勢いで書きあげてしまったので今回は前置きを省略させていただきます。大雑把に獣王園についての考察か~ぐらいの気持ちでお読みいただけると幸いです。
「亡羊のキングダム」とは何か
「亡羊」は「逃げた羊を見失う」という意味を持ち、「迷い」の象徴とされる言葉です。中国の古典藉『列子』に由来する言葉ですが、禅においてもこの言葉はよく用いられました。すなわち、「悟り」の対岸の状態ということです。
これらの表現に対応する記述が、獣王園おまけテキストのあとがきにあります。「完全性」と「不完全性」です。
AIの象徴する、完全性、無機質性、結果論に対し、不完全性、有機質性、過程の重要性とは何か、それは簡単に言うと生き物である、と言う事です。
それぞれ「悟り」が完全性、「亡羊(迷い)」が不完全性に対応します。そして引用にある通り、不完全性は本作において生き物、つまり「獣」に象徴されています。ここで「亡羊=獣」との読み替えが可能になります。
これをスペカ名に当てはめてみると「獣の王国」、つまり「亡羊のキングダム」は「獣王園」を指す名前だったのではないでしょうか。
検証のために他の角度からも分析を加えてみます。作中にて「獣王園」に類似する表現を探すと、残無のストーリータイトル「管理された獣の園」があります。またmusic room名を見ると「獣王達の音楽室」とあり、「獣王」で一つの単語として成立することとそれが複数存在すること、つまりは畜生界の組長達を指す言葉であろうことが読み取れます。
これに則ると「獣王園」は「獣王達の園」となり、先程の解釈とは若干のズレが生じます。しかしこれについては、以下の様にも捉えることが可能だと考えます。
残無の当初の計画では、畜生界の動物霊達の動向を掌握し、地上が平定されたらそれをそのまま自身の管理下に置くという予定でした。つまり、残無の掌の上に置かれた以上、獣王達の生きる園はそのまま残無の支配する領域となりえたのです。残無自身も「寂滅為楽の王」と形容されたりしているので、彼女の支配する領域は「王国」と捉えることができます。そのため、「獣王達の園」は「獣の王国」に内包される可能性を持っていたのです。「獣王達の園」を不完全性の世界とするなら、「亡羊のキングダム」は完全性に支配された不完全性の世界というところまでを示すのだと考えます。
以上をまとめると、「獣王園」というタイトルは「獣王達の園」と「獣の王国」両方の意味を持ったものであり、「亡羊のキングダム」は後者を表すスペルカードだったのではないか、ということになります。
これを踏まえたとき、「亡羊のキングダム」が最後のスペルとして登場することに理由を求められるのではないかと思いました。
獣王園で幻想郷が残無の支配下に収まらなかったのは、残無が霊夢を認めたからです。その認めた所以は、霊夢が動物達に対してバランサーとなれる素質を持っているという点にありました。つまりは動物達の内に滾る獣性をうまくいなせるだろうということです。
「亡羊のキングダム」が、管理された園の中で獣達が暴れ回る様を表すのなら、その攻撃を避けきることは獣達のバランサーたり得ることになるのではないでしょうか。自らが築き上げた王国を誇示しつつ、それを越えて欲しいと願う王の一撃だったのかもしれません。
「逸脱者達の無礙光」と「Kingdom of Nothingness」
さて、今まで触れていませんでしたが、獣王園にはまだ「キングダム」の表現が用いられているものがあります。残無のテーマ曲であるところの「逸脱者達の無礙光 ~ Kingdom of Nothingness」です。これについても解釈を加えるべきでしょう。「虚無の王国」が地獄であることは良いとして、主題と副題がどのように接続するのか。これを考えていきたいと思います。
「無礙光」についてはかつてこちらの記事で触れたことがありましたが、つまりは救いの光であり、美天や慧ノ子を始めとした数多の妖獣に手を差し伸べている残無を表すものであると考えられます。しかし、これを地獄という象徴と合わせて考えると、次のようにも読み取れます。
作中では、残無の管理下に置くとは地獄の一部になることを意味する、という風に語られる場面があります。すなわち、残無の無礙光に導かれて行き着く先は全て地獄なのです。言ってしまえば、残無の救いは逸脱者達を逸脱した世界に連れて行くことであり、その先に待ち受けるのは元いた世界の鮮やかさとは無縁の虚無のみとなるのです。
ということで、「Kingdom of Nothingness」とは無礙光によって導かれる先を指す、という関係になっているのではないか、と考えてみました。が、このままでは後味の悪い終わり方になってしまいそうなので、少々今までの話から軸は逸れますがもう少し解釈を加えたいと思います。
今まで本文では残無の掌の上にいる妖獣達を指して逸脱者としていましたが、人から鬼へと変じ自ら地獄へと堕ちていった残無自身もかなりの逸脱者であるのです。ならば、「逸脱者達の無礙光」という曲名には、残無にとっての救いが含まれていても然るべきだと言えます。
ではそれは一体何か。その答えは一つに絞られるでしょう。残無の計画を覆すに足る力を見せ、空想の先の未来をもたらした人物。博麗霊夢です。霊夢がいたからこそ獣達がいても地上が地獄となることは無く、逸脱者達は楽園に留まることができたのです。
これにより霊夢は残無と残無の手にある獣達両方の救い手となりました。このことは、残無が霊夢を自身に重ねるように評価したことに繋がるのではないでしょうか。残無を「逸脱者達の無礙光」と表すのなら残無に対する救いも必要不可欠であり、そこに霊夢が収まる以上残無と霊夢は類似した存在になる……、と少々理屈っぽい言い方になってしまいましたが、この曲名からは二人の関係についても解釈を広げることができるのではないかという思索でした。
以上、今回はあまりまとまった結論の無いような話になってしまいました。それでもなんとかまとめてみるなら、「獣王園」というタイトルは虚無という形の救いもそれを乗り越えた先にある未来も指し示すものである、と言っても良いのかもしれません。
これからもこの作品に対する解釈の試みが広がっていくことを楽しみにしています。
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