セルフパロディとしての錦上京
はじめに
私事ですが、卒論の提出が完了しました。その後大量の試験を受けたり入院したりしていたので遠い昔のお話ですが。ともかく、卒論が書き上がると卒論が書きたくなるのが人の性というものです(?)。よって本稿はこれまで投稿してきた考察の総まとめとして、錦上京ボス(特に新規)に関して過去作ボスとの対照の観点から掘り下げを行うことを目的とします。東方錦上京という作品はそれ自体がシリーズ20作目の折のファンサービス的な側面を強く持ち、過去作のセルフパロディと思われる描写を多く含みます。本稿では特にボス各人について、過去作との対照、特に文学的・元ネタ的側面を重視しつつその内面の掘り下げを行います。原作描写に則った根拠は都度示しますが、その根拠自体色々と曲解して無理やり生み出した幻覚に近いので、その点ご留意の上この先へ進んで頂ければと思います。それでは、飽くなき好奇心と幻想への憧れを抱いた貴方は東の入口から、夢想と情報の迷宮へ、お気を付けて行ってらっしゃい。
拝啓、空想の守り人へ
二次創作などに手を出していると、原作が明言している範疇を出てキャラクター性を深堀りするという行いからは逃れられない。そしてこれはボス各人のモチーフを元ネタの面から概観する際に私が特に留意している点なのだが、幻想郷におけるキャラクターの作り方には大きく分けて4つある、と筆者は勝手に考えている。
A. そのキャラクターが「元ネタ」を置く実在の人物または妖怪と同一の存在であり、その他の要素の介在を認めない。蓬莱山輝夜、豊聡耳神子、摩多羅隠岐奈。
B. 種族自体は実在であるが、その中の有象無象、の性格が強く個体としては架空。フランドール・スカーレット、河城にとり、菅牧典。
C. 個体としては架空であるが、モチーフとして特定の人物の要素を強く含む(本人ではない)。または伝承の集合体であり原作情報から個体の同定が不可能。八雲紫、比那名居天子、姫虫百々世。
D. 種族ごと架空で元ネタとなる個体の同定も不可能。ルーミア、紅美鈴。
この区分でもまだ芳香はBかCか、ユイマンはAかCか、といった議論の余地は山ほど残るが、本節の主眼はそこではないので一旦措く。この分類に則って物を考える時、筆者はぬえを以て必ずAに区分していた。「源三位頼政の弓」より、彼女自身頼政によって討ち取られたその個体そのものであると解釈していたためである。「大江山悉皆殺し」でも「丑の刻参り七日目」でも、明確に個体を同定させる意図があるならスペルカードが大抵はその説明を担っている。逆に、この手のスペルカードを持たない辺りから百々世やらネムノやらの位置付けに議論の余地が残っているとも言える。
ここで錦上京に目を向ける。チミが持ち出してきた「封獣属」という区分、これ自体は全くの造語である。ここに至って彼女らは、少なくとも幻想郷という場所においては鵺である前に魑魅である前に“封獣”なのだ。名も無き一人一種族の妖怪達と同じように。これらをまとめてDに区分できる可能性がここで浮上する、と言うより寧ろDに区分してやることこそ自然であるとさえ感じられる。彼女らに“封獣”の名前を与えることそれ自体、山姥という存在に架空の王冠を与え、蜃の正体を龍からハマグリへとすり替えた鳥山石燕の行いをなぞるものである。そしてそれはある意味で東方紅魔郷1面への、かの時代の“妖怪”像への回帰の試みとも呼べる。“妖怪”は既に実在を前提とした恐怖の対象としてのロールを失い、学問に落とし込まれて解剖され、今やその実在性を失って一つのエンタメへと成り下がった。幻想郷の功であり罪でもある、というのは七夕坂夢幻能の示唆するところである。「妖怪が妖怪になる前の純粋なもののけ」、という表現が意味するところは正にこういうことなのだろう。彼らが人とともに生きるようになる前の、形を持つようになる前の本来の姿。この区分は言ってみれば実在性の担保なのである。封獣属の、聖域という場所の、或いはもう少し誇張した表現をするならば浅間浄穢山を取り巻く全ての悲劇の。四神のキメラはその存在を以て、名実共に聖なる森の銀河を守り続けている。これに関する論はここで詳細に述べているのでこちらも参照されたい。
