能力フレーバーに見る幻想郷

幻覚度 7

能力フレーバーに見る幻想郷

はじめに

 本稿はボスの能力フレーバーについて、独自の視点から分類・整理した記述を試みるものです。中身としてはかなり錦上京に寄りましたが、こちらの投稿で能力フレーバーについて軽く触れたので、折角なら持論を絡めて少しばかり掘り下げを。我々が幻想郷を覗く時、多くはボス各人の元ネタや楽曲を手掛かりとしてその色彩を紐解こうとすることでしょう。我々の住む世界と地続きになった幻想郷という世界の特色上、それぞれのボスには多くの場合ベースとなった事物や要素があり、それらは東方Project最大の特徴であるスペルカード並びに能力フレーバーとして表出します。能力フレーバーは時に、ボスの個性とその表出としてのスペルカードとの橋渡しの役割を担うこともあります。所謂元ネタよりも1段階「東方的な」階層にありながら、キャラクターデザインに係るあらゆる要素を僅かな1文の中に複合的に詰め込んだ、能力フレーバーの奥深い世界。筆者の作り出した蜃気楼とはなりますが、この幻がごく小さな示唆としてでも何かの一助となることを願い、ここに招待状を残します。

表象としての能力〜地獄を中心に

幻想郷の忘れ物

 日本語と中国語の最大の差異として、勿論語順といったものも言われるが、一つの漢字に複数の読みを当てる点が最も特徴的であると筆者は考える。日本語の「生」という字には恐ろしい数の読みがあるが、対して「死」という字は「し」としか読まない。日本語に複数存在する子音語幹動詞のうち、語幹がnの音で終わる動詞は「死ぬ」の一つのみである。今や五段化しているが、昔は変格活用だった。これはあくまで日本語に限った話であるが、裏を返せば特に「日本」という文脈の中では、「死」とは他の表象とは隔絶された特別な存在であると言えるだろう。本節ではこんな話を前提に、地獄という場所に対する小さな考察を綴ることにする。

  • 疎と密を操る程度の能力(伊吹萃香)
  • 距離を操る程度の能力(小野塚小町)
  • 身近なものの重さを操る程度の能力(牛崎潤美)

 彼女らの能力は密度、距離、質量をそれぞれ操作するというもので、物理学的に考えればこれらの三要素は物質がそれとしてそこに存在する時点で定められた不可変の要素であると言える。1キログラムの鉄塊がそこにあったとして、それが錆びて、つまり酸素と結合すればその分だけ質量は増えるが、そこにあるのは最早鉄ではなく酸化鉄である。物質そのものの存在に干渉すること無しに密度や距離や質量は変化し得ない。つまり鉄が鉄であるままにその質量を変化させることが出来る能力というのは、そもそも自然法則に真っ向から反するとんでもない能力である訳だ。地上で境界を操って事物の線引きを変えるだとか、人が持つ波長や気質や感情といった精神的に移ろいやすい要素に干渉しているような人々とはどうも方向性が違う。言語学徒になら特によく伝わるものと思われるが、概念の線引きや事物に与えられている名前などというものは想像以上に簡単に変化する。CEO一人の独断でTwitterの名称がXに変わってしまったこと、最早文字通り筆を入れる訳ではない場所を日本人が頑なに筆箱と呼び続けていることなどを考えれば自明であろう。言語学の文脈では言語記号の恣意性などと言ったりする。そう解釈すれば「運命を操る(逆転させる)」「死を操る」というのも、放っておけば変化しないが可変的ではある要素を外から手を加えることで動かしていると考えて問題ないだろう。地上(ここでは地獄以外の場所)に生きる人妖が持つ能力の中で「不可変を操作する」という特異性に抵触しそうであると考えられるのは唯一「時間(≒永遠と須臾)を操る」「変化を辞めさせる」というものに尽きるのではないかと思う。これについては次の節に詳しく述べる。

  • 白黒はっきりつける程度の能力(四季映姫・ヤマザナドゥ)
  • 三つの体を持つ程度の能力(へカーティア・ラピスラズリ)

 こちらは地獄という世界の特異性をより端的に象徴した能力であるというように考察できる。白黒はっきり付けるということは即ち曖昧な環境に何某かの要素を取り残すことを許さずに境界線を引くということ。境界線を引かない自由すらも許さないということ。それは善と悪であり、天と地であり、時に生と死であったりする。千亦の言を考えると、ある意味では「聖域を作る」というのがこれに近いように聞こえないこともない(或いは土地の線引きというのもまた売買を介しさえすれば恣意的で移ろいやすいものであるのかもしれない)が、とかく映姫はその能力を以て地獄とその他の世界を物理的にも象徴的にも切り分けているということが出来る。また、へカーティアの三つの体はそれぞれ月、地球、異界にある。「異界」と一纏めに幻想郷と地獄を位置づける側面は当然あるが、裏を返せば「地球」と「異界」はへカーティアの能力の下では明確に異なる世界である訳だ。「異界」という言葉そのものの作りからして当然のことではあるが、しかしながらそれはつまり生者と死者の世界を明確に切り分ける為の表象として地獄に存在しているという証明ともなる。異界のへカーティア、つまり赤い髪のへカーティアが明確に「地獄の女神」を自称している点も一つ重要な要素であると捉えられるかもしれない。

  • 怪力乱神を持つ程度の能力(星熊勇儀)
  • 無意識を操る程度の能力(古明地こいし)
  • 虚無を操る程度の能力(日白残無)

