ニヒリズムvsキュート

はじめに

「ゆかれいむ」という概念がある。これはまごうことなき公理であり、先人たちはこの真理を証明するべくあらゆる考察を繰り返してきた。私も過去に倣い、獣王園にて示されたモチーフを紡ぎ合わせ、この概念に近づく試みをしたい。人それぞれという相対主義を批判したソクラテス的視点を持ち、絶対的真理を追及していこうと思う。

虚無と幻想郷

 まず虚無について考えてみる。
 得体の知れない恐怖について人類は様々な視点から考察し、それらと戦ってきた。ある者は神と呼び、またある者は精霊と名付けた。妖怪もその解答のひとつである。怪異に名前を与え、隣人として迎えることによって、人はそれらの持つ根源的恐怖に打ち勝ってきた。さて、それらすべてを覆す概念が虚無である。近代哲学にてニーチェは神を殺し虚無を広めた。宗教は弱者のルサンチマンと切り捨てたのだ。そしてその中で生きていくために積極性ニヒリズムを発明した。強きを求め、虚無の中にあることを知りながらも邁進する心の在り方、すなわち超人を目指すべきという思想である。これを永劫回帰という。
 仏教にはこのニヒリズムの元となった観念がある。色即是空である。般若心経に記されるこの言葉は、ものごとの本質は虚無であり、色、つまりは物体や現象は縁起によって成り立つというものである。虚無とは昔からある概念だが、果たしてそれを真正面から受け止め、なお立ち向かう超人、あるいは悟りに至れたものがどれほどいただろうか。哲学、科学、宗教、あらゆる分野が発展した現代でも、いまだ解法が確立されているとは思えない。むしろさとり世代という言葉が出現したように、インターネット等の情報収集の手段が増えたことで、よりニヒリズムが横行しやすい地盤が整いつつあるのではないだろうか。ふとした瞬間、例えばゲームをしている時、好きな本を読む時、仕事をする時、それらに意味はあるのだろうかと自問することがある。意味はないと即座に答えられるのならおそらくその人はニヒリストだろう。人それぞれだよねと答えるのはニヒリズムに屈し思考を放棄した似非相対主義者である。また、意義はある、成し遂げた時世界が変わる、と考えるものは超人であり狂人である。とにかく容易く太刀打ちできるような概念ではない。幻想郷でもそれは変わらない。むしろ我々よりも虚無への抵抗力は弱いのではないだろうか。劇中で妖怪たちが虚無を恐れるような描写があったから、妖怪たちや秩序を守る側の人々は、自身が虚構であると考えてしまうのを無意識に避けているのではないかと推測する。妖怪はその現象に身を寄せる故、アイデンティティの欠如は少なくとも夢や目標を自分で考えることができる人間に比べて、よほど堪えるものがあるだろう。人間は虚無に陥っても肉体がある限りある程度は本能で生きるが、精神を依り代とする類の妖怪はさらにダメージが大きいのではないだろうか。少なくとも神は死ぬ。実在性については求聞口授にて神奈子が語っていた。

  • 「それが外の世界ではそうもいかないのですよ。目の前で不思議な出来事が起きても、幻であると思い込んで断固として現実に起きた事とは認めない。人間は流されやすい生き物ですから、今はそういうブームが来ているのでしょう。」東方求聞口授p10より抜粋。

 察するに奇跡やらなにやらの神がかりな現象さえ、神の実在を認めなければ都合がよろしくないのだ。すべてが無意味無価値ならば、妖怪という言葉すら必要としなくなるだろう。しかし、幻想郷の妖怪たちは基本的にそこにいる。先ほどの神奈子の発言についても、魔理沙もそのことにツッコミを入れていた。実在性を持つのだ。信仰の有無だけが存在を保つわけではないだろう。ニヒリズムの永劫回帰を是とするならば、地獄や冥界の存在と矛盾してしまう。そう言った場所が私たちの住む場所から地続きなのか、上位存在の作った空間なのか、それは考察に値する命題ではあるが、このままではらちが明かないので、ここでは虚無という概念の強大さは幻想郷そのものを脅かすほどである、という仮定に留めておくことにしよう。

残夢について

さて、残夢に関してだが、虚無を用いて政を成しているだけであるように見える。あくまで主観だが、私には決して彼女が虚無主義だとは思えなかった。少なくとも秩序を担い、支配する行為に意義を見出しているからだ。そもそも日本における仏教哲学は真理の探究とは別に、民衆を救うという大義のため、実利的な方法論を軸として発展してきた。南無阿弥陀仏に代表される念仏や、座禅などもその一種である。さらには江戸時代ではキリシタン禁令に伴い、お寺に冠婚葬祭を任せるという政策が成されたこともあり、仏教はこんにちの日本の日常生活や政治に利用され強固な結びつきを保っているのだ。残夢は政治家、あるいは支配階級の側面が強く描写されていたように思える。宗教的な生臭い強欲さを体現する彼女は間違いなく人であり、また巨大な武器を振り回す様はまさしく鬼である。人の理を越えた超人ともいえるだろう。ゆえに残夢の立ち位置としては、虚無という真理のような何かを扱い、幻想を支配しようとした者というのが適切ではないだろうか。そもそも釈迦が提言した虚無という概念も、元は老いや病気といった苦しみを乗り越えるための手段であるともいえる。

