坂田ネムノ概論

坂田ネムノ

二つ名    浮世の関を超える山姥

種族       山姥

能力       聖域を作る程度の能力

テーマ曲 山奥のエンカウンター

登場作品 『東方天空璋』2面ボス

 

この文章の目的は、坂田ネムノに対する観点を提供することです。

キャラクターに対する情報が少なく、それが二次創作の発展の阻害やキャラクターへの理解が進まない原因となっていると考え、原作・元ネタを考える上で重要であろう三つのキーワードから人物像を探ることで、坂田ネムノを知りたい人にとって考えるヒントとなるように、ここに文章を書くことにしました。

 

・「人知れず山の中に住んでいて、社会を持たず、他所とも関係を持たない超閉鎖的で生態不明の妖怪」

 

というのは、坂田ネムノを撃破した時の霊夢の台詞ですが、生態不明の妖怪の生態を少しでも明らかにするのが目的です。

 

キーワード1 「二面性」

 

この章と次の章では、先人たちの民俗学での多くの研究を基に、坂田ネムノというキャラクターの特徴を見ていきます。まずは、このキャラクターの性質の基本となる二面性について説明します。

 

・「残虐性と慈悲心の二面性をうまく使い分け…」

 

これはグリモワールオブウサミの鬼人正邪の台詞ですが、天空璋においても、

 

・「里では一般的に山に入って行方不明になった場合…大人の場合は脅して送り返し、

子供の場合は保護して立派な人間へと育て上げることが多いようだ」 おまけテキストより

 

・「貴方達が本当は友好的な種族であることも」 撃破した時の射命丸文の台詞

 

という記述があり、「山姥の包丁研ぎ」、「マウンテンマーダー」といったスペルカード名と相反するようであって、文を選択した以外の場合も概して、自機と最初に対峙した時は好戦的ですが、勝利した後は概して好意的な態度を取ります。

では、どうしてこのような二面性を持ったキャラクターなのでしょうか?

 

かつて、一般の人々が生きる村落共同体の外は他界とされていました。

他界は、共同体の外側であり、山姥のいる山岳もその一つです。他界というと、死後の世界のようなものを想像しますが、死後の世界のような観念的な世界だけでなく、共同体の外もまた他界とされていました。共同体は他界を否定し、それによって共同体の正当性が認められるという側面を持っていました。共同体は生や人間、秩序といったイメージを持つ一方、他界は、死や神仏・悪霊、無秩序といったイメージが与えられました。山岳は、共同体から見た世界の末端であり、現世と観念的な他界を結ぶ境界でもあります。

すなわち、共同体と他界を分ける役割と、その二つをつなぐ両義的な側面があるのです。

山に存在する者たちにも、そうした両義的なイメージが投影されるようになりました。

山姥についてみると、悪霊と女神の二つの面があると指摘されます。

「三枚のお札」、「食わず女房」のように、人間を食べようとしたり、口が裂けていて、恐ろしい姿をしたりしているという身体的な特徴を持っていたりすることが、悪霊の面といえます。その一方、「姥皮」や、長野市中条の「大姥様」の伝説のように、人間を助ける山姥の話も残っていることから、人を助ける、女神の面もあるといえます。

山姥が文献に初めて現れるのは室町時代ですが、室町時代に作られた謡曲の「山姥」に既にこの特徴があり、以後もこの性質は引き継がれています。各地に伝わる民話からは、山姥をもてなすと幸運を手にしたなど、良い振る舞いをした者には富を与え、かたや倫理的に良くない行動をとると災いを与えるといったことが伝わっています。天空璋においても、弾幕ごっこを経て、主人公達が力を持った存在だということが分かると、その力を認め、好意的な態度をとっています。出会った人によって、二面性のどちらが表れるかが異なるわけで、その使い分けの妙味が坂田ネムノにはあるといえるでしょう。坂田ネムノのテーマ曲は「山奥のエンカウンター」ですが、正に出会いがその性質と関わっているのです。

 

・「髪にはおどろの雪を戴き。眼の光は星の如し。扨面の色は。さにぬりの。軒の瓦の鬼の形を。」

 

・「払はぬ袖に置く霜は。夜寒の月に埋もれ。打ちすさむ人の絶間にも。千声万声の。砧に声のしでうつは。ただ山姥がわざなれや。」

 

上二つは「山姥」での山姥の姿態についての記述と、山姥の独白の台詞です。

 