 それぞれ怪力乱神、無意識、虚無を操るという能力だが、これらは全て「存在しないもの」の表象であるということが出来る。怪力乱神とは元々「子、怪力乱神を語らず」という孔子の逸話から来ているもので、要するに賢い人は語りえないものについては語らないのである、という教え。怪力乱神などというものはこの世に実在しないので、それについてご高説を述べた所で何にもならないということだ。何だかこの考察それ自体を否定されているような気分である。それはともかく、無意識を操るこいしが仏教徒の追い求める「空」の境地そのものを体現した存在であるという話は白蓮が何度か強調しているし、所有権がどこにもない虚無の状態というのは千亦が能力を行使した場合を除いて存在し得ないというのも残無が初登場する直前の虹龍洞ではっきりと断言されている。虚無というのは要するに「空」であるからこいしの能力とも繋がってくる。我々の世界に存在しなくなったものが流れ着くのが幻想郷、という設定は根本にあるが、地獄にはその幻想郷の中ですら単なる空想でしかない存在が平然と転がっており、それを自由に操ってしまう生き物が当たり前のように闊歩しているということだ。これも先述した地獄の「特異性」に通ずる概念であると言えよう。三途の川が隔てる「距離」とは単に生者と死者の世界の物理的距離であるばかりか、文学的表象の距離としてもこうして機能しているのである。

 こうして残無の能力を眺めていて気付いたことだが、虚無の感覚というのは空の境地に至ることに近いものなのである。残無も仏教徒であった以上は空の境地を追い求めて生きてきたものと推察するが、地獄へ至り不要となった瞬間にずっと求めていたそれが転がり込んで来たのだから皮肉という他に無い。鬼の身となった彼女にとって、自身の能力はかつて仏教徒であった自身を、地上に棄てて来た筈のそれを未だにその身に刻み込む楔である。人間の心、人間の記憶と鬼の身体。今や彼女は人間にも鬼にもなれないまま永遠に地獄を彷徨うことを、あまつさえ自身とその能力によって強いられている。茨歌仙でもおなじみの無間地獄というものがあるが、何も無い、何者でも無いということは「地獄」なのだ。

 天子と残無は似ているという話を別の媒体で何度かしてきた。その意味する所が正にこの話であるが、天子に限らず似たケースは東方Projectという文脈において特に散見される気がしている。緋想天finのステージタイトルは「天の娘、地の神、人の心」。大地を鎮める能力がそのまま天子の心を地上に、言い換えれば人間の心の中に閉じ込める要石となっている。さらに言えば、薄汚れた天界を憂い夢の中に逃避させた天子の本音が、10年の時を経て完全憑依異変により引きずり出されている。夢の中にすら彼女の逃げ場は無いのである。こういった意味で博麗神主は、少なくとも創作物という文脈の中においては「逃げ」というものを許さない傾向にあるのかな、という気がしている。ただ「普通」に目と目で他者と交わりたいと願ったこいしを他者の視界の中から消し、命を賭して地上に逃げてきた鈴仙を再び尖兵として月面に送り返し、息子の死から目を逸らした純狐の身体から生命の鼓動を消し去り、壊れた友情の責任を取ることを拒んだ千亦から何もかもを奪い取ってまで。バレットフィリアの長い旅路を終えた先で見た、黒く汚れた空白のカード。あの時初めて、ああ、この人は、博麗神主はなんて残酷な物語を書くんだろうと強く感じた記憶がある。どうして汚れてしまったのかなどというのはシューターには分からないことだが、それはきっと千亦にも分からないことなのだろう。こうして眺めていると、地上に失望し全てを棄てて、つまり逃げ出してきた残無の影を醜女が踏む構図、あれも随分酷いことをするものだと思う。「絶対に逃がさない」というフレーバーは日狭美以上に、原作者から残無に向けたメッセージなのだ。そしてそれはきっと阿梨夜にとっても同じことだっただろう。彼女が全てを拒絶しピラミッドの奥底へ「逃げて」しまうなら、既に壊れてしまった彼女の心の代わりにユイマンが不幸になるだけだ。

 関係ない話が長くなった。能力フレーバーを真摯に吟味しているとこれだけの余白が見えてくる。そしてその性質は、地獄という特異な場所だからこそさらに強く押し出されているように感じる。これまでの原作の流れから勘案するに、恐らく今後の物語の舞台は月の都を離れ、再び影の世界へ戻っていくだろう。地獄の話がされ始めてもおかしくない。それらの動向を注視しておくことは、翻って幻想郷全体の構造を知る上で有意義な営みとなることだろう。

永夜を抄く月光

 幻想郷には「夜」の名を持つ女性が複数存在するが、彼女らの能力フレーバーにはある一定の共通点を見出すことができる。

  • 時間を操る程度の能力(十六夜咲夜)
  • 永遠と須臾を操る程度の能力(蓬莱山輝夜)
  • 変化を辞めさせる程度の能力(磐永阿梨夜)

先の節で述べた通り、これらは全て「時間を操る」能力であって現世の不可逆を操る禁忌の力である。なお、輝夜と阿梨夜の能力を平たく言い換えると咲夜の能力になる、即ち3人の能力フレーバーは概ね同じことを言っているのかと問われればそうではない。フェムト分かりやすく言うと須臾。須臾とは生き物が認識出来ない僅かな時間のことよ。このままでは3ページ分喋り倒してしまうので小ボケはこの辺で止すが、豊姫のこの台詞は即ち、輝夜の言う「時間を操る」とは「須臾を永遠に引き伸ばして時間を止め、永遠を須臾に縮めて時間を早めている」ということを説明しているに等しい。咲夜が「時間を操る」時、これと同じことをしているという記述は管見の限りどこにもない。これは輝夜に出来ることが咲夜に出来ないというよりも、「時間を操る」原理がそもそも違うことを示唆しうる。阿梨夜についてもこれと同様であり、かつ阿梨夜は明確に変化を「促す」力を持たない点で性格が大きく異なる。事物は流転するという摂理を前提としてそこに流れる時間を止めることは可能であっても、また力を抜くことで止めた時間を再び動かすことは可能であっても、初めから止まっているものを動かす力やさらなる変化を促進させる力、即ち時間を進める力は持ち合わせていない。