AI

おまけテキストにて神主がAIの完全性について言及していたが、考えてみるとAIの持つ極度な合理性は、言ってしまえば身もふたもない虚無的なものである。技術がどれだけ発展しようとも、それらは所詮0と1の組み合わせでしかない。人間の脳もそうだと言ってしまえば、幻想は死に、論理的な数字以外は残らないだろう。しかし現実には必ずしもそうではない。数学や化学ではいまだ推し量れない未知のものがたくさんある。獣王園では主人公たちがそれぞれの直感的、本能的なやり方で虚無に抵抗するという構造になっており、ニヒリズムに屈することのない幻想郷というのが描かれている。

可愛いとは

 さて、作中ではこの虚無に対するアンサーがいくつも提示されている。その一つに霊夢のテーマ曲がある。世界は可愛くできているという曲名こそが虚無を打ち砕く最強の幻想であると私は考える。霊夢はリアリストではあるが残夢とは違い、秩序そのものを美しく面白く飾り立てようとするきらいがあり、そこが古強者と新しい世代の差なような気がする。最序盤で霊夢が欲のままに動く魔理沙を勘違いで咎めるシーンがあったが、魔理沙の行為はアダムスミスが提唱した個人の利益追求を肯定する考えに近い。経済の活性化、現代社会の資本主義体形そのもの、だがそれが行き着く先は混沌と虚無なのではないか。それではいけない。何もない中に何かを飾り立てて意義を見出すこと、それは服装だったり、幻想だったり、信仰だったり、秩序だったりと人間が無に対抗するために生み出した、すなわち虚飾行為になるわけだが、「可愛い」というワードはそれらすべてを包括している。虚飾とすると見栄とか傲慢を連想してしまうなんだかやらしい言葉だが、「可愛い」とするとあくまで少女的かつ肯定的な表現であり、かつあらゆることを許容するような母性すら感じる。幻想少女は基本的に傲慢で、利己主義で、なおかつ不遜な態度をとる印象が私にはどうしてもぬぐえないが、それはすべて「可愛らしい」ことである。

 可愛いという言葉は元来、顔映ゆし、いたましさや憐憫を込めて使う言葉が変形したものである。先ほども述べた色即是空の概念だが、色すなわち欲や生命の営みを含めたすべての現象は、仏教では四苦八苦を生み出していると考えられている。つまり生きている限り苦しみはつきまとうため、あらゆる生き物は可哀そうであるともとれる。これはキリスト的な原罪の考え方や釈迦の一切皆苦とも類似する。世界は可愛くできているというのは世界は可哀そうでできていると言ってよいだろう。実際に幻想郷の人物の過去は凄惨な憶測がなされることも多く、また一般的に妖怪の悲劇を挙げれば枚挙にいとまがない。可哀そうという悲観的側面を可愛いという言葉は肯定的に上書きしている。あらゆるものに慈愛を、それは色即是空を受け入れた悟りの境地である。これはニヒリズムへの完璧なる抵抗であるとも言えよう。ただし問題がある。これは霊夢のテーマである。霊夢は可愛いという言葉をこのように重く捉えているだろうか、否、そうは思えない。そもそも霊夢は神道である。知識がないとか皮肉を吐かないとまでは言わないが、神道のアニミズムやシャーマニズムはあまり虚無という概念に触れることはないだろう。霊夢は一般的な女性が小動物や服やあるいは健気な老人などに向ける軽々しい感覚で可愛いという言葉を選んでいると思われる。日本において神という言葉は強い意味を持たないように、可愛いという言葉の重々しさは失われている。だがそれでよいのだ。言葉による論理的な理解は所詮分別智であって、真の悟りではない。人間は言葉を用いてもの/ことに境界を引き概念化するが、それでは悟りには至れないと般若経には記されている。直感的に真理を捉えること、これを無分別智といい僧たちはそれのために修業などによる強烈な体験による跳躍を目指すのだ。その点では霊夢は空を飛ぶ、すなわち空への跳躍を一切の理屈に頼らずやってのけるのである。野性的な感覚のほうが豊かな生を感じるのならば、あまり難しく考えずに直感で、愛おしいものを軽々しく愛でること、それによって虚無を拭い去ることができるだろう。すべてのものは可哀そうで、ゆえに愛おしい。可愛いとはニヒリズムへの特効薬である。こういった快楽主義はエピクロスという哲学者が紀元前に提唱している。霊夢もその領域に、人が呼吸するような普通の歩みでたどり着いていたのだ。

終わりに

 ここまで長々と書き連ねたがすべては筆者の塵芥に等しい妄言である。これから記す嘘偽りない事実こそが主題であり、諸兄らはそれだけを覚えてくれれば幸いである。
虚飾、虚構と書くと真っ先に思い浮かぶ妖怪がいる。八雲紫だ。彼女は派手に着飾り、まるで舞台劇のようにふるまう大胆さを持ちながらも裏から物事を操るフィクサー的側面をも持ち合わせている。妖しさと美しさと楽しさと、兼ね備えた実に虚飾的な妖怪であるといえよう。実に可愛らしい。テーマ曲から察するに霊夢もそう考えているに違いない、つまりゆかれいむが成立するわけである。さらには先ほども述べた分別、無分別だが、なるほどこれほどの対比構造もない。八雲紫は分別、つまり物事の境界を操るという人間的な智慧を持ち、霊夢は無分別智すなわち直感によって空を捉えているのである。素晴らしき関係性だ。ゆえに獣王園はゆかれいむを真理としたい。
 しかしながら、困ったことに、これでは新たな命題、新たな真理が誕生してしまう。世界が可愛くできているのだからゆかれいむ以外のすべての関係性も成立し、霊夢はすべてを無制限に受容する聖母になってしまう。それは違うと感覚的には言いたいのだが、しかし、私の解法ではそうせざるを得ない。まあそれでもいいじゃないか、真理は人によって違うのだから。
 証明失敗

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