生命力から考える幽霊・妖精・地獄

いま 生命力が 熱い!

 生命力、今まで自分の中では月関係の話や摩多羅隠岐奈に対する理解の延長でぼんやりと考えるぐらいの存在だったのですが、昨年獣王園が発表されそれに向き合っていく中で、それらが一気に繋がりだして見えてきました(個人の感想です)。そして先日、X(旧Twitter)で次のような情報があると教えていただいたことで、それが大分初期の頃からシリーズの根底にあるものだという可能性を強く感じました。

さて、今回の話は幽霊話ですが、東方の幽霊は全く怖くないんですよね。何故なら、幽霊ってのは、生命力の具現みたいなもんで、別に人間に危害を与えるとは限らないからです

上海アリス通信 三精版 第6号(単行本未収録)

(見つけてくださった方のポスト:https://x.com/K_T_Takenoko/status/1748718635760427192?s=20

 今回は、自分が感じてきたそんな話を芋づる式に触れながら、こことここはこういう風に繋がってるんじゃないかな、という漠然とした思考をつらつらと書いていこうかなと思った次第です。

幽霊=生命力の発現とはどういうことか

 幽霊についての解説は、求聞史紀に詳しくあります。

動植物の気質そのものの正体。見た物、聞いた物、触れた物、味わった物を考え方に変換する、謂わば感性変換器の様な存在である。

(中略)妖精が自然の具現なら、幽霊は気質の具現である。

 このように、「気質」という言葉によって説明がなされているのが特徴的です。加えて、それらは生物の感性との関わりがあることが指摘されています。

 この気質という属性については、緋想天で更に詳しく取り上げられました。

 緋想天では、天子が緋想の剣を使って緋色の霧を集めることで異変を起こしていましたが、その緋色の霧について天子は「人の気質の具現である」と述べています(魔理沙ルート)。そして、妖夢ルートでは次のような発言をしています。

緋色の霧、それは非想の気

非想の気、それは生物の本質

 これらの発言から、緋色の霧=気質=生物の本質という関係が見えてきます。

 更には、妖夢ルートでは幽霊が何者かに切られていることが問題の始点となっており、人の気質と同様に幽霊も緋色の霧になっていることが判りました。

 則ち、幽霊=気質という関係がここにも表されており、それによって気質=生物の本質ということが読み解けるようになっています。

 「幽霊は生命力の発現」が意図するところは、ここに要約されるのだと思います。生物が所持する感性を司る器官であるところの気質。幽霊はこれの具現であるがために、極めて生命的な存在であるのでしょう。

穢れからみる自然の生命力

 一方で、自然の具現である妖精もまた、生命力の塊であると東方ではされています。今度は自然と生命力の関係について考えていきたいと思います。

 妖精が生命力の塊であるという認識は、主にクラウンピースがその印象を強くしていると思います。本人も紺珠伝霊夢ルートにて「生命の象徴である我々妖精族」と自らを評しています。

 彼女達はその力をもって月を襲撃しますが、何故この襲撃は成立するのか。それは生命が月の民達の忌み嫌う穢れであるからとされます。

 生命と穢れの関係は、儚月抄、特に小説版で詳しく話が展開されています。

 第六話にて、レイセンは依姫から穢れとは何かを次のように教えられたと語られています。

月の都が嫌った穢れとは、生きる事と死ぬ事。特に生きる事が死を招く世界が穢れた世界なのだと。生きる為に競争しなければならない地上を穢れた土地、穢土と呼び、月の都を穢れの浄化された土地、浄土と呼ぶ者もいる。

 このように、儚月抄では穢れと生命の関係の中で生存競争がよく引き合いに出されています。特に第三話では生命の歴史と穢れについて詳しく触れられていますが、この記述から自然と生命の関係も見えてきます。

海で生まれた生命は、生き残りを賭けた長い戦いの末に海は穢れ、そして勝者だけが穢れ無き地上に進出した。

生命の歴史は戦いの歴史である。常に勝者を中心に歴史は進む。そんな血塗られた世界だから地上は穢れる一方だった。

 これらの記述からは、海や地上は元々穢れ無き世界であり、生命が進出したことで次第に穢れた、ということが読み取れます。これに生命力=穢れという関係を当てはめてみると、海や地上は生命が進出した後に生命力を獲得した、と読むことができます。

