月の民を語る上で欠かせない要素である「穢れ」。これについて、儚月抄で説かれたように穢れとは「生きる事と死ぬ事」、生と死であると捉えている人は多いのではないでしょうか。しかし、一方で儚月抄では次のような描写もなされています。
紫の企てた月の都への潜入計画において本命部隊であった幽々子と妖夢。紫はその人選について、月の都でも目立たないことを理由に挙げています。ではその目立たない理由はというと、次のように言及しています。
月の都は穢れを嫌うけど、貴方たちはすでに浄土の住人だからね(漫画版最終話)
更に小説版では、このことについてより決定的な記述があります。
亡霊は元々浄土に住む者である。つまりは生死に関わる穢れが少なく、~(小説版第八話)
これらの言及から《亡霊は穢れが少ない》ということは東方の世界において確定的な事実であると読み取れます。
しかし、皆さんはこれを聞いてすぐに納得しましたでしょうか。
確かに幽々子に関する記述をomakeテキストや求聞史紀で確認してみると、輪廻の輪から外れ永遠に生きる事も死ぬ事もないことを指摘する部分は多く見られます。ですが、彼女の「死を操る」という能力、住人をして「死霊」と表現する冥界など、彼女の周りにはあまりにも死に関係する事柄が多く、穢れを生死と認識していると中々飲み込めない部分が多いのではないでしょうか。
更に言えば、生きても死んでもいないという点では蓬莱人も同じです。それにも関わらず、亡霊とは異なり蓬莱の薬を使用した蓬莱人は穢れた存在と認識されています。(小説版第一話)
以上のように、幽々子を穢れの薄い存在と見るには、穢れを生死だけと捉えていると不都合な部分が多いように思われます。このことについて、穢れの性質をより明らかにすることで整理を付けていくのが今回の記事の目的となります。
穢れの性質について
早速ですが、一番冒頭で挙げた「穢れとは」の該当部分には続きがあります。それが以下の文です。
特に生きる事が死を招く世界が穢れた世界なのだと。(小説版第六話)
穢れに関するより詳しい表現が出てきていますが、「穢れとは」という直接的な言及から変わって「穢れた世界とは」という間接的な言及になっているため、穢れの性質を読み取るには少しひねって考えなければいけなくなってしまっています。
穢れ自体の性質についてより直接的な言及を探してみると、次のものがありました。
穢れは物質や生命から永遠を奪い、同時に寿命をもたらす。(小説版第二話)
続く第三話で説かれるように、この寿命をもたらすという性質こそ、月の民が地上を離れた一番の目的になります。すなわち、「月の民は生死を避ける」というのをより突き詰めて表現すると、「月の民は寿命から逃れている」となるのです。
また、小説版第六話に戻ると、次のような文章もあります。
地上は生きる事が最善であるが故に、死の匂いが強くなるのだという。その死の匂いが生き物に寿命をもたらす。
先程の情報と合わせると、「穢れ」は「死の匂い」と言い換えることができることが分かります。しかし、「死の匂い」という表現だけではかなり意味が漠然としているので、やはり明確な性質としては寿命をもたらすというのが一番はっきりしているかと思います。
生物に寿命がもたらされた経緯について、最も詳細な描写があるのは小説版第三話です。以前こちらの拙稿で穢れと生命力の関係について生存競争が関わることを述べさせていただきましたが、まさにその生存競争によって穢れが発生し寿命が与えられたという流れがこの話では語られています。
このように穢れの性質を「死の運命を与えるもの」として見たとき、同種の表現ではないかと思われるものがあります。それは、虹龍洞にて魅須丸が語った「呪い」です。
酸素とは、”失うと瞬時に死ぬ”という動物に掛けられた呪いです(虹龍洞咲夜4面)
穢れとは異なり何故それが発生したかの理由については一切触れられていませんが、まるでそれが無ければ死ぬことはないかのように表現している点で両者は類似しているように思われます。また、呪いという言葉が東方で登場する機会は多く、特に剛欲異聞ではストーリーの要である血の池について「呪われた」という表現が多用されています。同時に、血の池即ち石油は生物由来の生成物であることが強調されており、ラスボス戦の曲名にもそのことは反映されています。
