東方における「心の豊かさ」とは何か

原作内での扱い

東方作品の地の文では「精神的に豊か」という表現が度々見受けられる。
豊かさの指標とは何だろうか。
対義語としても扱われる「物質的豊かさ」については想像しやすい。
人間の生存、幸福に直結する衣食住の充実。
社会活動において必要となる金銭的、経済的な豊かさ。
目に見える「物」の質と量が豊かさの指標となっている。
一方で「精神的豊かさ」は人によって意味が異なる。
精神というものが主観的で多義的であるため
その豊かさ、貧しさを可視化し、比較評価することは難しいからだ。
この語句が登場する文章を
以下、筆者が把握している範囲で引用する。
(他にもきっとある筈…)

上海アリス幻樂団サイト
妖々夢マニュアルバックストーリー(2003年)
人間は唯物科学を盲信しだし、非科学的な世界、つまり妖怪や  
鬼などという世界は、迷信だと排除していったのだ。      
(中略)
次第に人間は文明を築きあげた。もう人間は暗闇を恐れない。  
なぜなら、夜でさえ、昼のような明るさで周りを照らすことが  
出来るようになっていたのだから。   
(中略)
幻想郷の妖怪達は、ここで独自の文明を築き上げていたのだ。  
その文明は、見た目は閉じ込められた時代から余り変わってい  
ない。しかし、それは唯物の文明ではない、人間界よりはるか  
に優れた精神中心文明なのだ。賢い妖怪達は、物の豊かさより  
心の豊かさを求めたからであろう。   

 

儚月抄小説(2009年) 第三話 浄土の竜宮城
月の都は完成された高度な都市であった。物質的、技術的な豊かさはとうの昔に満たされており、
精神的な豊かさを高める事が最も重要であるとされていた。
勿論それは月の民にとっての話であり、月の兎はその為に働かなければいけないのだが。

 

大空魔術(2006年)
いち早く少子化が進み人口が減少に転じた日本は、人口減少によるデメリットを上手く回避し、
選ばれた人間による勤勉で精神的に豊かな国民性を取り戻す事に成功した。

以上の引用より
地の文で「精神的に豊か」な社会とされたのは
①幻想郷
②月の都
③日本(科学世紀)
の3件が確認出来た。

心の貧しい社会

豊かさ、という形容は相対的である筈なので
これらと比較して「貧しい」社会が存在する筈である。
前後の文脈より判断すると
精神的豊かさの前に(豊かになる前=貧しい)
物質的、技術的豊かさを追求する社会があり
それは唯物科学に拠って立つ世界観であると読み取れる。
また、日本(科学世紀)において
精神的に豊かな国民性を取り戻す事に成功した、とあることから
精神的な豊かさとは過去、作中の日本国民にとって一般的なものだったことが分かる。
加えて、幻想郷の成り立ち方(大結界による外の世界からの独立)から考えると
以下のような変遷が推察出来る。
・昔の日本には精神的豊かさがあった。
・唯物科学の発展と普及により失われていった。
・妖怪達が大結界で外の世界から独立。
 幻想郷の内部で心の豊かさを維持、追求出来ている。
・遠い未来、科学世紀の日本が精神的豊かさを取り戻した。
したがって、東方作品において
唯物科学普及後の日本(Before科学世紀)は
相対的に「心の貧しい社会」である
とすることが出来る。

宇佐見菫子の貧富

外の世界の精神性についての言及が他にもある。
東方紺珠伝に関するZUN先生のインタビュー記事13ページにて
宇佐見菫子が「今の日本の病んでいる感じ」を詰めたキャラクターとして説明されている。

東方外來韋編<壱>
まぁ月の都は長いこといろいろあって病んでるんです。
その片鱗がちょっと見えちゃった。
もしかしたらこれから先に、外の世界の病んでる状態を見るかもしれないですけれど。
まぁ菫子は今の日本の病んでる感じを詰めてますが、あれは外の世界の我々としては
わかりやすいですよね。ラノベとかにありそうな設定というか。

文中では「外の世界は精神的に貧しい」と間接的に言及されていると考えてよいだろう。
病んでる、というマイナスの状態が豊かである筈が無いからだ。
ここで問題となるのが
①「さっき月の都は豊かって言ってなかったっけ?」
②「宇佐見菫子は精神的に貧しいのか?」
の2点だろう。

一点目については序論における引用を見直す必要がある。
儚月抄において月の都は「精神的な豊かさを”高める事”が最も重要である」と言及されている。
豊かさを”高める”ということは今の現状は”豊かではない”と言い換えることが出来るだろう。
(目標に掲げる以上、それは現状達成できていない)
そのため、月の都は心の豊かさについては未だ発展途上にあると見做せる筈だ。
物質的、技術的には完成していても精神性については道半ばにある。
だからこそ昔の極楽浄土はもう見る影も無い(紺珠伝 鈴仙ルート鈴瑚の台詞)し、月の民の上司は秘密主義的で、兎にとって不公平な扱いを続けているものと思われる。
二点目について宇佐見菫子もまた発展途上にある、という説明が成り立つ。
紺珠伝リリース時点(深秘録リリース直後)の菫子がしでかした事と言えば
①オカルトボール(外の世界の非常識)を幻想郷に持ち込み、大結界(常識と非常識の境界)を内側から破壊しようとした
②異変が失敗しそうになったので自らを結界破壊の鍵とする自爆技を仕掛けた
特に②について、やけっぱちな感性は異変首謀者としても未熟と言わざるを得ないだろう。
霊夢曰く、「そんなこと美しくない!自爆に価値は無い」
美しさを是とする東方の世界観、弾幕決闘の基本理念において「美しくない」は最低クラスの評価、強い𠮟責の言葉と思われる
ただ、この直後エンディングにおいて菫子は夢を通じて幻想郷を訪れ「華胥の国に学ぶ」とされている。