以上を踏まえると、坂田ネムノの二面性は、こうした山姥の両義性を反映させたものだといえるでしょう。

これを創作に活かすならば、ツンデレや、したたかな人物像を描くことが可能でしょう。

また、キャラクターに潜む二面性を探すのも楽しいかもしれません。

例えば、坂田ネムノの一人称は「うち」ですが、私はここに少女と女性の二面性があるのではないかと考えています。というのも、台詞にある訛りから考えると、一人称は「おら」となるのが自然ですが、そうではなく、「うち」が一人称です。「うち」というのは、女性でも子供でもない少女性を示す一人称として使用されることが指摘されており、また、ヤマンバギャルを出すという構想が天空璋開発の当初は存在したことからも、少女性が意識されていると考えられます。というのも、「うち」はギャルの一人称としてもよく使われるからです。衣装から見れば、鉈にリボンがあったり、フリルが用いられていたりするのも、坂田ネムノの少女的な意識からその衣装を選んだとも解釈できます。そして、少女というのは、山姥の持つ大人の女性という像と対立するものですから、そこに坂田ネムノの二面性の一つがあると考えることができます。

ただし、聖域のうちとそとを峻別するという意識から、「うち」になったと考えることもできます。先に述べた私の考えはあくまで仮説ですが、解釈の方法の一つとして、山姥の特性である二面性から考えるのは有用だと言えるのではないかと主張したいのです。

 

〇この章は小松和彦氏の山姥や境界に関する論説に多分に拠っていますが、山上伊豆母氏は伊邪那美に山姥の両面性の起源を求めており、興味深いです。

 

 

キーワード2 「エロティシズム」

 

ここでは、前章で述べた両義性が具体的にはどのようなものか、それがどこに由来するのかを見ていきます。

 

坂田ネムノのZUN絵を見ると、かなりバストが大きく、露出度が高い衣装を着ていることが分かります。ドット絵を見ても、明確に乳房の形が書かれていることがお分かりいただけるかと思います。ZUN絵・ドット絵の段階ではっきりと巨乳のキャラクターは珍しいと思われますが、これは何故でしょうか?

 

江戸時代に、「山姥と金太郎・栗持枝」という錦絵が制作されています。作者は喜多川歌麿で、19世紀に制作されたものです。ご覧いただければ分かると思いますが、ここでの山姥は先に挙げた鬼女的な特徴とは異なっています。長い黒髪に胸部を露出しており、美しく妖艶な山姥が描かれています。ちなみに、喜多川歌麿はこの錦絵以外にも、多く山姥と金太郎の絵を残しています。もっとも、歌麿の作品がそうした山姥像の初出ではなく、先行の作品も存在しています。山姥は、山姫や山女郎とも呼ばれ、若い女の姿を取る場合もあることは、皆様もよくご存知かと思います。近世に入り、山姥は金太郎の母とされるようになりました。その代表的なものが近松門左衛門の「嫗山姥」で、「山姥」を基に、鬼女となった遊女が山に入り山姥となって子を産み、それが坂田金時の物語に繋がっていく、というストーリーです。「山姥」は、山姥の舞によって「百ま山姥」という名声を得た遊女が善光寺参りに向かう途中で本物の山姥と遭遇するというシナリオですが、これも遊女と関係があるといえます。中世には、遊女が菩薩へ変化する物語も多く残され、聖なる存在ともされていました。「山姥」において山を回る山姥も、遊女も、遊行・漂白する存在です。共同体の外から遊行・漂白して来る者は、共同体から否定される一方、神仏のイメージも付与され、聖なる存在ともされたのでした。

