。」
「ゲームをより高いものに持って行くのに重要なのは、理論ではなく哲学。実学ではなく虚学。結果ではなく経過。主食ではなくお菓子。まぁなんでもいいや。」
「工場で生まれたクローンの腕は、高い実用性を持つしそれで商売も出来るでしょう。しかし、その腕には魂は宿らないし個人の名前も付かない、と考えているがいかがだろうか?」
「人間が居ない世界での議論。そこに残るのは結果と真実と理論だけと言うこと。」ここでは、「魂が宿った」ものが「他者によって個体名が名付けられる」ものであると示されています。
また、「面白さ」「ゲームをより高いものに持って行くもの」と魂とは同義であると示されています。
よって、魂とは、哲学・虚学・経過の産物であり、主食や簡素な衣服のような必然によるものではなく、お菓子やフリルのような選択によるものであること、考えることによって感じられ、考えることによって創られるものであると示されています。
魂を感じる・見出すのは考える人であり、魂を創る・生み出すのも考える・選択を行う人であるということです。我々が「魂が宿っている」と感じるのは、その対象が「生きている」と感じるときです。
我々が「生まれ変わっている」と感じるのは、その対象が「魂を受け継いでいる」と感じるときです。
我々が「魂を受け継いでいる」と感じるのは、その対象の振る舞いに「ある存在の振る舞いが受け継がれている」と感じるときです。これを踏まえると、魂とは、可能性を胎蔵した動的プロセスであり、そのプロセスが他者によって弁別可能であるもの、と言えます。
(ここでいう、可能性を引き出す行為・プロセスの駆動は、魂を感じる主体によって行われるものです)>永夜抄の妹紅との会話では「魂を失った肉体はすぐに滅ぶ」と「魂」を魄に近い意味で使用している場面があります。
「魂を失った肉体はすぐに滅ぶ」とは、肉体が、死んでいる・結果になっている・可能性を失っているということ、複製・反芻の産物となっているということであり、肉体が滅びるというのは必然であるといえます。
「考える事も含めて初めて形に至る」とは、考えることによって創ることができる・可能性を形にできるということであり、例えば、それによる被造物には肉体も含まれます。(これは、憑依華における憑依に係る肉体の振る舞いや、七夕坂における「古典的な意味での物質は存在しない」という話と整合的です)神主は東方書譜での2003年11月3日(月)00時49分の投稿『文化の日も』にてこう述べています。
「続編は発展や成長させたものとも言えます。」
「材料から完成品になることは、決して成長では有りません。」
「木から椅子を作るように、材料を含みながら、全く別の物に生まれ変わる事。」
「これは材料としての存在を消す(無かった事にする)事で、新しい作品になると言う訳なのです。」ここでは、「生まれ変わる」ことについて、「もととなった材料を含みながら、全く別のもの・作品になること」であると示されています。
これはメタにおいては、過去作や参照した他作品、自身の体験をもとに作品が創られることを示しています。
この場合に、「魂を受け継いでいる」と感じるのは、作品・表現の中に、過去作や参照した他作品、神主自身の体験が、形を変えても存在していると他者が弁別したときです。
(これは、東方の作中において諸々の形で表現されている概念なのですが、例えば、「血」として表現されています。「地の底の血の池地獄」や「吸血鬼」などの表現はそれを踏まえてのものです)そしてメタにおいての輪廻転生・生まれ変わりと魂との関係性に対応する形で、作品内の輪廻転生・生まれ変わりと魂との関係性も存在していると考えます。
(例えば、茨歌仙44話『寿命を超越するもう一つの手段』における仏舎利・練り上げられても元の材料の色を模様として残すやしょうま・聖人の神性にて表現されているものはそのひとつと考えます)輪廻転生という文脈においての魂という言葉の意義については、東方の作品外・作品内について、それぞれ以上のような意味であると考えています。
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一般ぱーぷる参加者
返信ありがとうございます。
普遍性が必ずではないという意見を一旦聞けて少し安心しました。
魂に対してなんとなく「対象をその人・その物に特定できる要素」というイメージはあったのですが自力では整理が叶わず、それについてかなり明快に言語化してくれていると感じたのでとても参考になりました。椅子の話など特に興味深かったです。 -
一般ぱーぷる参加者
少々思考をアップデートした上での続きを書いてみました。依然として心許なくはあるので再びここに投げさせていただきます。
今回の要点は以下になっていると思うので、参考にしてご意見いただけたら幸いです。
・魄の機能はどのようにして転生するのか転生における「魂」について、魂魄の概念はその信仰に輪廻思想を含まず、魂(コン)が転生するとした場合新たに生まれる命に魄はどのようにして宿るのかという問題が生じることから、この「魂」は魂魄両方を包括した気質という意味合いでの魂(たましい)を指すのではないかということを書こうとしていました。
気質としてのたましい、魂魄両方の性質を持つ存在が共に転生すると捉えることでその疑問を解消しようと考えたのですが、こちらはこちらで通常の死後肉体が直ちに消滅しない点に疑問が生まれます。
今回はこれらの疑問に対して複合的な解釈を与えてみます。ざっくり言うなら、魂(たましい)はips細胞のようなものなのではないかという解釈です。
あるいは、実際の魂(たましい)において魂(コン)と魄の境界は明確なものではなく、各個特殊な状態に置かれた時になって漸く魂魄と呼べる状態になるのではないかという考えです。
