古明地こいしについての試論①-こいしの心の構造を考える-

幻覚度 6

 古明地こいしは「無意識を操る程度の能力」を持つ妖怪であるが、無意識という言葉のスケールの一方で、実際にこいしの操る無意識というものは何か?という点についてはあまり論じられていないような感がある。そのため、ここでは「無意識を操る程度の能力」に立ち返って、古明地こいしの能力について考察を深めていきたいのであるが、その背景にある様々な理論を加味するとあまりにも広大な道のりになってしまう。

 しかし、筆者は全く心理学や哲学と言った分野の専門家ではなく、そういった遠大な道のりを一気に踏破するのは不可能である。

 そのため、そうした試みの第一歩としてここでは古明地こいしの無意識について、こいしの心の構造に着目して論じてみようとする試みである。


1 古明地こいしの心における意識と無意識について

 「無意識」という概念はこいしのスペルカード等からも見て取れるが、オーストリアの精神医であり、精神分析の創始者であるジークムント・フロイトの理論が大きな意味を持つ。

 フロイトにおける無意識論を簡単に説明する。フロイトの理論は、大きく二つに分けられる。一つは「局所論」、もう一つが「構造論」である。

 局所論とは、人の心を三層構造で捉える。この三層とは、我々が考え、意識をする「意識」、普段は意識されないが、必要に応じて即座に意識される「前意識」、抑圧された心的内容が存在する「無意識」の三つを表す(1)。

 一方で、構造論は人の心を局所論のような「層」ではなく、心を「機能」として説明する。その機能が「イド(エス)」「エゴ(自我)」「スーパーエゴ(超自我)」の三機能である。これらはそれぞれ欲動の源泉、現実との調整、道徳・倫理観等を担う(2)。

 また、ここで重要なのは、「イド=無意識」のような単純な対応関係にあるのではなく、例えばエゴは意識から無意識にかけて跨っているという点である。

 これらはそれぞれ相反する訳ではなく、局所論で設定された意識、前意識、無意識に構造論の三機能はそれぞれ配置される構造とされており、この二つの論は異なる視点から心を説明していると捉えられる。

 そのうえで、古明地こいしのセリフを2つ引用する。

「私は無意識で動くもん。心を読む力を閉ざした事で、何も考えないで行動する力を得たわ。」(地霊殿,EX,魔理沙・パチュリー組との会話)

「あら、泥棒はいけない事よ?」(地霊殿,EX,魔理沙、アリス組との会話)

 前者の発言は、フロイト的に理解すれば「何も考えないで行動する」というより、エゴによる修正を受けずに、イドの欲動や、スーパーエゴの要請(抑制)に従って行動するという風に整理できるのではないか?つまり、エゴの意識的な機能が極端に縮小しているのである。

 イドは無意識に眠る欲望を惹起し、その欲望を満たそうとさせる存在であり、、スーパーエゴはその人物の持つ道徳観、倫理観に基づいてその活動を律しようとする存在である。そして、エゴはそのイドにより惹起された欲望と、スーパーエゴによる規律の間に立ち、現実的な範囲で修正・制御する機能を持つ。こいしの「何も考えない」というのはこの調整機能が弱く、イドの欲動が直接表出してくる状態と解釈できる。

 また、「”泥棒はいけない”事”よ”」とこいしは女性らしい口調で話し、一般的な倫理観も有していることが示唆されている。これはスーパーエゴによる道徳観の存在を思わせる。

 上記から、エゴによる意識的な調整能力が縮小する一方、スーパーエゴによる抑制は残存していると考えるのが自然で、その一方現実的な熟慮・調整は行われない。その結果として「何も考えないで行動する」という状態が成立しているのではないだろうか。

 実際に、こいしの会話や設定を見返しても、直接自我による考慮の描写は見受けられない(「そう思った時、こいしの第三の瞼が少し柔らかくなるのを感じた。」という描写は地霊殿にも残されているが、この段階ではまだイドによる説明が可能である。なお、このことについては別の機会に考察を行いたい。)

