【古明地こいしと八識】
こいしに関しては面白い考察をされていた方がいて、今回はそれを踏まえた上での記事となります。非常に鋭い視点で、なるほどと思わされた考察なので、取り急ぎ紹介させていただきます。
あと、今回の記事は何故かインターステラーという映画と、みんな大好きSTEINS;GATEのネタバレを含むので、まだ見てない方はブラウザバックしてAmazon Prime videoとかで見てきていただけると幸せになれるかもしれません。どちらもとても素晴らしい作品なのでお勧めです。


【サードアイが見ているもの】
さとりとこいしのサードアイから伸びているコードはそれぞれ6本と2本。増やしたり減らしたりする事もできるらしく、最大8本までの描写もされているらしい。コードの位置どり、ことりが白蓮に勧誘されている事などを鑑みると、サードアイが知覚しているものは他者の八識である事が想定される。
こいしのサードアイは足元へと伸びている事から、さとりが眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。こいしがより根幹的な末那識と阿頼耶識。にそれぞれ接続しているかと考える事ができる。
さとりの台詞を見ていると、彼女が読み取っているのは主に表面的な意識なようである。つまり、サードアイが読み取っているのはコードの伸びている先に対応した他者の識という事になるかもしれない。他者の識を自身も知覚できるようになる故にさとり妖怪。
【感情と八識】
感情は元より存在しないというこいしの台詞は実は科学的にそういう事が言われていて、人間の意識は実は後付けであるらしいという説がある。説があるというか、臨床実験のデータがあるらしい。その説を深掘りしていくと、意識はそもそもエピソード記憶を蓄積する為の補助機構に過ぎず、意識によって人間の行動が決定されるのではなく、人間の行った行動の理由付けをしてエピソード記憶を記録する為に意識という媒体が用いられるという事らしい。
これらの事を踏まえた上で考えると、恐らく古明地姉妹にとっての末那識と阿頼耶識は、エピソード記憶を貯蔵する阿頼耶識、そこに自己同一性を伴う我執を伴って働きかけるベルトコンベアー役の末那識といった形態になるように思われる。
【コードの増減】
で、あるのであれば。コードの増減が自由であるのに、あれだけ自分の能力に誇りを持っているさとりが六識しか展開していない事にも得心がいく。阿頼耶識と末那識の情報量は無意識下であるが故にそれを自動受信してしまうには、あまりにも情報が膨大で、猥雑であるからであるだろう。
表面的な意識を平面だとすれば、それが清濁織り交ざった立方体単位でぶん投げられてくるようなものである。相手を驚かせたり、困らせたりするには六識を把握しておけば十分で、それ以上の情報はむしろノイズになる。と、いう事になれば、コードの展開は六本で足りる。
本当に相手をぶちのめしたかったり、頑として譲れない目的の為に一時的な負担を承知で深層心理を含めた八識全体を展開する事はあっても、常時展開するにはメリットが少ないと考えるのが妥当である。
【無意識を操る程度の能力】
そんなこんなを踏まえると、無意識を操るというのは他者の行動を操る事に等しいのではないだろうかと思ったりする。意識が無意識の行動の後付けによって発生するのであれば、それは他者の意識を乗っ取る行為に等しい。対象はあたかも自分の意識に殉じて自らの意思によって行動したと錯覚してしまう分、行動そのものに介入できる能力であるのだとすれば、それはだいぶ性質が悪い。
それは例えるなら緑内障である。緑内障には自覚症状がほとんどないと言われている。僕らが自分の目で見ていると思っているものの大半の部分は脳が保管しているものであり、現在進行形で視界に収めているものではない。故に実際の視野が欠けていても自覚できないのだ。それと同様の事を無意識の中で、すなわち意思決定のプロセスにおいて起こせるのであればこれほど怖い能力も無い。
【こいしが目を閉じたことによる作用】
こいしが目を閉じた経緯については語られていない。そこは想像で保管するとして、どうしてコードの接続先を末那識と阿頼耶識にした上で目を閉じたのかに関してはこう考える事ができる。恐らく、目を閉じると自分自身の感覚も知覚できなくなる事をこいしは感覚的にか経験的にか理解していたのではないだろうか。
で、あれば日常生活を営む上で六識を閉ざしてしまっては不便であると考える事は想像に難くない。その上で、コードの展開が偶数本で最低二本はどこかに接続しなければならず、かつその接続先の一つは意識か末那識でなければならないという条件がある事を仮定すれば、必然的にどういう仕組みでどう動いてるのかよくわからない無意識側を選択する事になるだろう。具体的なデメリットが容易に想像できる日常生活に必要不可欠な六識に対して、無意識が知覚できなくなったとしてもあまり日常生活に困る事は無いだろうと踏んだとしてもそれほど不自然ではない。
【感情喪失のメカニズム-故意か誤算か】
それが故意であったのか、誤算であったのかはこいしのみぞ知るところではあるが、末那識と阿頼耶識の知覚を閉ざした事で、こいしは蓄積してきた膨大なエピソード記憶と自己同一性の接続を知覚できなくなったのではないだろうか。ようするに識の司令塔を失ったのである。これがこいしが感情を失った原因であるだろう。他の六識が保全されていても、それを自己同一性とリンクさせる道は断線されている。末那識と阿頼耶識は認識できなくなっただけで記憶は格納されているようだし、意識と接続もされているが、その過程で得られる自己同一性や人格の文脈化をする事はできなくなっていると考えられる。
