はじめに
当記事は先日4月1日に発売となった東方幻存神籤について考察している。
当然同著に関するネタバレを多分に含む内容となっているため、閲覧にはご注意頂きたい。
同著は発売より日の浅い書籍であり、御神籤の内容は一文一文が短い内容である。そのため、全文引用をなるべく避け、引用個所も要約に留めている。お手元の同著を開きながら当記事を御読み頂けると嬉しいところである。
また、考察と言ってはいるものの、どちらかというと推測・推量に近い記事であることにも注意されたい。幻存神籤という書籍は確定と断言できる情報が少なく、どうしても考察とは呼べない程度の推測に留まることが多いからだ。同時に、既存の作品における描写の裏付けも乏しい内容となっている。
「考えにくい」だの「ではないだろうか」だのと記述をしているが、あくまで個人的な推測に留まることが殆どだ。
あくまで参考・考察の助けとしてお読み頂ければ幸いである。
霧雨魔理沙の御神籤に対する違和感と疑問
一頁一頁が様々な解釈を呼ぶ幻存神籤であるが、今回は霧雨魔理沙の御神籤に注目したい。
というのも、その御神籤に書かれた一部内容が既存の霧雨魔理沙像とかけ離れた・真逆とも言える内容だったからだ。
・運勢:退屈だが平穏な日々が続き、それを後に幸福に思う。
(東方幻存神籤147頁より抜粋・要約)
ご存知の通り霧雨魔理沙は退屈や平穏とは無縁の存在であり、運勢欄で書かれた性質とは噛み合わないキャラクターだ。
魔理沙の現状、或いは過去を知っている者であれば書かないであろう内容であり、ともすれば魔理沙の生き方を否定しているかのような内容にも見える。
他にも仕事欄(同147頁)は、本人の気質には合っているだろうが、職業魔法使いで生きていくであろう魔理沙にとってはやはり噛み合わせが悪い内容に見える。(泥棒は辞めた方がいい、はともかくとして)。
では一体誰がこの運勢を書いたのだろうか?
可能性1 東風谷早苗
まずは早苗が書いた可能性に目を向けてみたいと思う。といっても、私の中はこの可能性は低いのではないかと感じている。
前提として、魔理沙と交友している相手が魔理沙の生き方(≒魔理沙らしい運勢)を「退屈だが平穏な日々が続く」と受け取ることは少ないだろう。魔理沙は異変解決や妖怪退治を度々行っており、魔法に関しても度々派手であると描写されている。
ではどうして「退屈だが平穏な日々」が魔理沙の運勢にふさわしいと思うかと言えば、逆説的……つまりは、「今は派手な暮らしをしているが、だからこそ本当は退屈だが平穏な日々がふさわしい」という理論になるのではないだろうか。
では、東風谷早苗はそのような思考をするキャラクターだろうか? 私にはそうは思えない。
早苗はもっとも現代人に近いキャラクターであり、おそらくは肉体や戦闘技能においても“普通の人間に近い”存在であろう。そんな早苗が自分を棚に上げて「魔理沙さんはもっと平穏に生きた方がいいと思ってたんですよね」と考えるとは思えないのだ。
可能性2 十六夜咲夜
次に咲夜が書いた可能性はどうだろうか。
メイドをしていると、こんな辺鄙な山奥でも衣食住に困らず快適であ
る。彼女は人間だが、悪魔達と一緒にいる為人間からも妖怪からも余
り良い目で見られない。でも一部の人間達はそんなことを一切気にし
ないで接してくれるし、何より食う寝る処に住む処に困らない。これ
ほど快適な暮らしは他に考えられなかった。
『東方永夜抄』キャラ設定.txtより引用
妖々夢のキャラ設定にあるように、十六夜咲夜はある種の「普通の日常」を評価している様子が見られる。「咲夜も、ここに暮らしていると時間が停止しているかのように感じるのだった。」と記載があるのは東方妖々夢のキャラ設定.txtであるが、彼女が日々の営みと繰り返しに対して後ろ向きさを持っているようには思えない。
とするならば、魔理沙の性質(≒運勢)に対して「退屈だが平穏な日々」と評すること(霧雨魔理沙の生活が派手なのは知っているが、平穏な日々ってのもいいんじゃない?)の、可能性はゼロではないだろう。
しかし一方で、先に述べたように、魔理沙の御神籤の「運勢」に書かれた内容は、魔理沙の生き方の否定にもなる記述である。そんな記述を親しい間柄である咲夜が書いたとは考えにくいのも確かだろう。
