密と疎を操る能力について―鬼という種族からの視点―

 東方萃夢想にてラスボスとして初登場し、酔蝶華や獣王園など近年の作品でも様々な活躍を見せる、「大江山の鬼」伊吹萃香。酒呑童子をモチーフとしたそんな彼女の能力は「密と疎を操る事」とされている。彼女は何故このような能力を有しているのか。近年語られるようになった情報も踏まえながら、それに関する解釈の整理を試みたい。

能力について

 まずは萃夢想omakeテキストにおける能力の記述を確認してみる。

能力は、密と疎を操る事が出来る。如何なる物も、集めたり散らしたり出来る。人の想いを集めれば、宴会のようなものを開かせることも出来るし、自分を散らせば霧のような状態になることも出来る。妖霧は非常に薄い彼女なのだ。新しく力を生むのではなく、その場に在るものを集めたり散らしたりするだけだが、集めることで別の物に変化させることも出来る。それは特殊な創造の能力に近い。さすがは失われた鬼の力、と言われるだけの事はある。

 この中に興味深い一文がある。それは、集めることについて記された部分である。

新しく力を生むのではなく、その場に在るものを集めたり散らしたりするだけだが、集めることで別の物に変化させることも出来る。それは特殊な創造の能力に近い。

 この表現は東方においてしばしば語られるある事柄に類似している。それは、早くは香霖堂で語られていた名付けの概念である。

 東方香霖堂第十五話「名前の無い石」では冒頭から混沌→秩序の世界生成神話について語られ、そこにおける名前の意義を説明している。その中で、名付けについて次のように説明する文章がある。

謂わばその命名の力は無から物体を生み出す創造の力であり、まさしく神の力に等しい

 また、その後の話の中ではタケミカヅチの例を引き合いに出して、名前が付くことにより神の性質が「変化」することが説明されている。

 以上のように、萃香の能力と名付けの能力それぞれの説明では「創造」「変化」といった言葉が対応している。このことから推察するに、萃香の集める能力は東方における名付けの能力と類似するものであると思われる。

 では、それと反対の散らす能力の方はどう解釈できるのか。ここで彼女に関するある情報に目を向けてみる。2005年の第2回東方最萌トーナメントにて謎に公開された、神主による彼女のラフ画である。ここには、彼女の身につける装飾品についてのメモが残されている。それが以下のものである。

○は無、つまり拡散を意味し、△は調和、つまり萃そのもの

□は不変、それは自分を示す

 この情報に彼女の能力を対応させると、散らす能力は○、集める能力は△に当てはまる。ここで散らす能力に対して使われている言葉に着目すると、「無」という語が出てきている。

 無とはしばしば名付けと対比される概念である。名付けの話では、名付けられる前の状態と名付けられた後の状態との対比が主軸となっている。そして香霖曰く、「元々の神はもっと姿形も曖昧で、名も無きものと区別が付かなかった」「本来の姿のままの神は、名前を付ける以前の物にしか宿る事は無い」ということである。「無名のもの」と「本来の神」は同義的存在であり、ともに名のある状態とは対極に位置するということである。その証左とも言えるように、千亦による発言がある。「無」という字に「かみ」という読みを当てているのだ。

 また、神と名付けに関しては以前にも記事を投稿された方がいるので是非確認されたい。https://gensoukoudan.net/archives/1072

 このことから、萃香の拡散能力は命名と逆の状態に近いものであることが推察でき、引いては集束能力と名付けの類似性もまた一段高くなると思われる。

能力と種族:鬼の関係

 では、ここから話の根幹である「彼女は何故そのような能力を有しているのか」ということを考えていきたい。

 記事の冒頭でも述べたように、近年では彼女は酔蝶華や獣王園など複数の作品で活躍を見せている。しかし、それらは単に伊吹萃香個人の話をしているだけでは無い。それらの話では、鬼という種族全体について掘り下げがなされている。

 そこで強調されることの一つに、「隠れること」との関係がある。

元々隠された者が力を持ったのが鬼だもんな(東方酔蝶華第40話)

鬼は隠された者を操る力を持っている(同上)

隠れるのは鬼の本分じゃ(獣王園八千慧シナリオ)

 このことは、実際の鬼に対する論考においても指摘されていることである。そして、そこではこの「隠れる」という性質は、神に通じると考えられている。

 古代「おに」と呼ばれるものは「もの」とも「かみ」とも呼ばれていた。これらの共通点は「目に見えない」ことである。求聞史紀においても、八百万の神は「姿形は無く、触る事も会話する事も出来ない」とされている。通常の知覚では認識することのできない向こう側の存在、それが両者の共通点であり、これを加味するに鬼の「隠れる」という性質は神に通じるのである。

(なお、筆者の以前の記事に「隠す」ことについて若干の考察をしたものがある。https://gensoukoudan.net/archives/1037当時では本記事の構想を持っていなかったため現在の論述と差異の生じている部分もあるが、隠すという行為と神秘との関係については参考にしていただけると理解しやすくなるかもしれない)

 そして、そんな神の姿を見える様に、すなわち我々が認識し信仰できる様にする行為というのが名付けである。鬼も「隠れた者」という本来の定義に忠実であるなら、決して我々の前に姿を見せることは無い。すなわち、鬼が姿を現すためには名付けと同じ類いの道理が必要なのである。

 このように、鬼という種族は神と同じ問題性を存在の根本で抱えている。それは、鬼として世に名高い酒呑童子を元にした彼女であるならば尚更のことだろう。鬼として強大な呪力を持ちつつ、しかし一方で幻想郷という現世、顕かなる世を好む彼女は、無名の世界と有名の世界を自在に往き来する能力を有している事が自然となるのではないか。それが、密と疎を操る能力の意図するところであると以上のことから推察する。

萃と境界

 ここからは余談になるが、一つ話を加えたい。

 萃夢想にて「萃」という字と深く関わる人物がもう一人いる。それは、八雲紫である。

 彼女の着する道士服の前掛けに示される模様がそれである。八卦を二つ組み合わせて特定の意味を表す六十四卦に基づいたものであるが、彼女の服のものが意味するのは「沢地萃」なのである。

 さて、このことが示す意味はなんだろうか。「萃夢想」に合わせて彼女が服を用意したのか。しかし、彼女はそれ以降の作品でもこの服を着続けている。もちろん、そのデザインが気に入ったからということもあるだろう。だが、次のことを踏まえるとこのデザインにはずっと採用し続けるほどの深い理由があるようにも思われる。

 再び香霖堂の話に戻る。一度冒頭の混沌神話の解説について触れていたが、そこの文言の中に次の様なものがある。

物に名前が付くとそこに境界が生まれ初めて一つの物として認識される。

 つまり、名付けという行為は境界を作ることを意味するのである。

 一方で、萃香の能力の内、名付けと対応するのは集める能力、つまり「萃」である。

 これを踏まえると、「萃」は境界と結びつく概念であり、すなわちそれは境界の妖怪である八雲紫の象徴たりえるのである。

 紫と萃香はしばしば古い仲であることが描写されているが、以上の話を踏まえるとその理由も少し形として見えてくるのでは無いだろうか。

 今回触れたこと以外からも指摘できる点は多々あると思われるため、鬼という種族の境界性については今後も活発な議論の展開を期待したい。

参考文献

戸矢学『鬼とはなにか』河出書房新社

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