ここで疑問となるのが、ぬえを巻き込んでまでそこに本来の意味としての“妖怪”性を付与することに何の意味があるのだろう、という問いである。神霊廟Exにおいて、マミゾウはぬえの依頼を受けて自発的に幻想郷を訪れている。未だ外の世界に自らの力で“実在”することが可能であったにもかかわらず、である。ここに至って既に幻想郷の底に姿を消した鵺と現世に確かに生きていた猯との対比が崩れてしまっている。これについて、例えば幻想郷のヘテロトピア性の再強調と考えることは出来ないだろうか。つまり神霊廟Exとはマミゾウを虚構の淵へ引きずり込む為の場所ではなく、寧ろその実在を大前提とした安全なヘテロトピアの中に匿う為の場所であった、と考えるものである。
ヘテロトピアとはミシェル・フーコーが提唱した概念であり、ユートピアの対義語である。現実から逸脱した「異他なる場所」という根底を共有しつつも、ユートピアは現世に実在しないことを前提とするのに対し、ヘテロトピアはそれとして現世に実在するのが特徴だ。本来の定義では墓地や遊園地、劇場、映画館といった場所が該当する。筆者はかつて大学でこれについて少しばかり研究したことがあり、その際に幻想郷を「実在するヘテロトピア」と位置付けてその特異性の記述を試みたことがある。少し長くなるが、一応ここが趣旨なので以下に全文を掲載する。大学や指導教員が特定できうる情報は全てカットしてある。また、テーマとした作品そのものに対してここで出すにはあまりに冗長と思われる説明が長々と残っているが、話の繋ぎ上敢えて残す。ご容赦願いたい。
ヘテロトピアとしての幻想郷-東方Project にみる「もう一つの世界」-
1.はじめに
東方 Project シリーズとは、同人サークル「上海アリス幻樂団」が手掛けるシューティングゲームシリーズである。特に 2002 年に初めて Windows 向けに頒布されたシリーズ第 6 作「東方紅魔郷~Embodiment of Scarlet Devil.」が大きな人気を博し、以来 20 年以上多く の媒体に進出しながら絶大な人気を誇っている。本稿ではこの東方 Project シリーズ(以下 「東方」)の世界観について、物語の舞台を基軸として第二章で簡単なあらすじを基に考察したのち、第三章においてこうした世界を創作物の中で描写する意義について考える。
2.「幻想郷」とは何か
東方の物語の舞台は「幻想郷」と呼ばれる世界である。この世界は我々が現在生きている世界のすぐ隣にありながら、明治17年を境に「博麗大結界」によって我々の世界とは隔絶されており、立ち入るばかりか見ることすらできない。作中における博麗大結界の最大の意義は「常識と非常識の境界」であり、博麗大結界を超えることができるのは我々の世界で「非常識」となった事物のみである。すなわちガラケーやブラウン管テレビや、実在が疑われ教科書から存在が消された聖徳太子や、さらに過去に遡れば科学によって存在を否定された神や妖怪である。幻想郷には人間たちが生活する里があり、その外では妖怪や妖精や幽霊や神様などといった非現実的な生物がさも当然のように闊歩している。特に妖怪は里の外に出た人間を襲って食べるために人間たちから恐れられており、この人間と妖怪の関係性は鵺が平安の都を襲った当時のものと全く同じ形を保っていると言ってよい。心霊映像を精巧な CG であるとして恐れようともしない現代人の姿とは対照的である。一方で、作中において妖怪は人間の認識によってその生態が決定されると説明されている。シリーズ第18作「東方虹龍洞~Unconnected Marketeers.」に登場する大蜈蚣の妖怪は、醜悪な見た目と強力な毒によって嫌悪され、長らく洞窟の奥底に引きこもって生きてきた。彼女が人前に姿を現さなくなったことでかえって噂ばかりが独り歩きし、当人も知らない間に「大蜈蚣は龍を食べる」という「設定」が人間たちの間で付加されてしまった。それ以来彼女は龍の名前を持つ鉱石である龍珠以外の食べ物を口にしなくなった。加えて、人間を襲う妖怪は「博麗の巫女」によって退治される立場にある。博麗の巫女は博麗大結界の要にして幻想郷の東の端にある博麗神社の巫女が代々務める役職で、彼女らはみな人間である。妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。これこそが最も根本的な幻想郷の在り方であり、この博麗の巫女による妖怪退治劇が東方の物語の主軸である。
