140のおわりとはじまり

時折思います
不思議が顕現したら、外の人間はどう対抗するのかと
結局、死後に不思議の真っ只中に放り込まれるのに、今否定してもそれは仮初でしかないのではないかと

そんな文から始まっちゃう系の奴です。いつも通り付き合ってくれる人はお付き合いくださいませ。

でもこれって、「今楽しければいい」を肉体で表してる人間へのアンチテーゼですよね。
一体どうするのでしょう?対抗策が一切ないと思うのですが。
自ら、対抗策を廃棄していると思うのですが。

『不死の人間だと思い込んでいたのかなー』

東方からはこんな考察も出来ます。他にやる人が誰一人として見られなかっただけで。
他にいてもいいと思うんですけどねぇ。いたら是非呑み交わしたい。

信じるも信じないも好きにするといいでしょう。全ては死後に判明するので。
それ自体に私は無関係です。私の意思も特に関わりは無いのでしょう。
つまり、世界の意思が不思議を重視した、という事だけなので。

ほんと、対抗策を自ら投げ棄ててる人間はどうするのでしょうね?

人間だしなぁ しょうがないか
己が不老不死と錯覚するのも、結局それが土に還るのも。
それでもずっと肉体の状態でいられると思い込むのは何かの呪いなんですかね?既に現呪われ放題。認めたくないだけで。

結局、どこまでも集団に縋って 集団の力しか行使できなくて 集団を自分の力と錯覚したまま土に還る人間に呆れざるを得ません。自分の力だけじゃ何も出来んのかと。
それじゃ結局、死後も利用され続けるだけじゃないかと。

これの最大の問題は、「己が損するのに対策しようとしない所」なんですけどね。まあ自業自得(真の意味で)なのでそれでいいんじゃん?

話変わって、正月ムードは終わった気がします。連休が尽きると同時に訪れる平日は、何よりも現実を見せてくれるのでしょう。サザエさんくらい。
でも、この現実も生ぬるい気がします。1000年前の夜なんかもっと絶望感ありましたってばさ。今じゃ明るすぎるオフィス街なもんだ。

絶望だけじゃ世界は動かないので、別の焦点から動かさないといけないんですけどね。能動を掌る側としては。
ほら創作するとか(ぉ

そんな絶望への対策として、何かに帰依するってのもあります。いつもの集団偶像思考停止3点セット。
人はこのセットを兼ね揃えていれば取り合えず安心なのでしょう。1000年前から変わってないなほんとにな。

狂信もなんてったって思考停止できますもんね。むしろ狂信じゃなくて思考停止に帰依しているまであります。
楽な生き方に流れる人間らしい発想です。いやもう考えてるかどうかすら判りませんが。

 

そんな140年目ですが、変わり映えしないなぁ。
もうその辺の境界に細工しちゃおっかなと思っちゃうくらい。

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