 錦上京が頒布される前どころか永夜抄の時点で既に話題に上がっていたようであるが(筆者は当時1歳である)、咲夜の名前は元ネタの上で阿梨夜の妹にあたるコノハナサクヤヒメと一致する。「十六夜」という月を示唆する名前も、「人間(と阿梨夜)を地上に残しコノハナサクヤヒメを初めとする神々は月の都へと移った」という設定が明かされたことで奇妙な説得力を持ち始めている。大方イワナガヒメを登場させるまで話を大きくする構想が出来上がる前に、思い付きでコノハナサクヤヒメをモチーフの一つに組み込んだのが永夜抄で偶然引っかかってしまったのだろうという夢の無い主張がこれまで筆者の立場であったが、錦上京が途端にこれを覆そうとしているように見えなくもない。先行者としての咲夜や元々ある漢字表記に則っただけの輝夜はともかく、阿梨夜の名前にまで同じ「夜」の字を当てているのは明らかに意図的なものだろう。ところで、「磐永阿梨夜」はコノハナサクヤヒメと対比する名前である。イワナガアリヤヒメ。このアリヤはテーマ曲「最後の一人は慣れてるから」に合わせ、オペラ・オラトリオ・カンタータなどで歌われる独唱曲の「アリア」をもじったものではないかというのが筆者の意見である。要するに「夜」の字である必然性はここには無いのではないか、という話がしたい。

 阿梨夜の能力を羨んだ神々が月都への移住を彼女に提案した、という錦上京の文言からも分かる通り、これらの能力は月の民全てが持つ「種族性の高い(3章に述べる)」能力ではない(ところで、サグメの能力フレーバーは事物に変化を与えるものであるからこれと対比している。二人の間に「何か」があってもおかしくないな、というのは阿梨夜の立ち絵の片側に大きく拡がった黒い翼を見た瞬間から考えている)。しかしながら同じ名前、同じ能力を共有した者は幻想郷に複数存在し、かつくどい言い回しになるがそれらは全て幻想郷にある。言い換えれば月の民の管理下には無い。特に輝夜と阿梨夜は月の都に居残る(或いは移住する)ことを自ら拒んで地上に住んでいる立場であるから、咲夜にもこうした経緯が何かしらあれば括りとして綺麗なものになる。以上のことを勘案しても、やはり「時間を操る」能力というのは月の民にとってみれば喉から手が出るほど手元に欲しい能力である筈なのだ。しかし彼らは輝夜と阿梨夜の二度も、もしかしたら咲夜も含めて三度もそれを取り逃している。だから最後の手段としてピラミッドにユイマンを置き、そこから逃れることの無いように、緊急時のシステムとして阿梨夜もそこに閉じ込めた。月の都との隷属に近い共生は、月の都がそれとして存続する限り続いていかなければならないものである。変化を拒んだ永遠の先に安寧など存在し得ないことは理解しつつも、やはり心のどこかで阿梨夜の幸福を願わずにはいられない。

能力フレーバーの動詞に迫る

作る、創造する、作り出す

  • 聖域を作る程度の能力(坂田ネムノ)
  • 夢を喰い、夢を創る程度の能力(ドレミー・スイート)
  • 乾を創造する程度の能力(八坂神奈子)
  • 偶像を作り出す程度の能力(埴安神袿姫)

 これらのフレーバーは全て、何かを「作る」ことが出来る能力がある、ということを説明しているというのは自明のことである。しかしながら、ここで用いられる動詞にはこれだけのバリエーションがある。一般に、「作る」というと決まりきった型のあるものを設計図に沿って作成する、というニュアンスが生じる。幻想郷におけるこの形のフレーバーの該当者は永琳(あらゆる薬を作る)、ネムノ(聖域を作る)、隠岐奈(あらゆるものの背中に扉を作る)、魅須丸(勾玉を作る)が挙げられる。聖域とは何か、作るとは何をすることか。これに関連する問いについてはこれまでの考察でもTwitter上でも何度か言及した覚えがあるが、わざわざ「作る」という動詞を当てている所からも「聖域」というものの性質を推察することは出来たということだ。聖域とは阿梨夜の神域、即ち浅間浄穢山の境内のことであり、従って例えば秘天崖の辺りに新しくぽんと聖域を作ることは現状の「聖域」の定義が拡張されない限り不可能なのである。「作る」という動詞にはこうした「カタログ」のニュアンスが少なからず付随する。

 「作り出す」は「作る」の派生形であって、既存の型から外れた(或いは意図的に外した)事物を新規に提案するというニュアンスが乗る。袿姫で言えば自律式の埴輪辺りだろうか。土塊を弄り回して人の形を取らせるのは原始の人類にも出来たことだが、「偶像」としての磨弓は袿姫にしか作り出せない。「創造する」にはここから更に、そもそも概念として存在しなかったものを生み出すというニュアンスが加わる。この動詞を用いたフレーバーの所持者は神奈子(乾を創造する)と諏訪子(坤を創造する)のみである。乾は天、坤は地。そこに決まりきった型など無ければそもそもこう作ればよいという設計図さえ存在しない。問題なのは「創る」である。「作り出す」「創造する」との区分が極めて難しいこの動詞は、現状ではドレミー(夢を喰い、夢を創る)とハクタクの慧音(歴史を創る)のみが用いている。何となく「食べる」という他の動作との並列が鍵となっているように見えるが、そうであれば「自己の中に取り込んだモノをベースとして新たな形で出力する」、所謂「創作」のニュアンスは乗っているはずである。或いは獏と白澤というのはある時期を境に同一視されるようになっているから、それを意識した構造なのかもしれない。そして、この動作を自ら行うのではなく蛇にやらせているのがユイマン(蛇に食べさせて生まれ変わらせる)である。食べて、創る。幻存御籤の記述も勘案するに、これこそが月の都が用いる「浄化」プロセスの一端であると考えて問題ないだろう。なお、錦上京繋がりでニナの「蜃気楼を見せる」が概ね「つくる」(どの形かは不明だが…)を言い換えた形であることも考慮に入れる必要がある。

