幻想郷の最高神として知られる龍神様。その壮大な肩書に反して作中での言及は少なく、実態も未だによくわかっていない。
そんな龍神様に関する比較的新しい情報として、『外來韋編』参のインタビューで公開された『求聞史紀』初期企画案がある。
龍 … 幻想郷での唯一の空想上の生き物。誰もが恐れ敬う。最高位(未出)
――東方外來韋編 Strange Creators of Outer World. 参
この初期企画案に書かれているとおり、龍神様とは「空想上の生き物」、つまり虚構なのではないかというのが本考察の主旨である。
なお、龍という種族自体が未出であった当時と違い、現在は『茨歌仙』で華扇のペットとして登場するなど、明確に実在が確認されている。
今回虚構説を疑う対象はこのような龍全般ではなく、あくまで求聞史紀に記されている「太さは樹齢数千年の大木を遙かに上回り、長さは空を覆う程」という特別な個体、通称「龍神様」のみに絞る。
「初期企画案」の受容
わたしの観測範囲内に限った話をすると、いわゆる考察の場でこの初期企画案の記述が取り上げられている場面はほぼまったくと言って良いほど見た記憶がない。というのも、この資料は初期案と言うだけあって、書かれている内容がその後の作品に必ずしも反映されているとは限らないからだろう。
冒頭に付された「以下はあくまでも案です」という前置き、「これは以前、紅魔郷用に作成した物にちょっと手を加えた物で、今は少し変更があります」という種族説明に関する注意書きなどが信頼性の低さを強調するほか、なかには「御阿礼の子は髪が白い」のように明確にボツになったと思しき設定も書かれている。
そのような資料であるためか、「龍神様が空想上の生き物である」という記述に関してもほとんど真に受けられていないか、あるいは解釈の方向性がわからずノータッチとされているような印象がある。
「空想」について
『東方香霖堂』第三話には次のような記述がある。
空想の生き物とは、ただの妄想と復号失敗と勘違いの別名だ。
――東方香霖堂 第三話 幻想の鳥
想像を憑拠にした想像はただの空想だ。想像とは、空想、妄想、予想、仮想、幻想、の順でランクが付けられている。
――東方香霖堂 第三話 幻想の鳥
森近霖之助という男の思い付きを真に受けるのも問題があるが(*1)、この件に限っては、
東方の世界では、最高位の幻想に対し空想がもっとも低い位置にある事は昔に言ったとおり。
でもそれは、現実の世界では空想が最高位である事の裏返しだったりします。――博麗幻想書譜 2005年10月06日
という作品外での発言があり、作中世界における真実性もある程度担保されている。
香霖堂、博麗幻想書譜、両者のタイミングは共に求聞史紀の発売時期(2006年12月27日)からそう隔たってはおらず、初期企画案にあった「空想上の生き物」という言葉もまた、これらと同じ意味上の文脈で設定されていた可能性が高い。
しかしながら、そうすると、幻想郷において「もっとも低い位置にある」とされる空想の生き物が、求聞史紀では逆に「幻想郷の最高神」とされているというおかしな状況が生じてしまう。やはりこの文章は初期案でしかなく、すでにボツになった設定なのだろうか。
(*1)『東方香霖堂』単行本後書き、『東方ステーション#37 東方書籍特集』(2024/01/28[1:31:00~])など。霖之助の蘊蓄は彼の思い付きに基づいている。
なぜ「架空の最高神」が存在しうるのか
作品内での龍神に関する記述は、大部分が『求聞史紀』に集中している。そこには博麗大結界成立時に実際に現れたという龍神の記録も残されているため、これを真実とするならば、「龍神様が実在しない」とする主張は通らない。
そこでまずは『求聞史紀』の信憑性、ひいては「幻想郷縁起」の信憑性を検めなければならない。
かつて『Comic REX 2006年12月号』に掲載された公式漫画『東方求聞史紀 記憶する幻想郷』の中で、幻想郷縁起の内容は八雲紫による検閲の対象であることが明かされている。そのため、八雲紫が自身の思惑に都合が良いと考えさえすれば、幻想郷縁起の内容に「架空の最高神に関する記述」が挿入されることは十分に考えられる。
なぜ「架空の最高神」が必要なのか
では、八雲紫はなぜそのようなことをする必要があるのだろうか。
今回考えたのは、幻想郷の賢者の「権威付け」のためとする説だ。
八雲紫をはじめとする賢者たちは幻想郷を実質的に支配しているわけだが、統治される側の人間や他の妖怪たちを大人しく従わせるのは決して簡単とは思えない。圧倒的な実力差による強制的支配、利害関係の一致による円満な支配、実質的な影響は及ぼさない名目上の支配などいくつかの形態が考えられるわけだが、こと統治者に「正義」の二字がある場合、これらは格段に成しやすくなるだろう。
求聞史紀に、「妖怪の賢者達は、自分の存在を賭けて龍に永遠の平和を誓うと、水は瞬く間に引き、空は割れ、地上は光を取り戻したと言われる」とある。
つまり紫たち賢者は、架空の最高神である龍神様を擁立し、その神様から直々に幻想郷隔離の許可を得たというストーリーを「正史」として記録することで、現行の統治体制の後ろ盾としているのではないだろうか。
古代中国の皇帝は「天子」とも呼ばれたが、これは天上の最高神である天帝から天命を授かった者という意味であった。最高神による命を大義名分とすることで、人の身を凌駕した威徳を備え、巨大な国をも統治し得たのだ。
「目には目を~」で有名なハンムラビ法典の前文にも、メソポタミアの神々がハンムラビ王を指名し統治者たらしめたという旨が記されている。
幻想郷の成り立ちもこの類型にピタリと当てはまる以上、その根幹に政治的意図の介在を疑うのも自然ではないだろうか。