先述の通り、幻想郷にいる妖怪たちは人間に忘れられたために我々の世界で存続していくことができなくなった者たちである。幻想郷は彼らにとってみれば正当に人間から恐れられ、正当に本来の力をふるうことができる理想郷である。加えて幻想郷の所在地は東方という創作物の中である以上、その在り方はユートピアに近いものと考察できる。しかしながら、こと東方については創作物と現実の境界が極めて薄い。我々のよく知る事物、我々の世界に確かに存在していたものが忘れられて流れ着く、という独自の設定がこの現実との距離の近さを実現している。シリーズ第10作「東方風神録~Mountain of Faith.」では科学の発展によって人間が神を信じなくなったことで信仰心を失った諏訪大社の神々が幻想郷に引っ越してくるし、第13作「東方神霊廟~Ten Desires.」は人間に存在を否定されて亡骸ごと幻想郷に流れ着いた聖徳太子とその部下が復活を遂げる物語である。先述した第18作には、新型コロナウイルスの流行によって人間が家に引きこもり、信仰心を集めることが出来なくなった市場の神が登場する。彼女のモデルは古事記伝に登場する道俣神であると言われている。諏訪大社や法隆寺や瀬田唐橋を訪れれば彼女らが我々の世界で生きていた間に見たものと同じ景色を見ることができ、我々の世界に変化が起これば幻想郷にもそれが連動して反映される。我々の世界に生きながら、幻想郷の実在を信じてそこにたどり着こうとするキャラクターが作中に存在している点もその効果を高めている。
また、幻想郷の特色として博物館のように複数の時間と空間が同一の世界の中に併存している点が挙げられる。八百万の神が生きる日本的な世界観の中にはしかし同時に西洋の館が堂々と建っており、吸血鬼や魔女が幻想郷に溶け込んで住んでいる。竹林では月の兎と地上の兎が共存しており、中国神話の神とギリシャ神話の神が手を組んで月の都を襲撃したこともあり、地獄では神話の時代に伊弉諾尊を追いかけていた黄泉醜女と江戸時代の高名な僧侶が肩を並べて公務員として働いている。以上の二点より、幻想郷とは架空のユートピアであり、同時にヘテロトピアでもあると位置づけることができる。
3.創作物の中のヘテロトピア
幻想郷がヘテロトピアであるという本稿の主張を裏付けるものとして、東方に対する原作者 ZUN 氏の態度についても触れておきたい。博麗神社の生みの親であることから「博麗神主」の愛称で親しまれる ZUN 氏は長野県白馬村の出身で、現地の雄大な自然とそこに根付いた民俗に触れながら東方シリーズやその前身となる創作物を制作してきた。また、ZUN 氏は二次創作に対して非常に寛容で、作品を遊んだプレイヤーが自身の解釈によって独創 性のある幻想郷を創作することをむしろ推奨している。幻想郷が現実と地続きの異界であるという前章の主張を基に考えると、ZUN 氏は幻想郷を一つの博物館のような場所として 位置付けていると考察できる。作中には八意思兼神のように有名な逸話を持つ神や天狗、河童といったポピュラーな妖怪だけでなく、群馬県の一部地域においてのみ伝承のある天火人と呼ばれる珍しい妖怪や、推古天皇期の赤気(オーロラ)の記述という認知度の低い資料を設定の基盤にもつとされる天人も登場する。そうした資料を個々のキャラクターの形に落とし込み、時間や空間の別から切り離して一緒くたに幻想郷という博物館の中に保管する。その博物館を訪れた人々に解釈を託し、自由に想像を膨らませてもらう。そうした意図が ZUN 氏の作品に対する向き合い方からは見てとれる。それは作品そのものに現代においてあまりメジャーな形態でないシューティングゲームという姿を持たせている点にして同様であり、老若男女に親しまれる名作ゲームを作ろうという意気込み以上に、単に東方という一続きの歴史書の編纂を楽しんでいる博麗神主の姿勢が垣間見えるようである。
とはいえ、いくら巧妙に現実との境界を薄められていようとも、ゲームを媒体としている以上は幻想郷という世界は実在しない。これをヘテロトピアであると定義してしまえばフーコーの「ヘテロトピアは現世に実在する」という定義を否定してしまう。しかしながら、幻想郷はフィクションの中に存在するからこそ意味がある。既に「科学的」な感覚を身に着けてしまった現代の人間に「平安の都には鵺なるエイリアンが実在したのだ」などと説いたところで現実味がない。その文脈をフィクションの中に落とし込むことで、妖怪とは人間の内なる恐怖心がその在り方を定めた、実在するようでしない生き物なのだという「設定」を与えることでかえって受け入れやすくなる。パソコンの画面という境界を通して、性別や年齢や国籍、人種、信条、職業その他の制限なく幻想郷という異界をのぞき込むことができる。神や妖怪などという直観的に理解しがたいテーマをもって「博物館」を作り出すためには、 その手段をフィクションに求めることが必要不可欠であったと私は考察する。なればこそ、「実在しないヘテロトピア」としてこの幻想郷を定義することができても良いのではないだろうか。
