残無さまの服の色についての一考察~「無礙光」に絡めて

 残無さまの服は結構ユニークな配色になっています。派手なようにも見えますが、一方で落ち着いているようにも見える不思議なデザインです。その構成色を見ていくと「上衣の緑色」、「ズボンの青色」、「襟・袖・裾部分の黄色」、「紐・下駄の赤色」、「裾から覗くインナーの白」という風になっています。

 分解すると「緑青黄赤白」の五色です。

 これとほぼ同じ仏教用語で「青黄赤白」というのがあることを最近知ったので、今回はこれを残無さまにこじつけてみたいと思います。

 ちなみに読み方は「あおきあかしろ」ではなく「しょうおうしゃくびゃく」です。

青黄赤白

 この言葉の原典は「浄土三部経」の一つとして浄土教において重視される『阿弥陀経』です。その中の一節には次のようなくだりがあります。

池中蓮花 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔

参照「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」

 これは釈迦如来が極楽浄土の荘厳な光景を説く際の場面です。

 極楽浄土の池に咲く蓮の花は車輪のように大きく、青い色の花には青い光があり、黄色い色の花には黄色い光があり、赤い色の花には赤い光があり、白い色の花には白い光がある。それらはいずれも気高い清らかな香りを放っている。

 と、大体そのような意味になります。

 この「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」の部分を略して「青黄赤白」ということがあります。

 正式な仏教用語というよりは、お寺の掲示板や法話の中で出てくる言葉、というニュアンスの方が近いかもしれませんが、ともかくそういう言葉があるようです。残無さまの服の色は「緑青黄赤白」ですので、この「青黄赤白」と大部分が重なっています。

逸脱者たちの無礙光

 そして残無さまのテーマソングは「逸脱者達の無礙光~ Kingdom of Nothingness.」です。この中に含まれる「無礙光」というキーワードが浄土教と大きく関係しているのです。

 浄土教において信仰される阿弥陀仏は、別名を無礙光仏といいます。そんなこともあって浄土教において「無礙光」というワードは頻出になっています。

 無礙光仏のおわす極楽浄土には蓮の華が咲いている…その蓮華は青黄赤白の光を放っている…

 というわけで無礙光・浄土・蓮華・青黄赤白はとりあえずひとまとまりのイメージと捉えることが出来ます。

 それゆえ、無礙光と青黄赤白を結びつけ、それをさらに残無さまの服の色に結びつけることは想像としては許されるでしょう。

 なお、「逸脱者たちの無礙光」についてZUNさんは、『東方外來韋編 Strange Creators of Outer World. 2024』のインタビューにおいて、このようなコメントをしています。

 p19

 昔はオタクのことを「逸般人」って言う文化がありましたよね。そういう人たちにあまねく届くありがたい光であると。

 p37

 逸脱しているからって石を投げられるわけじゃなくなった。危害を与えない逸脱者はいい逸脱者だよねって。それに対して全て光を与えてくれる――そう思って曲(※「逸脱者たちの無礙光))を作ってたと思うと少し泣けてきますよね。(中略)全員のヨクナイ人たちにあたえる光の曲かなーって、そういうイメージで作っていた。すべてのキャラクターに光をあたえるような宗教的な曲ですね。

 以上のような神主の発言からも、無限の慈悲と救済力を象徴する阿弥陀仏の無礙光、といったアトモスフィアを感じ取ることは可能です。それにしても地獄の鬼が浄土の光を放つのだとすれば面白い話です。

仏教用語?

 なお、先に少し触れましたが「青黄赤白」という言葉は、高度に教理的な概念というよりは、平易な一般人向けの法話などで語られることが多いように思われます。

 お経の中の文章でありつつも、幻想的で、表象的で、リズムも良いこの一文は人気の高いフレーズとして定着したのかもしれません。

 現代の法話において「青色青光~」が引用される場合は文脈的に、多様性の良さや、色々あることの良さ、ありのままの良さ、などを象徴的に表現する場合が多いようです。筆者はそういう例を何度か観測したのでそのように考えています。

 そういった意味でも“逸脱者たちにあまねく届く無礙光”と“青黄赤白”は軌を一にしていると言えるでしょう。

 