 能力フレーバーの動詞問題は存外奥が深く、「作る」類の他にも気になるものがいくつか挙げられる。例えば「使う」と「扱う」。「魔法」は「使う」ものだが(霧雨魔理沙ほか)「剣術」と「妖術」は「扱う」ものであるようだ(魂魄妖夢/橙)。似たニュアンスで大多数のボスが採用している動詞に「操る」があり、こちらは「嫉妬心(水橋パルスィ)」や「山河の気(封獣チミ)」といった極めて抽象的な目的語にも共起できる便利な動詞であるようだが、「核融合」などは「扱う」でも違和感がないような気がする(霊烏路空)。「扱う」との共起は「術」のみと原作者の中で決めているのかと思いきや、実はアリスのみ魔法を「扱う」だったりする。これについては次節で検討する。また、打出の小槌も「扱う」である(少名針妙丸)。「操る」系では派生として山如のみが「操作する」というフレーバーを持っていたが、小町の「距離を操る」が幻存御籤で「距離を操作する」に書き換えられている例などもある。「雷を起こす(蘇我屠自古)」に関してはそもそも操ってすらいない。起こすだけ起こした雷だが、制御はそこまで利かないのだとしたら大変に迷惑可愛いところである。

 珍しい動詞でいくと星の「財宝が集まる」などは中々面白い。「集める」ではなく最早自動詞である。元ネタ通り、そして原作にも描写がある通り、財宝の方から勝手に集まってくるという訳だ。アクティブスキルではなくパッシブスキルである。というか最早能力か否かも若干怪しい。ミケの「お金かお客を招き入れる」は明らかに他動詞であるから、後天的に努力して身につけたものとしてのミケの能力の性質が垣間見える。そもそも、右手を挙げている招き猫は金銭を、左手を挙げている招き猫は客を招き入れるものとしてその役割が異なっている。豪徳寺の猫は皆右手を挙げているから、ミケの「お客を招き入れる」方の能力は完全に後天的なものである。金を招くと客を逃がす、という不完全さがその余白を物語っている。

 また、衣玖の能力フレーバーは「空気を読む」だが、天子(正確には緋想の剣)のフレーバーは「気質を見極める」である。概ね同じことを言っているような気がするが、能力フレーバーで「見極める」などという表現を用いる例はこれまで天子を措いて無かったし、恐らく今後も無いだろうという心地がする。天子にとっての気質とは単に読み取るばかりのものではないのだ。そもそも天子は能力フレーバーに書いていない個性が極めて多く、紫苑の能力(自分も含めて不運にする)を打ち消すほどの幸運など最も顕著なものである。憑依華でも茨歌仙でも幻存御籤でも散々強調されてきたのに当人がそれを何かしらに活かす素振りは一切無い。が、少なくとも他人(紫苑)の能力に打ち勝っているという事実はそこそこ特筆すべき点であると筆者は考える。この視点に立って考えると、天子本人の能力フレーバーは「大地を操る」であるが、直前のナンバリングの風神録で「坤=大地を創造する」能力を持った諏訪子が登場していることは先に述べた。他者のテリトリーであるとはっきり明言されているものを後出しで「操る」能力を持っている人妖など後にも先にも天子だけではなかろうか。こうした特性も、もしかしたら「気質を見極める」ことによってこそ発揮されているものなのかもしれない。

 こうして能力フレーバーを概観していると、近年のボスは猫も杓子も「何でも」だの「あらゆる」だの「絶対に」だの言い過ぎではないかと思えてくる。輝針城(13年前)から先を指して「近年」などと抜かしている古典オタク感は一旦見なかったことにする。筆者が初めて手を出した原作が輝針城なので必然的にこうなる。ともあれ全てのボスは芳香が先行して「何でも喰う」と言っているにも関わらず控えめに龍だけ食べることを主張している百々世を見習うべきであって、初めにこんなやっつけフレーバーを持ってきたのはどこのどいつだと思って遡ったところ、その源流は原初のExボスことフランドールさんにあるようだったので筆者はそっと口を噤んだ。フランドールさんに文句を言う勇気は流石にない。いやいや滅相もない、素敵なフレーバーだと思います。

能力フレーバーの恣意性

 能力フレーバーとは各個人の恣意性に任せられたものである、という記述がある。即ち、能力フレーバーは(一言一句違わずそうかという点は一旦措いて)当人による自己申告だという設定が既にあるのだ。これが現在に至ってどこまで意識されているかは不明だが、これを前提にして能力フレーバーを眺めていると、気になるものがいくつか見つかる。