東方はその美麗な音楽についても人気が高い。その中の一曲、第10作の5面テーマは中でも著名である。幻想郷に一際高くそびえる風の山・妖怪の山を登っていくステージにあてがわれたその曲名は「少女が見た日本の原風景」。幻想郷はフィクションの中にありながら、 確かにこの世界に実在したのである。
幻想郷は失われたものが最後に辿り着く墓場である以上に、エンタメの枠を超えてそれらを保存し遺していく為のヘテロトピアである、というのがこの稿の主張である。封獣属の存在(そして七夕坂夢幻能において語られた博麗神主の精神性)はこれをある意味では裏付けた。と言うより、これに新たな拡張の余地を与えた。幻想郷はそれ自体エンタメの為に存在するのではない。結果的に一つの「創作物」として大衆に迎合していたとしても、それは緻密に計算されたヘテロトピア性の上に成り立つものである。チミが我々に伝えようとしたものは、彼女が守ろうとしていたものは、他でもない幻想郷そのものの「実在性」であったのだろう。どこまで遠くへ歩いてきても、20作の節目を越えてもなお、「空想の封じ目」は不生不滅のままでじっとそこに在り続けていたのである。
玉龍考
錦上京5面を考える時、もしかしたら錦上京そのものを考える時でさえ、結局のところファクターとして重要なのは「ムーンドラゴン」であろうという思考は筆者の中に常にある。恐らくニナの話をする際にもう一度後述するが、幻想郷(ここでは「東方」ぐらいの意味)における龍の扱いというのは、個人の持つ表象のみを理由として既存ボスが後付けで生やして良いモチーフでは無いためである。緋想天が、心綺楼が、虹龍洞が、初出のみならず後続作品内でさえ直接的に龍の表象を持つものを殆ど抱えていない点を考慮すれば想像のつく話だ。そして儚月抄だけはその原則を覆した。駒草山如が過ぎった方も多かろうが(注1)、これについては七夕坂の話になってしまうのでここでは触れない。一応こっちで聖域の話と絡めてちらっと示唆だけしているので今はこれくらいでご勘弁願いたい。筆者の中でもまださほど深まっていない。閑話休題、本節ではムーンドラゴンなるものについて、多角的に考察を加えていくことを試みる。
(注1)念の為言い訳しておくと、彼女は豊姫と違って初出から『スモーキング“ドラゴン”』を引っ提げてきている点は考慮に値する。逆に豊姫と違って(後述)実体としてドラゴンそのものではないという点も考慮に値するが。
そもそもここで言うムーンドラゴンとは何を意味するか。これは幻想郷で言う「竜宮」とは月の都のことを指す、という設定を引っ張ってくれば概ね片付く。求聞口授が初出である。中でもトヨタマヒメは竜宮城の乙姫様と同一視されることもあり、儚月抄(確か小説版のはず…?多忙のため引用を拾ってこられず…)では豊姫と浦島太郎とのエピソードも語られている。これが意識されていることは確定と考えて良かろう。加えて彼女は出産にあたっても強烈なエピソードを抱えており、ヤヒロワニに姿を変えたところを夫に見られたために生まれた子を残して海へ帰ってしまうという話がある。ここから名付けられた学名があまりに(ユイマン的な角度から)有名なロストワードのトヨタマヒメイア・マチカネンシス。今まさに筆者のサブ端末で不眠不休の強制労働周回中である。可哀想に。ヤヒロワニ(つまりサメ)とするのが定説ではあるが、ロストワードもそう扱っているように、一部ではここを龍とした説もあるそうだ。恐らくは先述の通り乙姫と同一視されたためのものだろう。ところで、これらトヨタマヒメのものとよく似た西洋の逸話として妖精メリュジーヌが知られている。背中に竜の翼を背負った彼女は見た目の通り竜精とされることもあり、入浴中に蛇の下半身を夫に見られたために人間界を去ってしまう。トヨタマヒメとメリュジーヌ、2人の類似性は既に多くの学者によって議論されている所であるが、4面の直後、錦上京5面という文脈においては特に強くここが意識されている可能性がある。