 これらのことから、こいしは「本来であれば意識領域に一部存在するはずのスーパーエゴとエゴの一部が無意識側に沈み込んでいる」と考えられる。

 しかし、その一方で「こいしには意識領域が無い」と断じることには反対したい。理由は次章で述べるが、私は「古明地こいしの心はその大部分が無意識であるが、わずかに意識領域が存在する」と主張する。


2 古明地こいしに残る「意識」について

 前章の最後で「古明地こいしの心はその大部分が無意識であるが、わずかに意識領域が存在する」と主張した。このことについて説明する。

 これはフロイトの述べる心的装置のうち「知覚末端(知覚-意識系)」の理論により説明可能だと考えている(3)。

 例えば、我々の前にリンゴがあると仮定する。リンゴは物理的な情報として我々の感覚器官、今回の例でいえば目に到達して、神経系を経由して脳へ伝達される。その過程でこの刺激は処理されて、我々の心に到達し、心の中で「ああ、食べたいな」とか「酸っぱそうだ」とか意識(思考)するわけである。逆に言えば何も思わなかった対象は、やがて想起されることもなくなり、意識にとどまらない知覚は無意識に沈んでいく。

 このように、我々が意識するためには、一度この外的な刺激を受け取る入口が心に備わっている必要がある。そして、外的刺激は視覚であれば目、聴覚であれば耳、触感であれば皮膚と言うように感覚器官から神経系を経由して心的過程へ到達する。

 しかし、心はこれらの刺激を受け取ることはできないため。刺激は何らかの変換を受けて心へと到達する。その入口の機能が知覚末端である。そして、これは作動している時、意識が生じる(4)。

 こいしは何かを見ていて、会話もする。この時、会話ができるのであればこれらの外的刺激を心にで受容している。そうであれば知覚末端が存在し機能している。知覚末端が機能するのであれば、そこには意識が生じていなくてはならない。

 こいしがどれだけ心の大部分を無意識に沈めていようとも、この部分だけは無意識に沈めてしまうことはできないのである。これが、私が「こいしにも意識は存在する」と主張する根拠である。


3 本考察のまとめ

 本考察では1において古明地こいしの心における無意識の構造について考察し、「こいしの心では意識が縮小し、無意識が肥大している状態である」と述べた。2ではこいしは「無意識で動く」とする一方、完全に意識が消失しているわけではなく、程度の大小はともかく意識は存在していることを述べた。

 ここでは、フロイトの理論に立脚し、こいしの心の構造としての無意識について読み解こうと試みた。しかし、無意識についてはフロイトだけでなく、ユングやアンナ・フロイト、ハインツ・ハルトマン等多くの心理学者による展開があり、フロイト以前についても、エドゥアルト・フォン・ハルトマンを筆頭に多くの哲学者が無意識について述べている。

 我々コメイジストは古明地こいしについて探求しようと思えばこれらから逃げることはできないであろう奥深い存在である。

 我々は今後も古明地こいしの無意識へと足を踏み入れて行かなくてはならない。

4 参考文献・引用文献

(1)S.フロイト(1940/2023),”精神分析入門講義(下)”,高田珠樹ら訳,岩波書店,p98-99

(2)S.フロイト(1940/1996),”自我論集”,中山元訳,筑摩書房,p203-226

(3)S.フロイト(1900/1969),”夢判断(下)”,高橋義孝訳,新潮社,p388-396

(4)S.フロイト(1933/2025),”続・精神分析入門講義”,道簱泰三訳,岩波書店,p145

5 更新履歴

 著者は心理学や哲学の専門家ではないので、今後古明地考察を進めるうえで、この議論の修正が迫られるかもしれない。そのため、ここにその履歴を残していくものである。

2026/02/23:第一版

 

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