 考えてみると、自然の現象自体は生命ではないことも多いのです。木、草、花といった植物は生命ですが、冷気や光といった現象は生命ではありません。そんな非生命も含んだ自然の具現である妖精たちが生命力を持っているのは、生命が自然に介入したことが始まりなのだと考えられます。

 三月精第二部終盤では、三妖精達が落雷で裂けて元の住人(妖精)がいなくなった大木に棲み着くという話がありました。その木は一日経たずに裂け目から新しい枝を生やしていたことで霊夢達を驚かせますが、そのことの説明として作中では次のようなナレーションがあります。

生きている木 草 花…… 自然のあらゆる物に妖精は宿る

(中略)棲んでいた妖精が居なくなればその木も長くは持たないだろう

逆に 早々と妖精が棲み着いた木は素早く大きく成長する

(第22話 世界最大の生命体 後編)

 言わずもがな、光は植物の成長に必要な存在です。光の具現である彼女達が棲み着くことで植物が急激に成長する、というのはイメージしやすいと思います。

 これを地球の歴史全体で考えてみるとどうなるでしょう。地上に進出した動植物は、地上にある光・空気・水を利用して成長していきます。この瞬間、今までただそこに存在しているだけだった地上の自然に、生命の維持に必要な物という性質が生まれているのです。

 まとめると、自然の生命力とは「自然が元々持っていた物理的なエネルギーであり、生命がそれを利用して成長したことで生命力という扱いになった」と説明できるのではないかと思います。

妖精と幽霊の生命力の違い

 妖精の生命力については、紺珠伝に続く作品である天空璋でも異変の核心となっていました。そんな天空璋では、生命力の対となるものとして精神力が出てきています。

能力:後ろで踊る事で精神力を引き出す程度の能力(里乃)

能力:後ろで踊る事で生命力を引き出す程度の能力(舞) (天空璋 omake.txt)

それぞれの季節と季節の間には、春夏秋冬のどの季節にも属さない瞬間というのがある

その瞬間は自然の力が衰え、精神が生命を凌駕するのだ (天チルノExより)

 ですが、一方で幽霊の説明として精神に影響を与えるというものがあります。

幽霊の怖さは、近くに居る物の精神に影響を及ぼす事である。(求聞史紀 幽霊の項)

でも……精神に入り込むって妖精というよりは幽霊の領域のような(三月精第四部第一話)

 生命の対である精神に干渉する幽霊が生命力の発現である、これは一体どういうことなのでしょうか。

 とは言ったものの、これは単純に精神も広い意味での生命の一部という話なのだと思います。気質及び幽霊が生命に関わることは冒頭の記述や緋想天ではっきり表されていることですし、熱い・寒いといった感覚や喜怒哀楽の感情も一般的に考えれば生命以外は持たないので、精神は充分生命的なものであると言えるでしょう。

 という訳で、ここでは逆に精神と対比されるときの生命がどのようなものなのか、という視点で考えてみようと思います。

 生命対精神の構造が出てくる天空璋で、生命力として主に語られたのは自然の生命力です。では、自然の生命力にはどのような特徴があるのか。それは天空璋の異変にも反映された通り、四季として表れることが挙げられると思います。

 自然と四季の関係は、花映塚のサイドストーリーでもある紫香花に寄せられた小説で、次のように語られています。

誕生を意味する春、生長を意味する夏、成果と衰退を意味する秋、そして死を意味する冬の四つ。生命の流れを意味する属性の一系統が四季。

 この表現を見てみると、四季が表す生命とは誕生から死までの流れであることが読み取れます。

 一方で、幽霊はどうでしょうか。求聞史紀では幽霊は必ずしも死者の霊とは限らないと言われていますが、死者から幽霊が生まれるのもまた普通のことであり、一つの在り方として死後の存在というのがあることは間違いないようです。気質の具現である幽霊は、肉体が死してなお存在を保ち続けます。

 比較すると、妖精(自然)の生命力は誕生から肉体的な死までの間を表すのに対して、幽霊(気質)の生命力は肉体に囚われることはないのです。

 さきほど自然の生命力についてのまとめで「物理的なエネルギー」という言葉を使いましたが、自然の力が生命に働きかけるのは主に肉体的な面です。日光も酸素も水分も、基本的には肉体を維持するために使われます。