緑について

 ところで緑が説明できていませんね。青黄赤白は無礙光に結び付けられるにしても、緑が欠けています。なので、これについてはまた違う理屈が必要になってきます。ここでは二通りの解釈を考えました。

①「松の緑」説

 残無さまのキャラ絵の背後には松とおぼしき植物が生えています。この松の緑は残無さまの上衣の緑と似ているので、ここから取り入れたもの、という解釈がまず思いつきます。

 元ネタの日白残夢は臨済宗であり、臨済宗の祖である臨済義玄が松を植えた逸話があることなどを考えると、この考えで進めてもよさそうな気がします。

 なお松と残無さまについてはこのサイト内で既に考察があります。

残無に見る仏尊のモチーフ

 また筆者もそれをふまえて書いた記事があるので、よかったら見ていってください。

日白残無に重なる“高僧たち”のイメージ

 ところで禅宗には禅語と呼ばれる言葉群があります。その中に松の緑を讃えた言葉が多く見られるということも挙げておきます。いくつか例示すれば、

・松樹千年の翠(出典不詳)

・寒松一色千年別なり(『臨済録』)

・松に古今の色無し(『五燈会元』)

・千年松竹翠(『天聖広録』)

・松栢千年青(『石田法薫和尚語録』)

 …等が見られます。いずれも常緑樹である松の緑を讃えた言葉になります。このような言葉から、禅宗では冬にも枯れない松の生命力を禅の境地になぞらえることがあります。そのあたりからシンプルに残夢、禅、松、緑……という連想で残無さまの服が緑色なったのでは、という想像です。

 ただし、この解釈の場合ネックなのは、「青黄赤白」は蓮華のイメージなのに「緑」だけ松のイメージになるということです。植物のシンボリズムという共通点があるとはいえ、種類が違う為やや不調和の感があるのは否めません。

②「蓮の葉の緑」説

 そこで松説を退けて、あくまで蓮に拘るなら「青黄赤白」が蓮の華を表しているのに対して、「緑」は蓮の葉を表しているという発想がありそうです。

 経典には専ら「青黄赤白」と蓮華の色しか言及しておりませんが、蓮も植物なので花だけが生えてくるわけではなく、葉も当然生えてきます。極楽浄土の池を想像してみれば「青黄赤白」の花のほか、「緑」色の葉も生い茂っていることでしょう。この葉の緑を表現したもの、という解釈です。蓮の葉の深い緑色は残無様の服の色にも似ています。

 また先ほど触れたいわゆる禅語のなかにも「荷葉」という名前で蓮の葉はしばしば登場します。

・荷葉団団として団(まど)かなること鏡に似たり(『大慧語録』)

・一池の荷葉衣するに尽くる無し 数樹の松花食するに余り有り(『五燈会元』)

・風無きに荷葉動く(『禅林句集』)

・荷葉の露珠の如し(出典不詳)

 …等々あります。意味はそれぞれですがまあ、禅語としての一体感はあるかと思います。

蓮の葉と「無」

 もう一つだけ加えるなら、蓮の葉に関係するものとして、このような和歌も存在します。

 無と言へば 無しとや人の 思ふらん 蓮の葉落ちて 何もなければ

 『禅語遊心』玄侑宗久/ちくま文庫 より

「無い」と言えば、無いと人は思うのだろうか。蓮の葉が落ちて、何も無ければ(まだ蓮根が水中にあるというのに)

 訳すればそういう意味になるかと思います。

 水墨画のような冬の池に蓮の枯茎が立っている。花も落ち、葉も落ち、全く何もない。虚無だけが残る…そんな枯淡幽寂とした詩境が目に浮かぶようです。

 この歌では蓮の葉はまるで虚無を象徴しているようです。極楽浄土の絢爛豪華な蓮池とはうってかわって、こちらの蓮池はモノクロームな無の境地を歌っているようでもあります。

 ここから蓮の葉を虚無につなげ、残無さまにつなげてみるのも想像としては面白いかもしれません。

おわりに

 最後に引いた和歌、「無と言へば 無しとや人の 思ふらん 蓮の葉落ちて 何もなければ」についてですが、これは『禅語遊心』という本で見かけた和歌になります。本の文脈的に禅のいう「無」と関係があると思うのですが出典も何も書かれていないので詳細は不明です。多少調べたのですが結局分かりませんでした。識者のご教示を待つばかりです。

 

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