ところで、「食わず女房」には、山姥が米を膝の割れ目から食べるだとか、腹にも股にも食べさせるだとかいうバリエーションが存在し、猥雑さをうかがわせます。また、山姥や山の神に対する供物として、性的な物が供えられることが多く、やはり、エロティシズムと山姥の関係を思わせる要素が存在しています。ここから山姥のエロスと聖性を考えるならば、山姥というのは言うまでもなく女性であり、生殖機能として、性交渉を経て子供を産むという能力が備わっているといえます。新しい生命が生まれるというのは、古代の人々にとっては人智を越えた体験であり、畏怖の対象、さらには、五穀豊穣といった生物の豊饒へつながるという経過をたどりました。やがてそれは、自ら子を産み育てる山の神、子供の出産や成長を守る山の神に発展したと推測できます。山岳もまた、多くの動植物を育て、恵みをもたらす存在であり、山の神が全国的には女神とされている点や、山の神が非常に多産であるという伝承が残っているという点からも推測がつきます。金太郎を育てる山姥という像も、そうした山の神への信仰が山姥と合体した結果生まれたのだと考えられます。東方の山姥の住む聖域の聖である由来を、山岳信仰及び豊饒をもたらす地母神に求めることができましょう。その一方で、山姥は、山岳に対する恐怖に由来する禍々しい一面も有しているといえるでしょう。自然に対する脅威に加えて、死人を葬るのに山麓や中腹を選ぶことが多かったことから、死者の霊ひいては鬼が山からやってくるとされました。山姥は、鬼女の姿をしていることからも、鬼にも山姥の構成要素の起源があると考えられます。なお、「山姥」作中では、山姥は妄執に囚われ山を回る存在として描かれていますが、中世には嫉妬や憎しみといった妄執に囚われた女性が鬼女へ変身する説話がしばしば存在し、それは、女性は罪業深いという仏教言説に由来するという見方もあります。絶対唯一の起源があると考えるよりは、両義性を鑑みて様々な角度から捉える方が良いでしょう。

 

以上を踏まえると、山姥は様々な要素が複合して作られた存在であり、その聖性はエロティシズムと密接に関係しており、坂田ネムノの容姿はそれを踏まえたものだといえます。

キャラクターの持つエロスを追求するのも良し、山姥を構成する様々な要素から創作・考察のネタを拾うのも良しといえましょう。もとより謎の多い存在で要素の複合体であるわけですから、二次創作や考察でも素材は豊富にあるのです。

 

〇山姥が遊女と関係があると先に述べましたが、その異称である山女郎についても、遊女と関係があると考えられます。駒草山如の種族は山女郎で、通り名は「駒草太夫」です。太夫というのは、遊女の最高位を指す語ですから、山姥と遊女の、性と聖の系譜にあるのではないか指摘できます。また、東方虹龍洞で、山如が洞窟の入口で見張りをしていたり、不本意とはいえ人間と妖怪を交えて賭博を行っていたりするのも、洞窟と外の世界の境界にいて、人間という現世の存在と、妖怪という他界の存在を結んでいると考えることができ、山岳という境界にいる山姥との関連性を見出すことができます。

 

 

キーワード3「自然主義・脱依存主義」

 

ここでは、東方での山姥という種族の特徴から、坂田ネムノを見ていきます。

 

・「山姥の脱依存主義も自然主義も尊重しております」

 

・「この山はあんたらのだけのもんじゃない。不可侵条約を一方的に破棄するのが天狗達のやり方だって言うんだな。」

 

これはそれぞれ坂田ネムノ撃破時の射命丸文の台詞、文を選択した場合に坂田ネムノが登場時に言う台詞ですが、おまけテキストでも、以下のような説明があります。

 

・「山姥は集団、組織を持たず、単独行動を好む種族である。同種族同士でも交流を持つことは殆ど無い一方で、他種族とは交流することもある。だが、あくまでもビジネスライクな交流である。組織を好む天狗とは相容れず、種族間で不可侵条約を結んで、それぞれ独自に生活しているようだ。」

 

さらに、バレットフィリア達の闇市場での登場時には、「山姥は闇市場が好き」という文言が出てきます。

以上を総合すると、脱依存というのは集団や組織、同族さえもあてにせず独立独歩でいく姿勢だと読み取れます。もっとも、集団を持たないとはいえ、過去もしくは現在に山姥という種族を代表するような存在がいて、天狗の代表と約束を結んだとは想定できます。というのも、この文は坂田ネムノ個人の説明ではなく、山姥という種族について説明しているので、種族単位で不可侵条約を結んだとも読み取れるからです。実際に台詞でも、天狗達と書いてあんたらと、山姥と書いてあなたたち読ませていることから、個人間ではなく種族間の条約の存在を示唆しているといえます。また、実際に闇市場に来ていることからも、他種族と物の売買を行っていると考えられます。物々交換とも考えられますが、作中に弾貨やお金のシステムが登場するので、貨幣経済の仕組みを理解していると考えた方が良いでしょう。すなわち、山姥は、共同体に属さず、同族を含む他から干渉を受けない一方、もっぱら売買契約によって他と関係を持つといえます。幻想郷の人里は基本的に人間の共同体であり、東方での天狗もまた組織に生きる存在です。そうだとすると、幻想郷での山姥の種族としての特徴は、ここに集約されるといえるでしょう。また、山姥は、不可侵条約を結んで、山の一部分を領域として切り分け、他からの干渉を受けない場所として、そこに住んでいると読み取ることができます。獣王園のおまけテキストの、孫美天の説明文には、