「死が訪れた瞬間に肉体と魂(たましい)は分かれるが、人の想いの作用なのか一部は死骸に残る。死骸からは精神も魂(たましい)と一緒に抜けているため、その魂(たましい)が支えるものは肉体しか無いので魄という扱いになる。しかし元から魄という存在が別個であったわけではなく魂(たましい)の一部が魄の機能専用になっただけなので、転生しても魂(たましい)から魄の機能が失われるわけではない」……というような仮説です。
魂(たましい)が分割されることについてさらっと述べてしまいましたが、一人の人間から複数の幽霊が生まれる事例もあるらしいことや神霊がロスなく分割可能であることなどを参考に有り得るかと思い組み込みました。
両方の立場から生じる疑問を無くす落としどころに頑張ってたどり着いてみたつもりですが、果たしていかがでしょうか。 -
クエビコゲスト
魂について考える一助になればと思い書き込ませていただきます。
魂魄について直接の話ではありませんが、古代ギリシャにも魂について考えた人がいます。魂はこの世ではないところからやってきており、またその場所に帰りたいから人間は自らを良いものにしようとするのだ、みたいな考え方ですね。ここでは肉体と魂は舟と漕ぎ手のような関係になっています。つまり肉体と魂は分離可能なものとして捉えられていることになります。それに対して、肉体と魂とは分離できない、魂は肉体なしに存在することはできないという考え方をする人もいます。魂とは肉体の作り出す影絵なのだから、そもそも肉体なしの魂というのはありえないという立場ですね。
また、肉体なしの魂があったとしても、果たしてそれらは輪廻転生するのだろうかという問題もあります。キリスト教がそうですし、儒教もそうなんですが、死んだら死にっぱなしです。そこでおしまい。本居宣長もそんなこといってますね、対して、魂は輪廻転生するという立場の人もいます。そっちのほうが安心して生活できるじゃん、というわけです。
ウィキペディアの「魂魄」という記事には魂は神に、魄は鬼になるという記述があります。また魄が地に帰さなかったものが僵尸(キョンシー)になるともあります。
儒教的な解釈では気は集合離散し続け再び同じ形に集まることはないとされます。気が凝り固まったものが魂魄なので、魂魄は死ぬと散り散りになり輪廻転生しません。先祖の魂を招くことは出来ても、魂が生前の姿のままということにはならないですし、仮に転生してしまったら、墓には誰もいないということになります。
この辺まで考えると、幻想郷における魂魄とは道教的世界観に基づくものだと考えなければいけなさそうな気がします。仏教も、解脱を求めるものなので、本当は輪廻転生しないほうがいいという立場だと思うのですけど。
魂がiPS細胞的だというのは、気が集まったものとして魂を捉えるという解釈に近いと思います。人の体も気が集まって出来ていると考えられるでしょう。すると、魄とは気が人の形という枠組みに詰め込まれたものと言える筈です。それって肉体の影絵なんじゃないかな、と思ったりして。つまり魄単体では輪廻転生しないのでは、というのが個人的な感想ですが、それはさておき。肉体と精神が対応した形での転生というのは難しいのかもしれません。クローンの魂とはどのようなものか、みたいな話でもあります。
気の流れという視点から魂魄について考えてみると、何か整合的な解釈ができるかもしれないと思い書かせていただきました。長文失礼しました。 -
一般ぱーぷる参加者
返信ありがとうございます。魂に関する様々な観点を載せてくださって大変有難いです。
魂と気については、最近花映塚や緋想天を読み返していてかなり繋がりそうだなと感じていたところでした。精神寄りの言葉ではあっても「肉体の気・精神の気」みたいな使い方もできそうだよなあ、なんて考えてみたりしています。
魄と転生について、確かにいきなり転生と言うとそぐわない感じもあるなと改めて思いました。魂が転生するのなら魄はどのようにして新たな生命に備わるのか、というところから始めたら議論を進めやすくなり……ますかね……? -
クエビコゲスト
例えば、RPGのようにキャラクターにステータスが設定されていて、二つのキャラクターのステータスが同じ場合、そこに転生という現象を見いだせるでしょう。となると、ステータスを魄と言ってもいいかもしれません。ただ、転生先で性別が入れ替わる場合などを考えると、果たしてどうでしょう、という感じですね。魂魄がセットで転生する必然性はあるのでしょうか。魂と肉体が分離可能なら、格ゲーのキャラとプレイヤーみたいなもので、キャラの性能とプレイヤースキルは別物ですね。
蝋燭に火をつけて、一旦消します。再びその蝋燭に火をつけたとき、その火は以前の火の転生と言えるのでしょうか。鳴門の渦潮を見て、これは十年前に見た渦潮の転生したものだと思うのは果たしてどのような根拠に基づくのでしょう。
魂魄の正体とは、つまり魂魄とはどのような存在かと問うのはとても難しい問いです。一歩引いて、私達は何を魂魄と見なしているかという点から整理し始めるのが与し易いのではないか、と思います。 -
一般ぱーぷる参加者
なるほど、「見なす」という観点は今回かなりしっくりくる気がします
今の解釈で言うなら、魂(たましい)は精神と関わるときに魂(コン)、肉体と関わるときに魄と見なされるが、これらは見なしなので確固として別々の存在であるわけではない、と
そのため「魄という存在が転生する」と考えるのはやはり前提がややずれていて、新たな肉体に「支えるもの」としての魂(たましい)が転生することで魂(たましい)を魄と見なす余地が生まれる、という話なのかもしれないと思いました
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