 聖域とは阿梨夜の神域である、というのは錦上京において明かされた新たな定義である。獣王園において清蘭が「月の都の通路」と説明したのは視点を月の民の側に置いた発言である為で、より本来的な聖域の在り方としては「阿梨夜の神域」の方が妥当な表現となるだろう。ここで言う「通路」とは「月の民が通る為の場所」ではなく「浄化された穢れを通す場所」だった訳なので、頼むからややこしい言い方をしないでくれの心持ちである。閑話休題、変化を嫌い一つの場所を守り続ける山姥の気質と変化を辞めさせる阿梨夜の能力が相互の利益を生み出し、緩やかな共生関係がそこでは実現されている。一方でウバメやチミが異変に際して一度も阿梨夜の名前を出さず、結界化の原因に(月の民が絡んでいるという)心当たりも無い辺り、彼女らに「阿梨夜に仕えその神域を護っている」自覚は無いのだろう。ところが、フレーバーの自己申告制を前提に考えると、8年前からずっとネムノには「聖域を作る」者の一員としての自認が何かしらあったことになるのだ。筆者が何かを失念していなければ、「浅間浄穢山の境内」という意味で初めて表沙汰に「聖域」という単語を出したのはネムノである。加えてウバメもまた、聖域を作り守るものとしての山姥と自己を隔離する、「聖域を壊す」という使命については何かしらの自認を持っていたということになる。ところで、天空璋2面のステージタイトルは「紅い山の孤独」、所在地は「紅葉した山」である。錦上京1面では「聖域の森上空」とはっきり言っているが、天空璋2面では舞台がネムノの縄張りの中であることは確定しているにもかかわらず「聖域の森」ではなく「妖怪の山」まで視点を引いている(なお、天空璋2面は歴代でも極めて珍しく中ボスに撃破演出が無い=中ボス戦からボス戦までボスが画面外に逃げずそのまま流れる構造を取っているため、中ボス戦に入るまではネムノの縄張りの外を飛んでいたという解釈もできる)。また、阿梨夜の能力の及んだ聖域の中に、隠岐奈がその能力によって意図的に引き起こした「変化」が及ぶことが出来ていたのかというのも甚だ疑問である。仮に四季異変の影響を聖域の森も受けていたとして、その時は聖域を結界化させる判断はなされなかったのだろうか。この時に結界化が発生していれば、つまりウバメが自然現象としての結界化を知っていれば、帰宅難民となった錦上京1面において巫女に轢き潰されることも無くさっさと逃げていた筈である。以上より、ネムノの縄張りは恐らく聖域の森の中には無いのではないか、という立場を筆者は取っている(多分に異論を認める点でもある)。ただ、天空璋2面の背景には現在地より高い山が複数見えているから、標高が低い=錦上京における聖域の「山の麓」という説明に一致する点は間違いない。そうであればこそ、「聖域を作る」という自認には大きな検討の余地が残る。

 視点を変える。前節で能力フレーバーの動詞について検討した際、アリスの能力フレーバーが他の魔法使い達と異なっているという点に関して言及した。以下に今一度、種族が「魔法使い」に分類されるボスの能力フレーバーを列挙する。フレーバーが同一であるため例外として魔理沙を含める。

  • 魔法を使う程度の能力(霧雨魔理沙)
  • 火水木金土日月を操る程度の能力(パチュリー・ノーレッジ)
  • 魔法を扱う程度の能力(アリス・マーガトロイド)
  • 魔法を使う程度の能力(聖白蓮)
  • 魔法を使う程度の能力(矢田寺成美)

このうち、「生まれつき」の魔法使いであることが明言されているのはパチュリーのみである。アリスについては萃夢想などを根拠に「生まれつき」の魔法使いであるとする説もあるが、捨虫の魔法を後から習得したという記述も無ければ生まれた時から魔法使いだったという記述もない。なお、憑依華にて天子が自分自身を指して「生まれ持っての天人」と言及する発言があるが、がっつり大嘘である(天子は元人間)ため原作者の中での「生まれつき」の定義自体がそもそも怪しい。その資質がある、その血筋に生まれついたなどの意味でもう少し象徴的に使用されている語の可能性があるのだ。それはさておき、逆に「使う」系フレーバーを用いている面々を見てみると、魔理沙はまだ人間であるし白蓮も元人間、成美は元地蔵であるから、即ち生まれ持っての魔法使いではないことが確定している。自認の観点から物を言うのなら、アリスはこれら後天的な魔法使いよりも優れた、という意味合いでわざと「扱う」という言い回しを選んでいる可能性がある。パチュリーの能力フレーバーは「七曜を操ることができる」ことを示唆しているが、win版初登場時のアリスの二つ名は「七色の人形使い」である(何故か永夜抄以降「七色の人形『遣い』」に差し替えられている)。「生まれつき」か否かの議論は一旦措くとしても、二つ名とフレーバーを合わせて「生まれつき」の魔法使いであるパチュリーと同格の域に達していることへの示唆と捉えることもできる。身も蓋もない話だが、前節で述べた能力フレーバーの動詞の揺れも、大体はこの「自己申告制」によるものとして無理やり説明できてしまう。中でも「作る」類だけは厳密な区分けがなされているように見える、という点で特筆したにすぎない。

 能力フレーバーの恣意性とは、シューターが幻想郷に生きる者達の瞳を通してその世界を覗き込む為に開かれた窓である。即ち、彼女らが何を軸に世界を眺め、何を拠り所に自らを定義し、どんな手段を用いてそれを表現するか。そうした彼女らの自己表現が最も強く表出する場所こそ能力フレーバーなのだ。今回は山姥と魔法使いという2つの軸からの検討のみに留まったが、このトピックに関しては今後も考察を深めて行きたいと考えている。それこそが幻想に仮初であったとしても実体を与え克明にそれを描き出す、創作者としての営みの本質に迫る姿勢であると筆者は信じて疑わない。

