戎瓔花の福の神性

 東方鬼形獣の1面ボス戎瓔花は「種族:水子の霊」であるが、omake.txtには「無駄な単純作業を、楽しくやりがいのあるものに変える、転んでもただでは起きない福の神でもある」と書かれている。
 東方における霊の種類や神との関係などもそれはそれで興味深い考察テーマではあるが、ここではすっぱり無視して福の神としての瓔花について思っている所をつらつらと述べていこうと思う。

 瓔花は福の神でもあるとはいえ基本的には水子の霊であり、自身も石積みをやめられず、地蔵菩薩のように周りの水子たちを石積みから解放する事ができるわけでもない。作中彼女がやった事は石積みのコンテスト化、またそれが動物霊によって荒らされた時には素早く早積み競争へと切り替えた事である。つまり瓔花の福の神としてのご利益は、苦役からの解放ではなく、苦役を苦と思わなくする事であり、要するにポジティブシンキングによって自ら不幸を跳ね除けようという神様である事が分かる。
 逆風に抗う力をもたらすのではなく、流されながらも前向きでいる姿勢を示すのは、なるほどいかにもクラゲらしいと言えるだろう。

 ところで、水子の石積みといえば一般的に親より先に死んだ子供への罰であり、東方的にもそれに縛られていては成仏できない行いである(緋想天小町ED)からして、それを楽しむようにしてしまうのは目の前の苦しみを受け流す事にはなっても、長い目で見ればより大きい苦しみに繋がる気がしてならない。また、来世を良くするために善行を積むべしという映姫の訓示に対して、瓔花のご利益はとにかく今を楽しむ現世利益である。このあたりは福の神とはいえど本質的には一介の水子にすぎない存在の限界のようなものが感じられる所である。

 

 そこで、彼女の更なる福の神性として筆者が提唱したいのは戎瓔花のクリエイターの神としての神性である。
 瓔花は水子たちの積み石について、いくつかのルートで「作品」と称している。この「作品」という言葉を我々になじみの深い意味合いで捉えると、瓔花や周囲の水子たちにとっての石積みは創作行為のメタファーであると言えるだろう。そのような見方をすると、傍目から見れば無意味な、すぐに鬼に崩される運命の積み石に対して価値と尊厳を見出している発言である「作品」という言葉からは、あらゆる創作物を肯定する福音を感じられる。
 また、制作とは基本的に地道で地味な作業になるものだが、そこで制作行為そのものを楽しむ姿勢を示しているというのも、クリエイターの福の神としてありがたみのある所だろう。

 注目に値するのは、例えばクリエイターの神だからといって信仰してお賽銭を入れれば創作力が上がったりするわけではないというのが神様の常だが、瓔花の場合は先述したように「力をもたらす」のではなく「姿勢を示す」事がその神性であるため、画面のこちら側にいる我々でも瓔花の姿勢に倣う事で創作や日々の業務を楽しくする事も可能という所である。これは一フィクションの登場キャラクターとしての存在を越えて一つの偶像として「信仰」するに足る事柄ではないだろうか。

 小さな制作物を愛し、制作行為そのものを楽しむ姿勢を示し、さらには自らは世に出なかったものを象徴する存在である水子の霊でありながら楽しく過ごす事でお蔵入り品や未完成品をも祝福する瓔花は、趣味で東方のイラストやアレンジ等々を制作しているような草の根クリエイターにとって、たいへん力になる存在であると筆者は思う。

 

 余談であるが、東方鬼形獣に登場するクリエイターの神といえば、それは明らかに埴安神袿姫である。
 同じ作品の1ボスと6ボスで通じる部分があるのは面白い所であるし、瓔花と袿姫はその創造性によって周囲を救済しているという明確な共通点も存在する。一方で袿姫は圧倒的な武力によって一つの世界を完全に制圧したのに対して、瓔花は無力で動物霊の手によってあっさりと蹴散らされ積み石コンテストを荒らされている。高い実力を持つクリエイターが強大な影響力を持つ一方で、多くの木っ端クリエイターは吹けば飛ぶような存在である事を暗示しているような構図である(こじつけじゃないか?)。
 このような瓔花と袿姫の関係性についても考えを巡らせてみると面白い知見が得られるかも知れない。ここではこれ以上の深掘りはしないが、一つのネタとしてここに置いておく事にし、記事を終わろうと思う。

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