 

・「幻想郷中の領土の所有権が失われたかと思ったが一部は権力を持った霊が収めたままの場所があった

  その場所は聖地ヤマンバの地 妖怪の山の麓にあるアンタッチャブルな聖地である」

 

という文言がありますが、ここからも山姥のいる所が、独立した場所であると解釈できます。

こうした特徴は、実は我々現代の人間に近いものだといえないでしょうか。

我々は、村落共同体のような強力な共同体には生きていないし、もはや生まれた共同体への帰属意識が薄い人もいるかと思います。また、資本主義社会の発展の結果として、お金さえあれば会社等の組織に入らず生きていくこともできます。一方、人間関係の希薄化が指摘されるように、孤独感や人同士のつながりにくさを感じる場面も多々あります。

 

・「赤い山の孤独」

 

これは、天空璋2面に現れる言葉ですが、「孤独」という語があることに注目してください。

単に独立しているというのではなく、一人の寂しさを思わせる意味を含んでいるといえます。他との関わりがないからこそ、訪問者を温かく迎えたり、迷い人に世話を焼いたりして、他との精神的なつながりを得ようとするのだろうとも解釈することができます。闇市場もまた、他者と交流を持つ場所です。ただし、天空璋にて最初に侵入した時は攻撃しようとしていたり、大人に対しては追い返したりしていることから、無条件に聖域に来たもの全てを受け入れるのではないと考えられます。そもそも、完全に聖である寺社とは異なって山姥は女神と悪霊の二つの面を持つのですから、単純に聖母のように、聖域を誰もかもを受け入れる場所のように捉えるのは疑義が残るところです。山姥が他と交流を持たなくなった経緯と、我々が今の生活様式となった経緯はまた別だと思いますが、結果として似た状況にあることを指摘しておきたいのです。

それはすなわち、日常で我々の感じる感情と、坂田ネムノの感じる感情は近いものがある、自分の経験や感情を投影できる余地があるということです。我々にとっても、孤独感を抱える一方でパーソナルスペースという概念を持っているように、入ってほしくない領域、聖域のようなものもあるものです。

山姥のいる所について、山姥が定住していて、その場所が合意によって山の他の場所と区別されていて、他の場所とは別の統治権が存在して所有権の無効化が及ばない、不干渉とすることができるとすると、これは国家の三要素を満たしたものだといえます。国民、領土、主権があり、国として認められ、内政不干渉の原則が適用されているのです。思うに、近代国家的な空間を、国家のない幻想郷において表現したものが「聖域」ではないでしょうか。近代国家という概念は幻想郷にはないので、代わりに聖俗の区別によってそれを表現しているのではないでしょうか。個人間でのものではなく種族間での不可侵条約が予め存在し、それによって成立した空間で生活しているとするならば、「聖域を作る程度の能力」とは、自分が聖域を積極的に作れる、というよりは、山姥という、聖域という国家のようなものを作る種族の、一員であることを示した確認的なものと言えるのではないでしょうか。国家というと、社会や集団を持たないことと矛盾するようですが、あくまで国家と全く同じではなく、国家のような空間が存在していて、その構成員としてそこに山姥がいる、ということです。言うまでもなく、我々も近代国家の一員として生活しておりますが、そこでの生活に実態はともかく形式は近いと考えられます。

 

では、もう一つの自然主義とは、どのような意味でしょうか?

単純に考えるならば、他と交わらず自然と共に生活しているから、そのように評されると言えそうです。ちなみに、謡曲「山姥」は仏教哲学がテーマとなっている作品であり、仏教的な価値観に立てば、

 

・「さだまりて山姥といふものはなし、心の変化これをいふなり

山姥といふはこゝろの名なりけり、心のゆかぬおくやまもなし」

 

山姥は自然であり、ひいてはそれを作っている人間の心そのものだといえます。

この文は沢庵宗彭「山姥五十首和歌」にあるもので、禅宗の立場から謡曲「山姥」を解釈したものです。

 

文字通り、自然主義という言葉から考えるとどうでしょうか?