 これらのことから、生命対精神の構造における生命が意味するのは、肉体的・物理的な生というところであると考えます。そしてそれはそのまま自然対気質、妖精対幽霊の対比にも持ち込まれているのだと思います。そうすると、妖精の生命力は物理的生命力、幽霊の生命力は精神的生命力と言ってもいいのかもしれません。

地獄の虚無と生命力

 獣王園は、霊であったり不死であったり生命力に関する要素が多数含まれている作品です。冒頭に述べた通り、私は獣王園を通して生命力とはどのようなものかを理解しました(個人の見解です)。最後に今まで述べてきた生命力の特徴を元に、獣王園の諸要素を見てみたいと思います。

 勁牙組の地上部隊として新たに登場した三頭慧ノ子。彼女は虚無を操る残無の影響により、不死の存在となりました。

 突然ですが、この状況何かに似てはいないでしょうか。

 不死を目指す月の民達は、寿命をもたらす原因となる穢れを忌避し取り払おうとしてきました。獣王園に登場する宝玉も、穢れを払うためのアイテムでした。

 前に述べたように、穢れとは生命力でもあります。そして虚無とは何も無いことです。

 もしかすると、不死とは生命力を失い虚無となることを指すのではないでしょうか。

 残無の能力についてもっと詳しく見てみましょう。彼女はExアタックで妖精をピュア霊に変えてしまうという能力を持っています。当サイトでもこちらの方が記事にされていました。https://gensoukoudan.net/archives/597

 僭越ながら、私も今回扱ってきた生命力の情報を元にこれについての考えを述べさせていただこうと思います。

 ではまず、ピュア霊とは何なのか。参考になりそうな情報を見てみましょう。

 お燐は藍との会話の中で、異変に際して地底でも霊が増えたことについて次のように言及しています。

地獄にいる霊は、もっともっと地の底から湧いて出てきているみたい

怨霊から怨みも薄れた抜け殻のような霊……

判るかなぁ、この物足りなさと虚無感を

 ピュア霊と明言はされていませんが、地の底だったり虚無だったりと、何かと残無を彷彿とさせるワードが霊の説明の中に出てきています。更には「怨霊から怨みも薄れた抜け殻のような霊」と、まさしくピュアーな霊としてぴったりな表現が使われています。

 他にも見てみましょう。残無のスペルカードには、ピュア霊と対応するかのように「純霊」という言葉が出て来ます。そして二つ目に使用されるスペカの名前は「無心純霊弾」です。

 心が無い。この言葉、「怨霊から怨みの薄れた」とどこか似た感じがしないでしょうか。

 幽霊とは、生命の精神的な働きを示す気質の顕れです。そんな幽霊から心を無くすとどうなるでしょう。それはまさしく「虚無」と呼ぶに相応しい空虚な存在になるのではないでしょうか。

 以上のことから、虚無とは生命力が無い状態であり、ピュア霊とは気質(精神的生命力)を失った状態の霊ではないか、と私は考えています。

 加えて、地獄そのものからもこのことを示せるのではないかと思います。

 獣王園では地獄が虚無の世界であることが強調されていましたが、地獄は生命の無い世界であることも度々言及されています。

地獄には幽霊ぐらいしか生命らしい生命は無いからね(三月精第四章第一話)

 残無は月の民に対して「虚無は死を介して流転するんじゃ。月の民はそれを理解していない」と、虚無と死をまるで月の民が求めるものの本質であるかのように語っています(VS清蘭勝利台詞)。実際残無は、地獄に呼ばれた存在でありながら不死の存在を生み出しています。そう考えると、穢れの少ない状態と地獄は無関係では無いようにも思われます。

 穢れが少ないということは、生命力も少ないということです。地獄が虚無の世界と言われる所以は、生命力の欠如にあるのではないでしょうか。

 

 という訳で、生命力についてあちこち話させていただきました。他にも関連している(と思っている)話はいくつかあるのですが、流石に頭がパンクしそうなので今回はこの辺で筆を置きたいと思います。

 生命力の話題は掘れば掘るほどまだまだ出てくると思うので、皆さんも是非探してここにまとめてみてはいかがでしょうか。また、今回取り扱った範囲があまりに広いので思考の偏り・取りこぼしも結構多いんじゃないかと思います。指摘・修正お待ちしています。

 ご一読ありがとうございました。

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