生存競争に敗れた者たちの消える事無き怨み……とまで言うには根拠がありませんが、このように穢れは生存競争によって生じた呪いの一種と捉えることができるのではないでしょうか。
また、少し余談ですが、剛欲異聞における会話の中で「温泉の匂いは硫黄ではない」という話が登場しています。勇儀曰くその匂いは「怨霊の怨みの匂い」であるとのことでした。温泉の匂いと石油の匂いは別物ですが、怨みといった生物の精神活動から生まれるものが匂いと繋げられることは、「死の匂い」と称される穢れが同質のものであることを彷彿とさせるような気もします。
呪いという視点からみた穢れ
つまるところ穢れと死の関係は、死即穢れではなく、その死を遡ったときに生存競争に関わっていた場合に穢れとなるのだと思われるのです。そうすると、死者である幽々子が死を招こうと(生前の怨みとかで無ければ)穢れ多き存在とは認識されず、死者の国である冥界も死に関わるというだけでは穢れと関わらないと考えられます。
ここまで考えると、後は元々語られていた理由で説明が付くでしょう。
「亡霊には生も死もない」。冥界に永住することを許されている幽々子は死とは関わっていても寿命とは関わっていません。転生を待つ霊達も冥界にいる間は寿命という縛りから解放されています。そのような意味で、冥界の住人に生死は無く、冥界は浄土たりえるのです。
(やや幽々子とは関係ない部分)
では蓬莱人はどうなのかというと、これには生命力に近い現象が起きていると考えています。先程も挙げたこちらの拙稿で、生命力とされる自然について生命力(=穢れ)という性質は後になって付与されたものであるという旨の主張をしました。今回の内容に基づいて表現するなら、自然は生命の生存競争に舞台として関わったため呪われた、となります。一方で、穢れを受けた自然はそちらからも生命に寿命を与えているので、呪いをかける側の存在でもあります。見方によっては、自然は生存競争を引き起こし穢れを生み出すものなのです。
これを踏まえて、蓬莱の薬にまつわる情報を見てみると、次のようなことが見えてきます。
・永琳が蓬莱の薬を渡した地上人はその後殺された
・妹紅は岩笠を殺して蓬莱の薬を手に入れた
蓬莱の薬にまつわるエピソードには血生臭い話が多いです。このことは、蓬莱の薬が争いの火種になることを示しているのではないでしょうか。
すなわち、生存競争にとって奪い合いの対象となる自然資源が穢れを与えるように、蓬莱の薬は争いを引き起こす存在であるために服用すると穢れが生じるのではないかという仮説です。
なお、蓬莱の薬と穢れの発生についての言及にはやや特殊な事情があり、当サイトではすでにtakenoko氏によって詳細なまとめがあげてられています。(小説版『儚月抄』第一話の修正意図について)該当部分である蓬莱の薬の副作用「飲むと穢れが発生する理由は不老不死の誘惑に負けたことによる」点について、氏は現行の設定と組み合わせても矛盾しないとの見解を述べられおり、筆者も同意するところです。そのため、削除された記述を信用した場合を考えると、「誘惑に負ける」は解釈の余地がある表現であり、そこを「限られた資源を自分一人のために使うこと」と捉えると先の仮説と符合させられるのではないかと考えています。
また、幽々子の暮らす環境はむしろ月の民にとって都合が良いとも考えられます。浄土としての死後の世界は、「厭離穢土、欣求浄土」の言葉が示すように主に仏教的世界観に根拠を置いていると思われます。この世を穢土とし、そことは明確に区別された世界として浄土を設定する考え方は、月の民の地上と月に対する見方と共通しています。生も死も存在しない仏の楽土は、むしろ便乗するレベルで月の民が理想とする世界であると思われます。
以上をまとめると、幽々子は穢れの少ない存在である、及び死霊の住まう冥界が浄土であることの理由は、穢れの本質は死にあるのではなく、寿命という生存競争由来の呪いに近いものであり、幽々子や冥界の住人はその呪いから解放されているという点にある、と捉えるとすっきりするのではないかと思います。
少し飛ばし気味で書いた記事でしたので、指摘点の残る文章になったかと思っています。ご意見・訂正などありましたらコメントいただけると嬉しいです。
ご一読ありがとうございました。
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