自然主義という語には複数の意味がありますが、代表的なものに文学における自然主義が挙げられます。一般に理想化を避け、醜悪な現実を拒まず、現実のありのままを直視して描こうとする立場と説明されます。坂田ネムノが文学作品を書いているとは思えませんが、幻想郷での立場としては近いのではないかと思います。

坂田ネムノは、共同体の世界である人里、天狗の社会、それらの外側にいるといえます。

そもそも山岳自体が共同体から見れば、外側の世界にあたるのでしたね。

さらに、東方での山姥という種族は、集団・組織を持たず単独行動を好むとのことでした。

そうだとすると、どこにも属していないからこそ、すべてを外側から見つめ、現実を直視することができると言えないでしょうか。

山姥は人間社会や天狗の社会、他種族に対する客観であり、組織や集団的な束縛もありません。既存の価値観やしがらみの外から出来事をそのままに見る観察者的な立場なのです。

 

・「彼女自身も世間に興味が無く」

 

という文言がおまけテキストにありましたが、それも世間の価値観とは無縁の証拠といえるでしょう。二つ名である「浮世の関を越える山姥」という語からも、山姥とそれ以外に隔たりがあることが分かります。すなわち、幻想郷内での山姥は、外側から見ることができる者、観察者としての立場にいるということが、自然主義という語に込めていると考えられます。幻想郷の外側にいる、という点では、我々もまた読者・プレイヤーとして、作中の外から原作を見ているわけですから、東方でいう山姥と同じ立場にあるといえるでしょう。私が何を言いたいかもうお分かりですね。

我々は、坂田ネムノと同じ視点を共有している、やはり、自分の経験や感情を投影できる余地がある、もっと言うならば、坂田ネムノを介して、キャラクターの性質に沿って自然に、自分自身のことを表現できる可能性を指摘したいのです。

 

〇山姥と市について、折口信夫は、山から市へやって来て祝福を行う巫女が幻想化したものが山姥と述べています。これは、古代の神々の原型を、外から来訪する神に求めるマレビト論に立って展開したものですが、闇市場が好き、という文言も、元来市と山姥の関係が深いとするこの論から考えることもできるでしょう。

 

以上より、坂田ネムノは、伝統的な山姥と、東方Projectでいう「山姥」との多面的な要素を持つ存在だといえます。そしてどの面から見ても、創作や考察の手掛かりがあることがおわかりいただけたかと思います。

この文章が少しでも、坂田ネムノに関心をお持ちの方に役に立てば、幸甚に存じます。

 

 

参考文献

折口信夫「鷽替え神事と山姥」(筆者註…鷽替えは うそかえ と読む)

五来重「「食わず女房」と女の家」

山上伊豆母「霊山の棄老と養老」

川村邦光「金太郎の母」

小松和彦「天狗と山姥 解説」

いずれも「怪異の民俗学5 天狗と山姥」河出書房新社 2000年 所収

小松和彦 「世捨てと山中他界」

「神々の精神史」 講談社 1997年 所収

佐伯順子 「遊女の文化史」 中央公論社 1987年 

瓜生中「よくわかる山岳信仰」角川書店 2020年

能・演目事典:山姥:あらすじ・みどころ
the能ドットコムの演目事典では能の演目「山姥」のあらすじとみどころを解説・紹介。プリントできる演目ストーリーの現代語訳(英文対訳付)も公開しています。
IRIZ:研究室:五山文学研究室:関連論文:『瓢鮎図・再考』
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【読売新聞】編集委員 森川暁子 今年度版の厚生労働白書が、いくつかの調査結果を引きながら、人間関係の希薄化を指摘していた。 例えばNHK放送文化研究所が1973年から5年ごとに実施している「日本人の意識」調査。「親せき」や「職場」、
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筆者は「社会言語学」を専門に研究してきた。この分野は、ことばの社会的な側面に注目するが、ここでは、ことばを使って私たちは「自分らしさ」をどのように表現しているのかという問題を取り上げよう。

コメント

  1. 風野空気 より:

    基本書籍(求聞シリーズ)を用いて東方の登場人物象について考えてきていたのですが途絶えており悲しみにくれていました。
    そんな中この考察記事を見つけて参考になりとてもありがたかったです。
    好きなネムノさんをナラトグラフなどtrpgや二次創作に通して演じることで
    自己表現してみようかと思えました。