ところでこのムーンドラゴンというスペルカード、漢字で表記すると「朧」と読める。特に月光などのぼんやりとしたさまを指す言葉であり、そこには少なからず“蜃気楼”的イメージが付随する。酷いこじつけではあるが、潮盈珠、山津波、潮乾珠と流れての“ムーンドラゴン”、この表記の違和感を考える糸口があるとすれば筆者にはここしか思い当たる節がない。かつてここで提唱したのは、「海と山を繋ぐ」という能力それ自体が豊姫と阿梨夜を繋ぐことの示唆として機能している、というものだ。先に述べた蛇精メリュジーヌの逸話と併せ、ムーンドラゴンの存在はこれを拡張しうる。月の都と浅間浄穢山を、物理的な作用のみならず象徴的にも「つなぐ」ものとして豊姫を位置付けようとする意図が見えてくるのである。後付けで表象そのものをそちらに寄せることによって。だから依姫であってはならない、だからサグメであってはならないのだと筆者は考える。何なら完全に新規のボスであってもならないのだ。錦上京5面という場所に立つ龍の正体は。
2008年からずっと、彼女は“海”を背負って歩いてきた。依姫が持つその表象よりもずっと大きなものを。それは錦上京を経た今でも変わってはいない。一つ大きな変化があったとしたら、それは彼女が明確に龍の翼を拡げはじめたということだけだ。蛇精メリュジーヌのように。或いは浅間浄穢山の底に目覚めた蜃のように。それは月の都が創作物という限界の中に、空想の封じ目の中に自らを秘匿して在り続ける以上は逃れようのない変質である。それがこうして新たな空想を産むのだからおかしな話である。しかし真に皮肉という他無いのは、その変化を齎したものが、彼女らが喉から手が出るほど欲した不変の女神その人の存在であるということではなかろうか。
ラスト・レムナント
初めて錦上京のジャケットが公開された時、自鯖の相方が「サグメに似ている」と言っていたのを聞いて感嘆した記憶がある。現在のところの話をするなら私も全く同じ感想を抱いているのだが、これはあくまで阿梨夜の右の(シューターから見たら左の)翼を「翼」として認識しているために過ぎない。ノーヒントでシルエットからサグメの立ち絵を重ねられたのだとしたら大したものである。だが、逆に言えば、これはある程度勘の鋭い人間なら阿梨夜の本質を知らなかったとしてもサグメの存在を想起しうるような作りに敢えてされているということを示唆する。本節ではこれを前提に、阿梨夜とサグメを重ねて話をしたい。恐らくはサグメの話の方がだいぶ長くなる。その上で本節は筆者の勝手な妄想を前後の節に輪をかけて大量に含む。
紺珠伝本編にはどこにも書いていないのだが(注2)、サグメは国津神と天津神の両方の性質を併せ持っている、というのは実は公式設定である。これに紺珠伝の「その性質は神とも鬼とも精霊ともつかない」という記述を加えて考えると、サグメほど月の都で生きるのに向かない神も中々いなかろうとさえ見えてくる。
(注2)一応下記の台詞から推察できなくはないが、はっきりそうと書かれたのは外來韋編の壱が初出である。
「判っているのなら行きなさい!いざ敵の本拠地、静かの海へ向かえ!これはいわば勅命よ、私の天津神部分からの……。」
(東方紺珠伝〜Legacy of Lunatic Kingdom. 鈴仙ルートstage4)
阿梨夜に、と言うより阿梨夜が月に移住することを拒んだ=地上に残ることを決めたというその判断自体に向けられた月の民の態度を見るに、「国津神と天津神の両方の性質を併せ持つ」というサグメのアイデンティティは、月の都では汚点として見られかねない。まして変化を嫌い恒久の不変を理想とする月の都において、事物に変化を与える能力を引っ提げて歩いていては殊更に。彼女は月の民にしては珍しく書籍作品でちょくちょく地上に降りてきているのだが、日本には「白鷺は塵土の穢れを禁ぜず」ということわざがある。清純潔白な白鷺は穢れた土地にいても染まることがないから穢れを気にしない、という意味だ。古来より日本では人間の死体を穢れとして忌み、それを食べて消してくれる鳥としてカラスを崇めていたが、様々な鳥達によって執り行われたアメノワカヒコの葬儀において、白鷺は清掃を担当していたと言われている。まして「白鷺は塵土の穢れを禁ぜず」という言い回し自体、本人の自称か周りが勝手に言っているだけのことかで180°意味が変わるというのに。