おまけ:(折角数えたので)能力フレーバー動詞一覧

  • 操る 37
  • 使う 5
  • 扱う 4
  • 操作する 2
  • 司る 2
  • 作る 4
  • 創る 2
  • 創造する 2
  • 作り出す 1
  • 演奏する 8
  • リズムに乗らせる 1
  • 惑わす 1
  • 驚かす 1
  • 幸運にする 1
  • 不運にする 1
  • 消費させる 1
  • 失わせる 2
  • 持ち去る 1
  • 奪う 1
  • 消す 2
  • 辞めさせる 1
  • ひっくり返す 1
  • 逆転させる 1
  • 見通す 1
  • 見極める 1
  • 見つける 1
  • 探し当てる 1
  • 見つけ出す 1
  • 見える 1
  • 見せる 1
  • 探る 1
  • 分かる 2
  • 理解する 1
  • 集まる 1
  • 飛ぶ 1
  • 泳ぐ 1
  • 積む 1
  • 導く 1
  • 隠す 1
  • 起こす 2
  • 引き起こす 1
  • 引き出す 2
  • 落とす 1
  • 飛ばす 2
  • 伝える 1
  • 癒す 1
  • 読む 3
  • 聞く 1
  • 持つ 3
  • つなぐ 1
  • 呼ぶ 1
  • 変える 2
  • 変身する 1
  • 破壊する 1
  • 壊す 1
  • 食べる 2
  • 食べさせる 1
  • 喰う 2
  • 吸収する 1
  • すり抜ける 1
  • はっきりつける 1
  • ため込む 1
  • 判らなくする 1
  • 念写をする 1
  • 反射させる 1
  • 化けさせる 1
  • 力が増す 1
  • 強くなる 1
  • 強さになる 1
  • 純化する 1
  • 撒き散らす 1
  • 招き入れる 1
  • 入り込む 1
  • 捕捉する 1
  • 屈折させる 1
  • 生まれ変わらせる 1
  • 〜無い 4

※『東方幻存御籤』に掲載されているキャラクター+錦上京ボス+秘封倶楽部を集計。

※能力フレーバーが複数確認できるボスは幻存に掲載がないものを含め全てを集計しているため、キャラクター総数と上記一覧の合計値は一致しない。なお、チルノなどは2つのフレーバーの動詞が両方とも一致しているが、それらも同じ動詞を2回数えている。

※「〜できる」、「〜られる」系のフレーバーは省略し動詞語幹部分を終止形にしてカウントしている。

※「食べる」には通常時の慧音を含むが、(隠す)と添え書きがされている作品もあり、これも別フレーバーとしてカウントしている。

※蓮子は同一フレーバー内で2回繰り返しているだけなので「分かる」1回分としてカウントしている。ドレミーとユイマンも同一フレーバー内だが、異なる動詞を2つ含むのでこちらはそれぞれ別個にカウントしている。

※「〜無い」系のフレーバーは否定部分が本質であると考えるため動詞ではなく否定語をカウントしている。用言につく「ない」と体言・助詞につく「無い」はここではまとめる。異論を認める為に記しておくと、妹紅、日狭美、馴子、阿求の4名である。

※手作業での集計なので抜け漏れカウントミスはご愛嬌。

アンドロイドは厳の姫の夢を見るか?

 本節では1章及び2章の内容を総括し、阿梨夜とユイマンの対比を試みる。本節の内容は現在も検討を重ねている最中のものであり、異説や批判的な指摘に触れていない為筆者の中でも然程深まっていない。意見や議論を切に待つ。

 第一に各人のモチーフを概観する。以下本節では阿梨夜とイワナガヒメを初めとして日本神話の神と幻想郷の神を同一のものとするような書き方がなされている場合があるが、便宜上のものであり原作で同一人物であるという明言はなされていない。自明だがややこしい書き方になったので念の為。さて、阿梨夜はそのモチーフをイワナガヒメに持つが、彼女には妹がおり名をコノハナサクヤヒメという。コノハナサクヤヒメはニニギノミコトと結ばれ子のホオリノミコトを産むが、この際阿梨夜は醜女であったことを理由にニニギノミコトに拒絶され一人送り返されてしまう。このニニギノミコト、コノハナサクヤヒメが一晩で子を成した際にも彼女の不貞を疑い散々モラハラを仕掛けるなどイワナガヒメ姉妹にしてみれば視界に入れるのも煩わしいような男であるが、息子のホオリノミコトも彼の面食いぶりを如実に受け継いでいる。ホオリノミコトの妻はタマトヨヒメであり、彼女が子を産む為に本来の姿であるところのワニ(鮫のこと)の姿に戻っているのを目撃すると、彼女を捨てて逃げ出してしまうのだ。筆者でも嫁がサメだったことが突然判明したら捨てて逃げない自信は無い点は一旦措いて(筆者は生物学的性が女である立場からこの言い回しを選んでいる、念の為)、それにしてもまともな男なら他人を見た目で判断するのはどうかと思う。なお、シリーズのファンにしてみれば自明のことだが、タマトヨヒメには妹のタマヨリビメがいる。

一方のユイマンを見てみると、彼女は維縵国の王室の三女であって末っ子である。それなりどころでは済まない身分があるにもかかわらず、何かとろくでもない男に振り回されがちな5面と6面の姉達と異なり、彼女は自由恋愛で夫を捕まえている。維縵王女に一目惚れした甲賀三郎は年の差2000歳を押し退けて求婚し、ユイマンもまたそれを受け入れる形で13年間同棲、その後隠し妻として地上にまで同行している。ここまでの情報を整理するだけでも、豊姫に似た立場のボスとして阿梨夜を並べ、それらとユイマンを対比しようとする構造が見えてくる。