龍神を祀る賢者
『茨歌仙』第25話「渾円球の檻」では、我々の世界で言う北斗七星こと「天龍座」の正体が生きた本物の龍であり、天の北極星を喰らいに行こうとしている最中なのだとアナウンスされている。この「天龍座が北極星を喰らおうとしている」という予言は『香霖堂』第22話が初出であり、そこで語られているとおり、これら妖怪星座の著作者は八雲紫その人である。
また、これは少々こじつけ臭いが、作中でまったく信じられていなかったプラネタリウムの解説を「これは本当の話」と擁護したのは、幻想郷の賢者の一人と目される茨木華扇である。もう一人の賢者である摩多羅隠岐奈も、元ネタである摩多羅神の時点で北斗七星と関連があることは付言しておくべきだろう。
つまり幻想郷の賢者は積極的に龍神を祀り、その神話を盛り上げることで、間接的に自分たちの立場を堅固にすることができるのだ。
幻想郷内での受容
人間の里には龍神像があり、求聞史紀いわく「毎日の様に崇められている」という。土地を守護する最高神に対する自然な態度に見えるが、幻想郷の他の神様との関わり方と比べると少々様子が違う。
幻想郷では神様が実体を持って存在しているため、崇めるのであれば本人(本神)に直接アプローチすることができる。しかし龍神様はその姿を見せることがないため、人間たちとの関係はまるで外の世界の宗教のようである。龍神像を作った河童が「便利じゃないと、人間は誰も崇めに来なくなるだろう」という理由で天気予報機能を付けたのも、龍神像が崇められることで得をする者がいるからだ……というのは邪推だろうか。
人間の里の出身である魔理沙は先に挙げたプラネタリウム回にて、天龍座のエピソードを聞いても「んな馬鹿な」と切り捨てているほか、『三月精』第1部1話においても、「自然の悪戯に龍がお仕置きをしたのだろう」と考える霊夢に対して「いつからそんなロマンチストになったんだよ」とまるで信じている様子がない。
我々の世界の非常識が常識である幻想郷においてすら、龍の神話は常識ではないようなのだ。
参考
本サイトに鴨居能嵎氏が投稿した考察『光の三妖精は幻想郷の眠れる龍である』では、光の三妖精と龍神との関連性が注目されている。鴨居氏の考察の論旨は三妖精が龍神の域に近付いているというものであるが、「妖精の悪戯の延長上に龍がいる」「光の三妖精が虹と重ねられる龍に近い存在である」という指摘は、龍神の存在が本質的に自然そのものであり、そこには固有の人格など存在していないという解釈にも転ばせられないだろうか。
反証
『緋想天』おまけテキストの永江衣玖の頁には、「特に何をするでもなく、ただ優雅に泳ぎ、龍神の様子を見守っている」とある。
……えっ!? 龍神の様子を見守っている!!?
困ったことになった。どうやら衣玖さんは龍神の様子を見守っているらしい。自称などでもない地の文であるため、幻想郷縁起のように信憑性を疑うことも難しい。これは困った。
ここで改めてもう一度、『求聞史紀』に書かれた龍神様の特徴を確認したい。
太さは樹齢数千年の大木を遙かに上回り、長さは空を覆う程だと言われている。
――『東方求聞史紀 ~ Perfect Memento in Strict Sense.』p.96
龍神様は桁違いの巨体を誇っているようだが、果たして竜宮の使いはどこでどのようにこれを見守っているのだろうか。ビジョンを想像できないというのが正直なところだ(難癖)。
龍神の〝様子〟というのはもしかすると直接的な観測ではないのかもしれないし、そもそもこの龍神が幻想郷の最高神である例の個体と同一だという確証も無いと言えば無い……ということで、ここはどうか一つ。
「龍神様」は実在する?
別の仮説もある。それは「龍神様」という神様はたしかに実在しているものの、幻想郷縁起での逸話が大きく誇張されているという可能性だ。
聲は天を割り、地上に雷雨をもたらす。体をうねらすと山が崩れ、地震が起きる。
(中略)
天が割れんばかりの雷鳴と、水没するかと思われる程の豪雨に包まれ、暫くの間、昼も光が差さない闇の世界に陥った。――『東方求聞史紀 ~ Perfect Memento in Strict Sense.』p.96
このように、幻想郷縁起における龍神はその恐ろしさ、偉大さが執拗にアピールされているのだが、なんだか少し嘘臭さを感じはしないだろうか。これは史実を記録しているというよりも、昔話や神話の語り口に近い。
本物の龍神様がいたとして、優れた力を持っていることは事実なのだろうが、ここで語られている出来事すべてが真実だとは限らないのではないだろうか。
結論
最終的に考えられる可能性は次のようである。
A.龍神様は実在し、幻想郷縁起の記述もすべて真実である。
B.龍神様は実在するが、幻想郷縁起には虚実混ぜられている。
C.龍神様は実在せず、幻想郷縁起の記述はすべてプロパガンダである。
現実的なラインはB辺りだろうか。
少々メタ的な視点ではあるが、幻想郷縁起が検閲されているという設定が存在する以上、実際にその影響を受けている記述が一つ以上は存在すると考えるのが自然というものだ。その仮定に「空想上の生き物」という初期設定を加味すれば、B説、またはC説はそれなりの真実味を帯びるようになると思う。
2024年7月現在、『智霊奇伝』の物語もおそらく佳境を迎え、これまで語られることのなかった幻想郷創設の謎にもメスが入るかもしれない状況にある。今回の仮説に自信が無いわけではないが、近いうちに龍神様の実在が証明される可能性も十分考慮し(*2)、幻覚度は7としておく。
(*2)「日和った」の意。
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