そんな彼女だが、月の都において政治的に重要な立ち位置にある事自体は明言されており間違いない。その性質がどのように見なされているかは一旦措いて、少なくともピラミッドの底に押し込まれて愛人(集団幻覚)を人質に取られるような不当な扱いを受けているとは考えにくい。月の民を全員避難させた後にしてなお永遠亭からの支援を待って最前線に立たされているのが不当な扱いでないかどうかは諸説あるが。とにかく、どのような形であれ天津神としての性質を持つ限り、そして月の都の公益に従順である限り、月の都は誰であれそれを排斥しない、とサグメを見ていると推察できる。錦上京における月の民もそうだった筈だ。阿梨夜を指して言う「醜女」というのが具体的に何を表すのかが作中では明らかになっていないが、仮に元ネタ通りストレートに顔面偏差値が低かったり性格がそこそこ悪かったりしたと仮定して、月の民が彼女をピラミッドの底に封じたのは断じてそれが理由ではない。月の都の公益の為にその能力ごと身を捧げられるサグメや綿月姉妹のような人材による、ある意味で言えば共産主義的な共生こそ月の都が理想とする在り方であって、これに協力しない者をその内側に置いておく訳にはいかないだけだ。しかし同時に、内側に置いておくことの出来ない阿梨夜という存在は、月の都にとって必要不可欠なものだった。だからせめて逃げられることだけは無いよう徹底的に封印した。月の都からの誘いを蹴ったことがプライドを傷付けたという文脈は多分にあろうが、少なくともそこに「ブスのくせに」などという女子中学生みたいな負け惜しみは一切乗っていない。
月の都の為に口を閉ざしたまま生きることを強いられているサグメを、或いは真っ当に他者に必要とされているにもかかわらず過去に縛られ地上に封印されていることを強いられている阿梨夜を、然してもう一方の世界で生きられないよう強いているのは「残してきた片割れ」の存在だと筆者は考える。と言うよりは寧ろサグメこそ、そして阿梨夜こそが「置き去りにされた側」と言ってさえ良い。そもそも月の都が危機に瀕した際に躊躇いなく獏に協力を仰ぐのも、いくら自分の片割れが引き起こした混乱とは言え紫に呼び出されれば地上まで駆けつけてそれを収めるのも、“月の民”が自発的に起こした行動としては極めて違和感がある。天邪鬼は地上に降りた。天津神は月の都へ昇った。そのどちらでもない場所に残された旧い時代の遺物を、“異物”をこそ我々は化石と呼ぶ。そんな阿梨夜の心に寄り添う存在がユイマンであるのなら、サグメにとっての救いとはどこにあるのだろうと時折考えてやまないことがある。オカルトボールの力が悪用された時、ドレミーは一度だって「月の都を」救おうとはしなかった。月の都が襲撃を受けた時、永琳は一度だって「サグメを」救おうとはしなかった。だからここまでつらつらと書き連ねておいて、心のどこかでこれが事実であってはならないと思うのだ。どうか蜃気楼であって欲しいと願うのだ。そうでなければ我々はどうして、散々阿梨夜に同情して彼女の肩を持って月の都を糾弾した後にして、サグメを月の民と呼ぶことが出来るだろうか。
筆者未見だが、小諸尋常高等小学校編纂『浅間山』には「白い衣を纏って三原山に鎮座していたイワナガヒメを白鷺に見立てた歌がある」旨の記述があるそうである。この考察を書いていることを伝えたところ、件の自鯖の相方から情報提供を頂いた。三原山の頂に立つ時、彼女は必ず白い衣を身につけていたそうだ。「白鷺は塵土の穢れを禁ぜず」。欠けた翼のあったその場所に、今はがらんどうのその場所に、白鷺達は何を背負うのだろう。
蜃気楼のレミニセンス
蜃気楼、と聞いて「心綺楼」の方を真っ先に連想したシューターは少なくないと信じたい。寧ろ「心綺楼」などという題であるにもかかわらず妖怪の蜃は影も形も登場しない中身である方がある意味で肩透かしであって、筆者はこれを幻想郷における蜃とは龍である為だ、と解釈していた。「虹龍洞」の中身を見れば幻想郷が龍という存在の描写に対してどれほど慎重かは見て取れる。龍神様の持ち物だから龍珠です、龍神様の洞窟だから虹龍洞です、などという安直な描写を採用する訳には決して行かないのだ。錦上京が頒布された後にしてなお、この解釈が全くの的外れであるとは筆者は考えていない。が、蜃というのはもう少し多義的で構わないのだ、というのがニナが我々に与える示唆である。これは恐らくウバメの存在に対するアンサーでもあるのだろうが(注3)、それを差し置いても、蜃とは龍でもあるが別に貝でも構わないのだ。本節で述べたいのは概ねこんな話である。
(注3)塵塚怪王とは山姥に関連づけられつつも鳥山石燕による創作妖怪というのがその本質であり、「正史」としての山姥から見れば彼が勝手に作り出したハルシネーションにすぎない。蜃の正体を巨大なハマグリであるとする説も鳥山石燕が提唱したものである。
そもそも一般に言う蜃とは何か。Wikipediaで当該の妖怪の名を調べてみると、こんな記述が見つかる。