また、以前書いたレミリア・スカーレット、吸血鬼異変後一時帰宅説でも触れたことであるが、レミリアと咲夜が幻想郷にやって来たあと、レミリアが人間に敗れたことで心が動き始めたという示唆が存在する。(――ZUN『東方求聞史紀』一迅社,2006,p.123 など)
もしこの“レミリアを負かした人間”が魔理沙であるならば(あるいは霊夢と魔理沙の二人が協力してレミリアを倒した、と咲夜が認識しているのであれば)、魔理沙の性質にふさわしいのは「退屈だが平穏な日々」とは思わないかもしれない。
結論を言えば、「可能性はゼロではないが、低い」と私は考える。
可能性3 魂魄妖夢
では妖夢はどうだろうか。
個人的には、霊夢と魔理沙以外では妖夢がもっとも草案を書いた可能性が高いだろうと考えている。
東方酔蝶華において、妖夢は魔理沙に「ただの大ボラふきでピンチには逃げ出すクズ」(――ZUN『東方酔蝶華』4話より引用)と暴言を吐く場面がある。しかし魔理沙側は全く気を悪くした様子もなく、冗談として消化している様子が見て取れる。
今回の御神籤における運勢も一見にして魔理沙に対して「失礼」に当たる内容ではあるものの、妖夢であれば(妖夢と魔理沙の関係であれば)、そのようなことを言ってもおかしくはないかもしれない。
妖夢が書いていないとする積極的な否定材料は少ないように思えるが、どうだろうか。
敢えて言うのならば、そして身も蓋もない言い方ではあるが、魔理沙の御神籤ならば霊夢が自分で書くか、魔理沙本人が書くだろう、という点が否定材料になるだろう。
御神籤の草案を創るにあたって、霊夢が知り合いの人間に執筆を依頼した経緯から考えれば、魔理沙と最も親しい間柄である霊夢自身が書くのは自然に思える。あるいは、魔理沙本人に書いてもらうのも自然だろう。
とはいえ、妖夢が書いた可能性はそれなりにある。積極的に否定はできない、というのが私の中の現在の考えである。
可能性4 博麗霊夢
先に霊夢が書いた可能性に目を向けたい。
霧雨魔理沙が異変や事件に顔を突っ込んでいる事実。これを霊夢が知らないというわけはない。これは特定の描写を取り上げなくても論を俟たないところだろう。
では魔理沙ともっとも親しいであろう霊夢が、魔理沙の性格・人生を知って尚、あのようなことを御神籤に書くことはあり得るのだろうか。
ここでポイントとして取り上げたいのは、霧雨魔理沙は過去を切り捨てているキャラクターだということだ。香霖堂「霧雨の火炉 」では実家のことを完全に切り捨てている魔理沙が見られる。あの様子から考えれば、魔理沙は霊夢に自分の詳細な過去を伝えていなくても(自分を構成する一要素として、霊夢に過去のことを話していなくても)不自然はない。
つまり霊夢は、実家のことに限らず、東方獣王園において受け手に開示された魔理沙の過去=幼いころ泣きながら森にやってきて、なんとか今の環境を整えた苦労と生き方を、知らないかもしれないのだ。
とするならば、それこそ「普通」の一般論で、“魔理沙の性格は知っているけれど、一般論としてはこうよね”と記載する可能性もゼロではないだろう。また、霊夢は東方酔蝶華55話において、一晩中里を見に行っていた魔理沙に対して「危ないなぁ」と述べるなど、魔理沙の実力に関して絶対の信頼を向けているわけではない様子が見て取れる。もし霊夢が御神籤を書いたとするなら、そのあたりの心理的要素も関係しているのかもしれない。
別の視点からも考えてみたい。近年はそうでもないが、博麗霊夢は妖怪退治を行う理由を「仕事だから」と言っていた時期がある。(例えば、東方花映塚における「失礼ね!妖怪退治は仕事だもの、仕方が無いじゃないの」という台詞など)
霊夢の視点では、未だに妖怪退治・異変解決(≒非日常の出来事)は「仕事である」という認識を持っているとしたらどうだろうか。そう考えれば、一見魔理沙の生き方の真逆とも言える運勢の記述にも説明はつく。“あんたは仕事をする必要はないんだから、退屈で平穏な日々が続いた方がいいでしょ?”と言っている、という捉え方である。
更に言えば、御神籤は草案を書いた者の意志だけが反映されているわけではないことにも注目したい。神託を最大限反映した結果、霊夢の意志とは異なる結果が記述された(結果を記述することにした)可能性もあるだろう。
既に述べた通り、一般論で考えれば魔理沙の生き方は危険なものである。神託がそう言っているのならば……と、霊夢自身の考えとは異なる記述したという捉え方はどうだろうか。