 第二に本稿の趣旨に基づき能力フレーバーについて見る。阿梨夜の能力フレーバーは「変化を辞めさせる」というものであるが、阿梨夜のスペルカードの中に、死符「永遠の冬」、生符「混沌の冬」というものがある。ここで言う「死」は明らかに「生」と対比されたものであるから、「永遠」と「混沌」もまた対義語として置かれていると見て良いだろう。「永遠」とは止まった時間の中にあり、穢れを切り離したそれを阿梨夜は「死」と表現している。生きるとは混沌の穢れの中に身を落とすことなのだ。永遠を操るということは、もしかしたら「死を操る(西行寺幽々子)」ことによく似た営みなのかもしれない。と言うより、「変化を辞めさせる」という結果自体が「殺す」という手段を取ることによっても実現できる、という言い方が正しい。繰り返しになるが、我々人間を殺したのは、花のような短命にしてしまったのはイワナガヒメの呪いである。「永遠」と「混沌」、この対比に関しては、全く同じ話を先行して純狐の「ピュアリーバレットヘル」と隠岐奈の「アナーキーバレットヘル」が既にしている。月の民がユイマンに指示している「蛇に食べさせて生まれ変わらせる」仕事にしても、「生まれ変わらせる」と言っているのだから、それはある意味で「情報の純化」と言い換えることが出来る。とにかく、「食べて創る」というプロセスが慧音やドレミーの存在とも絡めて重要な立ち位置を占めるという論は既に述べた。虚構を殺し生まれ直させるのがユイマンの「仕事」なら、事物から変化を奪い死へ引きずり込むのが阿梨夜の能力なのだ。

 「蛇に食べさせて生まれ変わらせる」というフレーバーを、ユイマンの「仕事」であるとわざわざ記した。「食べさせる」も「生まれ変わらせる」も動詞を見れば使役の形であって、しかもそれは阿梨夜の「辞めさせる」とは根本的に性質が違う。情報の処理も再構築も蛇のしていることであって、ユイマンの立場はあくまで蛇を使役する中間管理職である。「ユイマンの」能力では無いものを、能力フレーバーの恣意性、自己申告制の為に、彼女は自分に与えられた仕事の内容をあたかも自分の能力であるかのように主張しているのである。つまり、ユイマン本人に前節で述べたような自分の能力に関する自認は今のところ無い。自認が無いから「仕事」を「能力」にすり替えたというよりは、心からこれが自分の「能力」だと信じているのだろう。月の民による洗脳とは即ちこうした側面も含んでいるのだと筆者は考える。仕事に対する能力的な適正があったからこそ浅間浄穢山に置かれたことは間違いないのだろうが、そこに必ずしも直接的な結びつきがあるとはユイマンに限っては言いきれない。こうした点もまた、ユイマンを特異として位置付け考察の余地を認める為の余白であるのかもしれない。

能力の「種族性」と「個人性」

「種族性」を定義する

 筆者独自の指標として、能力の「種族性」というものをここで定義した。当該部分の記述を引用し、本稿における「種族性」をここに今一度紹介する。

能力フレーバーには大きく分けて2つの種類がある。各個人を特徴づける固有の能力と、各種族を特徴づける能力である。本稿では前者は種族性が低く、後者は種族性が高い能力として定義される。以下に例を挙げる。

    • 運命を操る程度の能力(レミリア・スカーレット)
    • 密と疎を操る程度の能力(伊吹萃香)
    • 星空を操る程度の能力(飯綱丸龍)

これらの能力は種族性が低い。種族が吸血鬼にあたるボスは複数人存在するが、「運命を操る」というのは吸血鬼の種族特性ではなくレミリアの個性である。幻想郷に吸血鬼は複数存在しても、全く同じ能力フレーバーを持った人妖は存在しない。

    • 境界を操る程度の能力(八雲紫)
    • 所有権を失わせる程度の能力(天弓千亦)
    • 魔法を使う程度の能力(霧雨魔理沙ほか)

これらの能力は種族性が高い。一人一種族の妖怪では個性と種族特性が一致してしまい、神の類も多くは神格と能力が一致するので自明であるが、「魔法を使う」に関しては魔法使いの種族特性として全く同じ能力フレーバーを持ったものが複数人存在している。なお、当然ながら種族性の強さは二極化せず緩やかなグラデーションを呈する。恐らく複数の個体が存在することが示唆されている種族における、「何でもひっくり返す(鬼人正邪)」や「心を読む(古明地さとり)」、「空気を読む(永江衣玖)」なども種族性の高いフレーバーであると言えるだろう。

 説明が抜けているが、種族性の低い能力とは即ち「個人性が高い」ものとして本稿では定義される。個人性の高い能力は、龍やウバメのような場合においては特に、既に存在する種族の括りからボス個人を切り離し、大天狗や山姥の王といった形で特別な表象として位置付ける役割を担うことがある。平たく言えば文やネムノとの差別化である。

 引用元は錦上京を考えるというテーマで執筆していたため、ここからネムノの能力フレーバーに着目し、その種族性を再定義しつつウバメのフレーバーに関して軽い考察を行った。本稿では聖域の外の話に触れていこうと思う。節が短くなったが、大きく話が変わるのでここで一度区切る。

「種族性」に見る「元人間」の世界

 能力フレーバーの恣意性に則るならその内容はどんなものであっても良いのだが、「奇跡を起こす」や「超能力を操る」というフレーバー、そして目的語にあたる「奇跡」や「超能力」という語それ自体が示唆するように、実際には一般に「人間」と言った時にそれが持たない力、という暗黙の縛りがそこにはある。「上手に石を積む」という主観に満ちたフレーバーだって、その「上手」の程度たるや筆者が何年努力を重ねたとて真似できるものではない。この性質は元人間達を考えるにあたって特に有効に作用する。彼女らが人間という種族を棄てるにあたって何を得て何を失ったか、その説明が能力フレーバーの中ではありありとなされているのだ。では、人間という枠からはみ出した者として元人間達のフレーバーは須らく個人性の高いものになるのかと問われればそうではない。人間の立場を離れて移り住んだ先の種族とほぼ完全に迎合し、そちらの種族として種族性の高いフレーバーを持つ元人間達も複数存在する。