蜃(しん)とは、蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、竜の類とする説とその傍らに巨大なハマグリとする説がある。蜃気楼の名は「蜃(みずち)」が「気」を吐いて「楼」閣を出現させると考えられたことに由来する。霊獣の類とされることもある。
『礼記』には、キジが大水の中に入ると蜃になるとあり、この発想は日本にも伝わった。
宋の百科辞典『埤雅』の著者である陸佃も同様、蜃はヘビとキジの間に生まれるものと述べている。この蜃の発生について、ヘビがキジと交わって卵を産み、それが地下数丈に入ってヘビとなり、さらに数百年後に天に昇って蜃になるとしている。
さらに、本草書『本草綱目』(万暦6年:1578年)に、ハマグリではなく蛟竜(竜の一種)に属する蜃が気を吐いて蜃気楼を作るとある。この蜃とはヘビに似たもので、角、赤いひげ・鬣をもち、腰下の下半身は逆鱗であるとされている。蜃の脂を混ぜて作ったろうそくを灯しても幻の楼閣が見られるとある。
(Wikipedia『蜃』https://ja.wikipedia.org/wiki/蜃)(最終閲覧:2025年12月18日)
錦上京製品版が頒布される前まではタイトル画面の配色と水面のように揺れる龍の演出から水属性の龍→蛟→瑞霊と何か関係がある?というようなことも言っていたのだが、ニナのおまけtxtを読んでいる限り偶然被っただけらしいので本稿では触れない(注4)。蛇との接点に関してはここで触れた通りである。その時には蛇足(蛇だけに)になるとして敢えて詳しく触れなかったが実は雉とも関連性がある。
(注4)或いは瑞霊(ミズチ)という直球な名前や今まで解決してきた異変を追体験するかのように過去作ボスが瑞霊に憑依されていくという智霊奇伝のストーリー構造から、錦上京の構造が全体として智霊奇伝に倣っており(或いはその逆)、それが最終的にニナの誕生/秘匿されていた瑞霊の存在に収斂する、という見方が出来ても良い。智霊奇伝自体まだまだ連載中で、過去作を追体験するなどと言いながら本稿執筆時点では神霊廟までしかフォーカスされていない(=連載自体はまだまだ続きそうな)中、重ねて錦上京で同じ構造の物語を描く必然性があるのか否かは甚だ疑問であるにせよ。
こうなってくると気になるのは、現在のニナの自認はどんな種族か、ということである。例えば彼女にはかつて貝として生きていた頃の記憶や貝としての自認はあるのだろうか。或いはタイトル画面の龍が示唆する通り、彼女には龍としての性質の方が強く宿っているのだろうか。これに関して筆者の立場は、彼女の自認は“蜃”以上でも以下でもなく、化石となったからには一度死んでいる訳だがその前の一度目の生を彼女は認識すらしていない、というものである。
ここで、始めに引き合いに出した心綺楼を振り返る。こころは秦河勝の面の付喪神であるとして作中では説明がなされているが、その本質は特定の1つの面の付喪神という訳ではなく66の面の集合体であり、種族の項も「面霊気」として書かれている。ここまで見てきた錦上京ボス達のようにニナもまたこころの存在を意識して生まれ落ちた命であるのなら、彼女自身の意識もまたこれを踏襲しているのではなかろうか。だから(鳥山石燕の創作物という意味での)貝の性質もあり蜃本来の龍や蛇の性質もあり、恐らくはもう少し近代化されたオカルティックな性質も(流し込まれた陰謀論とは別に)ある。それはこころの自認が“面”でも“その集合体”でもなくて“面霊気”なのと同じことだ。だから「オカルト」=「陰謀論」とも簡単に迎合する。こころの面霊気としての性質が、口裂け女のオカルトに共鳴したのと同じように。逆に言えば、ニナの持つ表象がハマグリであってシャコ貝であってニナ貝でもある=単一の何かの貝(種名)の化石ではなく“貝の化石”であるのも、特定のどれといった話ではなく“面の集合体の付喪神”としてのこころのセルフオマージュだから、と筆者は見ている。蜃気楼=陰謀論とは心綺楼なのだ。
こころ「私の名は秦こころ。全ての感情を司る者だ!」
霊夢「また変な妖怪が現れたものね」
こころ「私は全ての感情が平等に訪れる様に調整する。偏った感情など認めないぞ!」(中略)
こころ「そうだ!私はそれを解決するために出てきたんだった!希望溢れる人間をついに見つけたんだもん」
霊夢「私?希望溢れるけど?」
こころ「全ての感情を正常化し、街を元通りにするには、希望溢れる貴方を、私の希望の面として加える必要がある!」
霊夢「ちょっ、本性を現したわね。この妖怪めが!結局、人間を襲うのが目的なんでしょ?」