いずれにせよ、霊夢が御神籤を書いたとする説には幾つかの説明がつくように思われる。
可能性5 霧雨魔理沙
最後に、魔理沙が自分で草案を書いたとする可能性を考えていきたい。
先ほどから魔理沙の「運勢」欄の記述は、魔理沙本人に取っては真逆のものである・つまりは魔理沙にとっては失礼に当たりかねないと述べているが、それを魔理沙本人が書いているとするならば話は別である。他人からすれば書きにくいことであっても、本人であれば何かしらの意図をもって「敢えて」書くこともあるだろう。
例えば、魔理沙が自分の性質や性格、あるいは境遇をそのまま書いたとしたらどうなっていただろうか。もしかすると「毎日派手なほうがいい。やりたいことがあるなら家を出るのが吉」となっていたかもしれない。
だが、この内容の御神籤を販売するのは問題だろう。何故なら、この御神籤は里人も引き得る可能性がある御神籤だからだ。
妖怪や神様の運勢にどんな突飛なことが書いていようとも、「じゃあこの妖怪/神様と同じように自分も生きてみよう」とはならないだろう。その内容に現実味がなく、命の危険があるのならば尚更である。
だが魔理沙の運勢に関してはそうもいかない。霧雨魔理沙の存在は人里である程度知られており、幻想郷縁起の英雄伝にも載っている。そんな彼女の生き方を推奨するような御神籤が博麗神社から売り出されれば、それを読んだ人間が「私も」と思うかもしれないのだから。
幻想郷独自のルール以前に、ただの人間がコミュニティを外れて生きていくことはできない。それが普通だ。霧雨魔理沙とは例外的な存在であり、そこに再現性はない。一回性の「実例」の後を追わせるような示唆を、御神籤に載せるいかないのだ。
魔理沙は自身の在り方に責任を持たないキャラクターではなく、同時に論理的思考を持つキャラクターでもある。
「自分の運勢をそのまま書いたら不味いな」と思考を巡らせ、責任を持った記述をすることに不自然はないだろう。
また同時に、御神籤に書かれている台詞と思しき部分にも注目したい。
「運任せは破滅と同義だ。」この文章をそのまま読めば、イコール「運勢通りにするのは破滅する」ということにはならないだろうか。
件の「退屈だが平穏な日々が続き、それを後に幸福に思う。」という情報は、“運勢”欄に書かれた内容である。つまり魔理沙は、既に述べたような「里人への配慮」から自分自身らしい運勢を書くのを避け、しかし一方で「運勢通りにするのはよくないぜ」という内容をも記述し、自分が本当に良いと思う運勢を示唆したのだ……と考えることはできないだろうか。
そしてそもそもの話を言えば、今回霊夢が御神籤を作成したのは「妖怪の記述を行い記憶に留めることで、全てが無に帰すことを防ぐ」狙いがあってのことである。
とするならば、人間キャラクターの御神籤は、本来作成する必要のない、いわば“余分”の項目である。そのような“余分”を、“時間がないために御神籤を書くことを依頼した”霊夢が書くかというと、やや疑問が残る。であるならば、今回御神籤の草案を作成したと描かれる人間たちの御神籤に関しては、自身で作成したとするのが自然かもしれない。
おわりに
冒頭で述べたように、当記事は考察というよりも推測・推量に近い記事である。筆者の個人的な見解が多分に含まれているため、「~だろう」「~可能性もある」と書きはしたものの、その根拠の裏付けを全て記述することには成功していない。あくまで参考として見て頂ければと思う。
現時点では霧雨魔理沙の御神籤草案を書いたのは魔理沙自身である可能性が一番高い、とするのが妥当ではないかと私は考えている。しかし、他のキャラクターが書いた可能性も低くはないだろう。特にあのような内容が書かれた一番大きな理由と思っている「里の外へ出ていくことを里人が読む可能性がある御神籤に書くわけにはいかない」という点は、魔理沙以外のキャラクターでも書き得るからだ。
近年は酔蝶華において魔理沙が妖怪になりかける示唆が描かれることもあった。
そのこともあり、魔理沙の将来がどうなるのかが、明確に描かれるのではないかと個人的に期待している。今回の御御籤もその一端かもしれないし、全く関係のないことかもしれない。
更なる魔理沙に関しての描写が増えることを期待するばかりである。
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