【末那識の機能不全】
こいしが白蓮に目をつけられている理由に関しては、恐らく末那識が機能不全に陥っている事で我執が完全に閉ざされている事に起因する。仏教の発展に伴って提唱された末那識は我執と強く結びつけられて、これを克服する事が修行の目的とまで定義されている中で、こいしの状態は限りなくその境地に近いものであると考えられる。そこに至った過程はどうあれ、結果としてそうなっているのであれば白蓮にとっては格好のカモなのかもしれない。
【こいしの行動様式の考察】
これらの事を踏まえた上でこいしの行動様式を考えるとなかなか不思議である。こいしは外への興味をダイレクトに行動に反映している。阿頼耶識や末那識が全く機能していないのであれば、廃人同然になっていてもおかしくないのだが、そうはなっていない。つまり、これらの働き自体は阻害されておらず、ただ自身が知覚できなくなっていて我執の入り込む余地だけが無くなっていると考える事ができるのではないだろうか。
つまり、外界への興味という薰習の齎す種子から生まれる種子生現行によってこいしは外界をうろついている。とはいえそれは夢遊病のようなものなので、さとりの心配は尽きないわけだけれども。
【コンパスとしての恋(閉じた恋の瞳考察の前提)】
映画インターステラーにおいて、もっとも重要なキーワードは「愛」であった。終盤、テッサラクトに格納されたクーパーはテッサラクトを通じた娘マーフの部屋とのリンクを得るわけだが、膨大な座標の中から何故そこに都合よく接続できたのかを考えると「家族愛」というコンパスを定義してしまうのが一番しっくりするように思える。なんだかスピリチュアルな話の様だが、例えば、地球と呼ばれる有機生命体にとってはそれなりに大きな平面を生きる生物の中にも帰巣本能を持つ種は少なくなく、膨大な体積を持つテッサラクトにおいて、クーパーが「家族愛」という帰巣本能のコンパスを活用する事でマーフの部屋への座標を特定したと仮定するのはわりと科学的なのではないだろうか。
アニオタに馴染み深いところで言えば、STEINS;GATEで岡部倫太郎がシュタインズ・ゲート世界線という座標に辿り着いたのも一重に愛の齎す執念であった事を鑑みれば、愛を座標特定の為のコンパスであると捉えるのは実にシンプルで詩的で科学的であると言える。
【閉じた恋の瞳】
恋という単語は古明地こいしに纏わりついている。名前に複数の意図が込められているのは言うまでも無く、サードアイもこじつければ愛になる。こいしの恋の対象となるのはやはり地霊殿から見た外界なのだろうか。末那識の喪失によって自己規定を行う機能を失ってもなお、強く残った薫習によって外界を放浪しているのだとすればなかなかロマンチックである。
恋の旧字体には「糸」の部首が用いられていた事を鑑みれば、それは執着の象形を思わせるし、「乞う」を語源とする向きもある。外界に対する恋がこいしの初期衝動だったと考えれば、こいしが目を閉じた理由は実はネガティブなものばかりではないのかもしれない。
【花は紅、柳は緑】
場所は幻想郷である。自然そのものと言っても良い妖精も精霊も多くいる。恋は他者希求であると同時に他者理解を求める衝動でもある。読解の余地もなく、考えを巡らせる猶予も無く、恋をしている対象の事が初めから丸わかりでは興ざめも良いところだ。予め回答も、そこに至る道筋も示されている数式に読解の喜びはない。ましてや介入できてしまうのであれば殊更である。
つまるところを言えば、こいしは自らの恋路を自らの恋路たらしめる為に目を捨てる必要があったのではないかという事である。物凄く簡略化して言えば「ずっとドキドキしていたいから」と言っても良い。こいしは目を捨てる事によって、逆に余計な付加情報無しに、ただそこにあるものをそこにあるものとして受け入れる事ができるようになったとも言える。あたかもそれは柳緑花紅の境地である。白蓮の目もあながち節穴というわけでもないのかもしれない。
【omake.txt】
さてはて、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。こいし考察に取り組んだのは前回の例大祭で東方アレンジアルバムをこさえてサークル参加した時なので、たぶん今年の春先ぐらいの事です。どうしてインターステラーの考察が混ざっているかというと、一緒に曲を作ってるこうざきくんがクリストファー・ノーランが好きで当時布教されていたからですね。バットマンのダークナイト三部作の監督さんですが、哲学的で重厚で、僕も結構好きな映画監督さんです。ちなみにインターステラーは結構長い映画なんですが、おんなじぐらいのボリュームがあるファンによるインターステラーの解説考察動画があったりもして、そっちもかなり面白いです。解釈を込めたり読解したりするのも創作の醍醐味のひとつであるのはどの世界も一緒なのかもしれません。

そんなこんなで僕らの作ったこいしアレンジ曲はアルバムの中でもかなり癖の強い実験的な作品になったのですが、個人的には「ほな、好き放題やってええんやな」と好き放題やらせてもらったので、結構気に入っている作品でもあったりします。興味をもっていただけたら遊びに来ていただけると嬉しいです。


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