 先に述べた通り、白蓮のフレーバー「魔法を使う」には複数の所持者がおり、彼女ら自身で「後天的な魔法使い」として小さな「種族」を形成していると捉えることさえできる可能性がある。そうであればこのフレーバーも、「後天的な魔法使い」の中で種族性の高いものとなるはずだ。また、後戸の二童子もそれ自体摩多羅神に仕える為の「そういう種族」(断じてクソなぞなぞの答えとかではない)として存在している節がある。だから、恐らくは二童子が交代してもその能力フレーバーは変化しない。所有者が複数存在するというのはフレーバーを種族性の高いものとして定義する上で最大の判断基準となる。先の引用部分で述べた通り人間の神格化もまたフレーバーの種族性を引き上げる要素であるから、「純化する」や「あらゆるものの背中に扉を作る」などのフレーバーはその素体が人間であったとしても単独で種族性を帯びている。一方で、残無の「虚無を操る」は人間と鬼のいずれの立場から見ても種族性の高いフレーバーであるとは言えない。ここで、この残無のフレーバーの中身を念頭に置いたまま一度鬼形獣を振り返る。鬼形獣の副題『Wily Beast and Weakest Creature』の、CreatureというのはCreateと同じ語源を持ち「神の被造物」という原義を持った語である。Weakest Creatureとは「人間」の換喩であるから、鬼形獣の副題では人間を「神の被造物」とする極めてキリスト教的なニュアンスが付加されているのだ。そもそも、虐げられた人間霊の祈りに応え袿姫が地獄に降り立つというバックグラウンドそれ自体、極めてキリスト教的な思想の元に描かれている。これや紺珠伝におけるサグメとへカーティアの対立の図式などを根拠に、筆者は新地獄という場所に強いキリスト教性を見出したいという立場を取っている(紺珠伝の話は長くなるのでここではしない、またいつか)。そんなキリスト教的な世界の中で、仏教徒の残無というのは象徴的にも「異物」であるのだ。そして、この評価の根拠は先に述べてきた能力フレーバーにもある。とかく人間でも鬼でもないその狭間の場所に、仏教徒であるという性格だけを反映した極めて個人性の強いフレーバーをもって彼女は自身を位置付けているのだ。残無のようにいずれの種族の側にも偏らずほぼ完全な個人性をフレーバーに帯びた元人間は全体を見れば寧ろ少数派である。

 ここで考察の余地があるのは、天子のフレーバーは「どちら側」か?という問いである。ここでは天子本人の能力フレーバーである「大地を操る」に焦点を当てる。これが天人として種族性の高い、即ち天人という種族に一貫してある特性としての「大地を操る」である可能性については今のところあるとも無いとも断言できない。こればかりはウバメのような立場の後発が出てこない限りは何とも言えないので、完全に錦上京前までのネムノのフレーバーと同一の立ち位置にある。ただ、天人というのは「仙人及び人間と月の民の中間」に位置する生物であることだけは既に出ている情報から確定している。緋想天より「天界は成仏した霊が行く処」であり、茨歌仙より「仙人は修行を重ねて天界へ向かう」であり、「天界が浮上して地上の生物が根絶やしになった」というのは錦上京の「神々が月の都へ向かった」というのよりも以前の話である。そうであれば天人という種族の性質が、仙人や月の民とあまりにかけ離れているとは考えにくい。であればこの説はどちらとも言えないながらも限りなく「無い」寄りではある。一方で、仮にこの「大地を操る」というのが名居守の娘としての天子の性質を指しているのであれば、それはそれとして一種の種族性である。存在のみ言及されている彼女の父が同じフレーバーを持ちうるためだ。とは言えこれは敢えて説明するとすれば人間としての「種族性」になる。以上より、残無のような特異性こそ持たないにせよ、天子自身は自らの根底にあるものを「人間」であると位置づけている、という立場を筆者は取っている。

 憑依華における天子の、vs鈴仙の対戦勝利台詞にこんなものがある。「月の都と縁を切ったんだって?そんな勿体ない話あるもんか」。筆者は初見でこれをかなり意外に思った記憶がある。玉兎の立場を捨てて穢れた地上に身を落とすことは、天子の価値観でも「勿体ない」ことなのだ。小人族に対して強いリスペクトがある辺りからも、天津神、幻想郷風に言えば月の民に対して自分より身分が高い立場として何かしら思うところがありそうに聞こえる。神職の娘として叩き込まれたものなのかもしれないが、それならそれとして天子の「人間」性を裏付けるものになるだろう。バレットフィリアの天子の「天界より地上の方が好き」と獣王園の清蘭の「地上大好き月の兎」、似ているなあと感じたのは記憶に新しい。二つ名に留まらず、彼女らの場合は「祭事の丹を盗み食いして地上に追放された」「宝玉を勝手に持ち出して地上に降りてきた」というバックグラウンドまで一致しているのだ。憑依華の台詞を踏まえ、天子が今の清蘭と出会ったら、一体何を言うのだろうということはかれこれ2年間考え続けている。彼女も出来ることなら天人として生きていたいのだろう。天界と縁を切るなんて「勿体ない」話があるものか。それでも、最後には「天界より地上の方が好き」で、彼女はどうあっても人間なのだ。彼女自身も気付いていない、或いは気付きたくないその余白を、能力フレーバーだけは静かに物語っている。

おわりに

 さて、卒論を書きながら進めていたので随分期間が空きました。が、前回の話があまりに錦上京にフォーカスしたばかりに説明が足りていなかった部分はしっかり補足できたかなと思います。これを書いていて感じた部分ですが、やはり錦上京はまだまだ掘れますね。別の作品に関してここで改めて触れたことで得られた示唆も無数にあります。恐らく今後も再考を重ねていくことになりますし、それが溜まったら、そして気が向いたらまとめてここに流します。その時はまたどうぞよしなに。お付き合いありがとうございました。

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