日白残無に重なる“高僧たち”のイメージ

 日白残無の元ネタは戦国時代の禅僧、日白残夢です。名前的にもそれは明らかですし、公式でもそのように明記されています。なので間違いありません。

 しかし、この残夢だけが日白残無の唯一の元ネタかというと、そうではないように思われます。残無さまには、日白残夢以外にも幾人もの“高僧たち”のイメージが入っているように見えるのです。少なくとも私はそう解釈できると思いました。

 具体的には、三蔵法師、臨在義玄、趙州従諗、一休宗純などのことですが、今回はそういった残無さまに重なる“高僧たち”のイメージについて考察していきたいと思います。

三蔵法師

不死の肉

 三頭慧ノ子は過去に残無さまの肉を食った結果、不死になったという設定があります。

 高僧の肉を食うと不死になる、というのはフィクションでしばしばある話ですが、この種の話の中で、とりわけ有名なのは『西遊記』の三蔵法師でしょう。『西遊記』のストーリーでは、徳の高い三蔵の肉を食らうと不死になれるという話が妖怪の間で広まり、次々と妖怪が三蔵に襲い掛かります。一行はそれを撃退しながら天竺へ向かうという筋立てになっており、三蔵の肉=不死の力という印象は『西遊記』を読む者の記憶に強く残ります。

 ただ単に肉を食って不死、というだけだと三蔵法師と特定するにはやや弱いかもしれませんが、残無さまの配下には孫悟空をモチーフにした孫美天がいます。このことから三蔵法師のイメージは強く補強されます。

 三蔵法師の家来に孫悟空がいるように、残無さまの配下には孫美天が居るという綺麗な対応関係になっているのです。

 また、残無さまのよく言う「掌の上」という言葉も、釈迦の掌の上でイキっていた孫悟空を連想させます。これらはいずれも『西遊記』と強く関係しています。そのようなことを考えると、残無さまにはやはり三蔵法師の影響が見えるようです。

臨済義玄

巌谷栽松

 残無さまの立ち絵(座り絵?)の背後には松とおぼしき植物が生えています。

 この松を元ネタ的な次元から考えるなら、臨済義玄の逸話にある「臨済栽松」に結びつけて考えることが出来そうです。

「臨済栽松」とは以下のような逸話です。

師が松を植えていると、黄檗が問うた、「こんな山奥にそんな松を植えてどうするつもりか。」

師「一つは寺の境内に風致を添えたいと思い、もう一つは後世の人の目じるしにしたいのです。」、そういって鍬で地面を三度たたいた。

黄檗「それにしても、そなたはもうとっくにわしの三十棒を食らったぞ。」

師はまた鍬で地面を三度たたき、ひゅうと長嘯した。

黄檗「わが宗はそなたの代に大いに興隆するであろう。」

『臨済録』入矢義高 訳注 岩波文庫 より

 ここでいう「師」というのは臨済義玄のことです。臨済は自ら山寺に松を植え、「後世の人の目じるし」にしたいと言います。師匠の黄檗は、そんな臨済の様子を見て高い境地を認め、臨済宗の隆盛を予言しました。この逸話によって松は臨済義玄と、その教えの象徴的な植物になったと見ていいでしょう。

 日白残夢は臨済宗ですので、臨済義玄の遠い法孫にあたります。この松と合わせることで臨済義玄のイメージを残無さまに重ねることも可能でしょう。

 この残無さまと松については既に優れた考察があるのでここに引用させていただきます。本考察もこの記事を読んで、書き上げる確信を得ました。

残無に見る仏尊のモチーフ
残無についてこれって仏教のあれじゃない?というようなものをまとめてみました。考察のようなコラムのような

趙州従諗

 加えてさらに残無さまには趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の要素も入っているのではないかと思われます。趙州従諗は臨済義玄と同時代の唐の禅僧で、長い禅宗史の中でも屈指の名僧としてよく名が上がる人物です。曹洞宗の道元禅師は「趙州以前に趙州なく、趙州以後に趙州なし」などと讃えています。

狗子仏性

 この趙州の著名な逸話に「狗子仏性」というものがあります。この逸話は残無さまと三頭慧ノ子の元ネタになっている可能性があるものです。

 「狗子仏性」とは以下のような話です。

僧が趙州に問う、『犬にも仏性がありますか』

趙州がいう、『無い』

学生がいう、『生きとし生けるものは、すべて仏性があります。犬にはどうして無いのですか』

趙州がいう、『かれには業による分別があるためだ』

『無の探求〈中国禅〉』柳田聖山/梅原猛 角川ソフィア文庫 より

 ……というお話になります。要するにある僧が趙州に「狗にも仏性がありますか」と尋ねたところ、趙州は「無」と答えました、というお話です。この「狗子仏性」は色々なバリエーションがあってどれが原型なのかいまいち分からないのですが、大体以上のような話になります。