こころ 「失った希望の面の替わりは、新しい希望なのだ。貴方に怨みは無いが、幻想郷の希望、全て私が頂こう!全ての人間の感情の為に!」(東方心綺楼〜Hopeless Masquerade. 霊夢ルートstage7)
心綺楼におけるこころの種族に関する自認は終始「感情の調停者」であり、「秦河勝の面」であるとすら彼女は一言も言っていない。霊夢も一貫して「付喪神」ではなく「妖怪」としての対応を取っている。この「感情の調停者」というのが「面霊気」という妖怪(付喪神とは遠からず近くもない?)の特性なのではないかと筆者は考える。そうであればニナもまた同様に、彼女の自認は「蜃気楼を生み出すもの」であり即ち「蜃」以外の何物でもない筈だ。ニナが唯一明確にこころと違うのは、自分自身が貝の化石から生まれたことそれ自体は知っているという点である。が、そこに自認は恐らく宿ってはいない。
ここまで散々ニナの本質を二枚貝と見なし、またある時は巻貝と見なし、或いは龍と見なし蛇と見なすことの正当性を主張してきた。結局のところ筆者は虹龍洞のオタクであるから、ここに述べたような虹龍洞との対比、妖怪の山全体の構造としての美しさに縋りたいのだ。というか自創作の中の話をするのなら既に散々縋り散らかしている。本節の内容はあくまでその弁明に過ぎないが、こうして錦上京ボスの持つ表象の中に並べて置いておくと無い話でもないように見えてくる。そう見えるようになって頂けたのならわざわざ本節を書き足した甲斐があったというものである。あまりに言い訳がましい内容になったので当初はカットするつもりだったほどだ。
蛇がとぐろを巻く、と言った時、「蜷局」という漢字を用いて書くことがある。1文字目の「蜷」という漢字は単体では「にな」と読み、そのままニナの名前の由来であるところのニナ貝の漢字表記である。本節は心綺楼との対照を主なトピックとしたため妖怪としての蜃の性質については解説程度に触れたばかりであるが、このようなヒントからも、自ら解釈を深めるにあたって「蜃とは何か」の答えを自分なりに一つ決めておくことはある意味では重要である。今さっきまとめたばかりの内容と矛盾するのはご愛嬌として欲しい。それこそが蜃という妖怪が持つ不定形の面白さなのだから。
おまけ Wikipediaを読もう
さて、ここまでいくらか「東方」に収まらない外部ソースからの情報を引っ張ってきたりしていたと思う。本稿に限らずこれまで出した考察も然りだが、これらのネタ元は9割ぐらいWikipediaである。記事を読み、気になった記述の参考文献を確認し、その論文の参考文献をさらに辿り…という手法で大体の考察のタネは拾ってきている。何かの示唆となることを願い、下記に本稿の執筆にあたって下読みしたWikipedia記事を貼り付けておく。
・鵺
・蜃
加えて、これはただの趣味なのだが、面白いWikipedia記事をブックマークする為だけの場所を作っていたら先日遂にブックマークが1000を超えた。この中から東方関連に絞り、読み物として秀逸な記事・参考文献が豊富な記事をいくつか置いておく。暇つぶしなり新たな考察の糸口なりになれば幸いである。
・鯰絵 関連ページにある「安政の大地震」や「赤気」なども面白い。
・大気光学現象 リンク先全てが面白い。お気に入りは「環天頂アーク」と「ブロッケン現象」。
・リュウジンオオムカデ なんと2021年に発見された、龍神伝説にまつわる百々世カラーの新種ちゃん。かわいい。虫注意。
・相続等により取得した土地所有権の国庫への帰属に関する法律 発布年が虹龍洞と被り、かつ施行年が獣王園と被っていたために何かあるのではないかと思って注視していた新法律。結局特に何も無かったが、そもそも法律として割と大事なので知っておくと良い。
・残夢 存在が面白いせいでどこを読んでも面白い。「常陸坊海尊」も是非併せて。
・バナナ型神話 イワナガヒメ関連。トヨタマヒメの話でも触れたが、言語体系が違っても神話というのは勝手に類似してくるものである。言語学徒としては極めて興味深い。
おわりに
随分長くなってしまいました。しかも随分読み物になってしまったような気がします。少々筆が悪ノリをしすぎました。入院中に切開した所がまだ塞がっておらず座っているのもきついものですから、本稿はこの辺りで締めようと思います。これにて錦上京周りで私の持てるものは全て出し切ったかと思います。今までずっと手探りでしたが、いよいよ自創作にガンガン落とし込んでいくフェーズかな。また何か“氣付き”を得たら書きに来ますのでご縁があればどうぞよしなに。今しばらくは、おやすみなさい。

コメント