 話としてはただこれだけですが、深い真理を含んでいるものとして後に禅の公案となって大変有名になりました。(※公案というのは師から与えられる問題のようなものです。修行者は座禅中や日常生活の中で、公案をひたすら考え続けて精神を集中します)

 この公案は、残無さまが三頭慧ノ子に宝玉を与えたというストーリーの元ネタとなった可能性があります。「狗」の古い読み方は“えのこ”であり、宝珠(宝玉)は仏教においてしばしば仏性に譬えられるからです。

趙州無字

 なお、この「狗子仏性」の話は「趙州無字」とも呼ばれます。

 「趙州無字」と呼ばれる場合もやはり禅の公案です。こちらは「狗に仏性があるか」と問われた時に趙州が返した「無」という言葉の、その「無」の一字について考えよという趣旨のものです。

 「狗子仏性」とは名前が違うだけで内容としては同じですが、こちらの場合、ニュアンスとしては犬がどうとか仏性がどうとかを問題視するよりも、

“そもそも無とは何ぞや”

 という点に論旨があるように感じます。この公案で修行をする場合、修行者は「無とは何か、無とは何か」と延々考え続けることになります。ついには自らが無の一字になりきるほどに無について考え続けるそうです。まさに修行ですね。無とは何だ。糞坊主め

 そしてこの「趙州無字」は禅宗における無の思想が発展する契機となったものです。

 順を追っていくと、まず初めに趙州が狗子の仏性について「無」と言った話があり、それをもとに公案「趙州無字」が出来上がりました。そしてそれを第一則に置いた無門慧開の『無門関』が成り、それをまた受けて西田幾多郎の「絶対無」の思想が成り、また久松真一の「東洋的無」の概念が成立しました。そういった歴史的展開があって、禅宗と言えば無の思想、というイメージまで出来たわけですが、元を辿れば趙州従諗の言った無の一字に起因します。禅宗における無の思想が発展していく契機となったという意味で、この無は重要です。

 残無さまは名前に“無”を含み、「虚無を操る程度の能力」を持つなど、そのキャラクターとしての核心的な要素に無を持っています。彼女の根本イメージとしての無は禅宗における無、つまり「趙州無字」のもとに発展した無につながっているものと考えられます。

地獄で待つ

 もう一つ挙げるなら、趙州にはこのようなエピソードもあります。

「狗子仏性」の公案でおなじみの趙州和尚に向かって、一人の僧が「和尚さんのような大解脱をとげたえらい人でも、やはり死んだら地獄に落ちるのでしょうか」とたずねたことがある。(中略)

 僧からそのように質問されたとき、趙州和尚は、

「ああ、まっさきに落ちるね」と答えてすましていた。質問した僧のほうが驚いて、

「いやしくも大善知識といわれる和尚さんが、それはまたどうしてでしょうか。しかもまっさきに落ちるなんて――」

「わしが先に行って待っていなかったらお前のようなものが地獄に落ちたとき、いったい誰が救うのじゃ」

この返答を聞いた時の僧の顔が見たいものである。

『参禅入門』大森曹玄 講談社学術文庫 より

 ……このエピソードも何というか、そこはかとなく残無さま的なものを感じます。自ら積極的に地獄に行く禅僧ということで。

 以上のようなことを総合すると、日白残無には趙州従諗のイメージが入っているという読み方が可能です。

一休宗純

髑髏杖

 残無さまの弾幕では、髑髏のついた光る槍のようなものが出現します。この髑髏の槍から一休宗純を連想した人は多いでしょう。室町時代の禅僧、一休宗純には髑髏の杖をついて通りを歩いたという有名な伝説があります。

 『一休咄』によれば、一休は正月の元日から髑髏を竹の先につけて家ごとに「御用心、御用心」といってねり歩いたといいます。それ以来、京都の町屋では縁起が悪いといって正月三日間は戸を開けないことになったのだとか……

 実際にはこの話は後世の創作のようですが、この時に一休が詠んだとされる道歌「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と共に、数ある彼の奇行の中でも最も有名なものの一つとなっています。残無さまの操る髑髏槍は、この一休の髑髏杖を彷彿とさせるものがあります。

 

 また、それを念頭に置いて考えるなら、テーマソング「逸脱者たちの無礙光」に含まれる逸脱者というキーワードも、風狂の禅僧と言われた一休宗純にぴったりのようです。

死を隣に

 なお、『東方外來韋編 Strange Creators of Outer World. 2024』のインタビュー(p19)において、ZUNさんはこう発言をしています。

仏教の死生観の話になるんですが、なんなら自ら地獄に行って死を隣に置きたかったんです。ちょっと一休宗純と被っている。

 「――残無にとって地獄とは?」の質問に対して

 ここでは明確に原作者から一休宗純についての言及があります。

友あるいは師

 また、『本朝神社考』によると残無さまの元ネタである残夢は「一休の友人となり禅の教えを受けた」と語っていたといいます。その口ぶりからするに残夢にとって一休は師友とも言うべき存在だったようです。このように元ネタのレベルでも、残無さまは一休と強い繋がりがあります。

 というわけで、上記の要素を考えることで、一休宗純は残無さまに影響した有力な元ネタの一つとみなすことが出来ます。

 ここまでをまとめると、日白残無は戦国時代の禅僧、残夢を直接的な元ネタとしつつも、三蔵法師、臨済義玄、趙州従諗、一休宗純など多数の高僧たちのイメージが幾重にも重なっている、という見方が出来ると思います。筆者はそう思うのですがどうでしょうか。

おまけ

仏性と宝珠について

 狗子仏性について述べたくだりで、宝珠は仏教においてしばしば仏性に喩えられるという話をしましたが、何かの参考になるかもしれないので、いくつかその例をここに挙げておきます。

・『法華経・五百弟子授記品』の「衣裏繋珠の喩え」

「我れ昔、汝をして安楽なることをえて、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、其の年日月において、無価の宝珠を以って、汝が衣の裏に繋けしなり。今なお、現に在り。しかるを汝は知らずして、勤苦し、憂悩し、以って自活することを求む。甚だこれ癡なり」

『禅の思想を知る事典』 武村牧男 東京堂出版 より

・『碧巌録』の「明珠在掌」

「明珠」というのは透明でくもりのないたま(宝石)のことで、転じて仏性の意、「在掌」とは掌(てのひら)にある、つまり物が掌にあるように自由になるという意味です。

『禅語事典』平田精耕 PHP研究所 より

・江戸期の禅僧、大愚良寛の漢詩

記得壮年時  記得す壮年の時、

資生太艱難  生に資するをはなはだ艱難なりしを。

唯為衣食故  ただ衣食のための故に、

貧里空往還  貧里にむなしく往還す。

路逢有識人  路に有識の人に逢い、

為我委悉説  わがために委悉に説く。

却見衣内宝  しりぞいて衣内の宝を見る、

于今現在前  今において現に前にあり。

従見自貿易  見るに従うて自ら貿易し、

到処恣周旋  到る処ほしいまま周旋す。

 

十方仏土中  十方仏土のうち、

一乗以為則  一乗もって則となす。

明明無異法  明明にして異法なし、

何失亦何得  なにをか失いまたなにをか得ん。

雖得非新条  得といえども新条にあらず、

失時誰辺匿  失うときたが辺にか匿るる。

君見衣裡珠  きみ見よ 衣裡の珠は、

必定作那色  必定なんの色をなすや。

『禅門の異流』 秋月龍珉 講談社学術文庫 より

『狂雲集』に見る残無さま的な要素

 一休宗純の代表的な著作に、彼の漢詩を集めた『狂雲集』があります。稀代の風狂僧であった一休の思想を直接に伝えるものとして現在に残された貴重な資料です。考察のためにこの『狂雲集』に目を通していて思ったのですが、残無さまや『獣王園』を連想させるワードがよく出てきます。

 例えば「地獄」などは17回も登場します。これに「五逆」や「火車」、「閻王」などの地獄を思わせる語を加えると倍以上に増えます。

「畜生」などは9回出てきます。また「畜生」の言い換えである「畜類」、「異類」などの語を追加すると、更に数は増えます。

「黄泉」は7回出てきます。ほとんど同じ意味である「泉下」などを加えると、これもやはりもっと増えます。「黄泉の路」、「黄泉路上」、「黄泉幾路程」などの極めて日狭美的な語もあって面白いところです。

 ちなみに人名としてではありませんが、「残夢」の語も3回ほど登場します。

 まとめるとこのような感じに。

・地獄 17回

・畜生 9回

・黄泉 7回

・残夢 3回

 参照したのは全て下記の二冊です。

・『一休和尚全集 第一巻 狂雲集〔上〕』 平野宗浄 春秋社

・『一休和尚全集 第二巻 狂雲集〔下〕』 蔭木英雄 春秋社 

 なお、数字は素人である筆者が休日に寝たり起きたりしながら数えたものなので正確性についてはその程度のものです。ご容赦ください。

参考文献

・『禅の思想を知る事典』 武村牧男 東京堂出版

・『禅語事典』平田精耕 PHP研究所

・『一休和尚全集 第一巻 狂雲集〔上〕』 平野宗浄 春秋社

・『一休和尚全集 第二巻 狂雲集〔下〕』 蔭木英雄 春秋社

・『一休 乱世に生きた禅者』市川白弦 NHKブックス

・『無の探求〈中国禅〉』柳田聖山/梅原猛 角川ソフィア文庫

・『参禅入門』大森曹玄 講談社学術文庫

・『臨済録』入矢義高(訳注) 岩波文庫

・『禅門の異流』 秋月龍珉 講談社学術文庫

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