伝説上の黄帝が、夢の中で理想郷で遊んだことで
政治の要点を学んだという。
その夢の中の理想郷が伝説の華胥の国である。
菫子にとって幻想郷が華胥の国となるだろうか
東方深秘録 菫子EDより引用

加えて、以降登場する菫子(グリモワールオブウサミ、香霖堂ほか)は言動も比較的落ち着いており、今はもう大人しい。
物語における菫子の未熟さは成長型のキャラクターとして意図して描かれているものと思われる。
また、菫子という個人が精神の貧しさを克服していく文脈があったとしても
菫子の出身たる外の世界の現状が病んだ(=心の貧しい)ものであるという読解は無理無く通る筈だ。
菫子を通して「精神的豊かさ」を考えた時に成り立つのは

心の豊かな世界(幻想郷)に触れることで現代人(菫子)が精神性を取り戻していく。

という文脈だ。
大空魔術の時点で「取り戻された」豊かさとは、菫子の起こした無茶な異変を母体とするものなのかもしれない。
メタフィクションの視点でこれらを見た場合

東方Projectという娯楽、創作物に触れることで現実の人間が精神性を豊かにしていく。

という図式で捉えることも出来る。
創作物の果たす役割についてZUN先生が言及する事例は多いことからも、娯楽のもたらす心の変化を豊かさの指標の一つとして定義することが出来るのではないだろうか。

東方で描かれる心の豊かさとは何か

前項より、相対的に幻想郷が最も精神的に豊かであることが推察できる。
不等号で表すのならば
心が豊か          心が貧しい

幻想郷 > 月の民 > 外の世界(Before科学世紀)

という序列は固い筈だ。
昔の日本、科学世紀の日本、については時代が異なり以降の比較が難しいためここでは割愛したい。
たとえ精神という目に見えないものであっても並べることで比較評価が出来る筈だ。
幻想郷の住人と月の民が直接会話しているシーンから、精神的な優性を読み取ることが出来ればそれが東方における「精神的な豊かさ」であると定義できる。
月の民の精神性について述べた儚月抄の小説の終盤における

主人公たる博麗霊夢と元・月の民蓬莱山輝夜の対話は
まさにその条件に当てはまる。
技術の進歩(技術的豊かさ)により人間の寿命は延びていく、その時に人は何を考えるのか(何を求めるのか)という輝夜の問いに対して主人公・博麗霊夢が回答する。

「寿命を減らす技術が発達するんじゃない? 心が腐っても生き続ける事の無いように」
その答えに輝夜は驚き、生死が日常の幻想郷は、穢れ無き月の都とは違う事を実感した。
儚月抄小説 最終話「二つの望郷」より

加えてこの台詞が、主人公の口から発せられている点も大きい。
物語における精神性は常にストーリー、寓意を介して説明される。
小説であれば物語の終わりに、主人公が説く考えが作品自体の本旨であり、アンサーである、という考え方だ(若干メタい)。
霊夢の能力、「空を飛ぶ程度の能力」を踏まえるとこの会話は意義深い物として扱える。

彼女の能力は空を飛ぶこと、つまり無重力。
地球の重力も、如何なる重圧も、力による脅しも、彼女には全く意味が無い。
身も心も、幻想の宙をふわふわと漂う不思議な巫女である。
相手がどんなに強大だとしても、彼女の前では意味をなさない。
人妖弾幕幻夜 東方永夜抄マニュアルより引用

即ち、不老長寿(その先にある不老不死も含む)という物質的、技術的豊かさの極地から離れること、物質的豊かさの放棄を自らの意志で選ぶことが霊夢の描く幸福(=豊かさ)なのだ。
物質的豊かさは、その名の通り物質(衣食住、金銭など)の多寡に左右される。

一方、より高位の概念に位置付けられている精神的な豊かさは物質、技術の有無に関わらないものであることが想像できる。

いわゆる「お金が無くても幸せ」という状態だ。
この状態はお金という物質から自分の意志で「浮いている」「解き放たれている」幸福と表現できる。
幻想郷における発達した精神、豊かな心の行き付く先が物質的豊かさからの解放、解脱なのではないだろうか。

ちなみに宇佐見菫子は対戦時の台詞において自分の容姿に自信が無い旨を吐露している。これも自身の肉体(物質的要素)に左右された感性、と言うことが出来るだろう。心が豊かであれば容姿に関わらず自らを肯定できる筈なので。10点満点中11点くらい。

儚月抄小説最終話において、比較的新参である輝夜は霊夢の(幻想郷流の)価値観を意外な物として受け止めている。
優劣を決めつける文言は文中に存在しないが、月の民の中には(少なくとも輝夜の中には)無かった精神性なのは明らかだ。

以上より、幻想郷における「精神的に豊かな」状態とは
物質的、技術的進歩に依存しない幸福を自分の意志で実現できる状態(物質的豊かさから浮くこと)を指すものと結論付けたい。
東方Projectの主人公「楽園の素敵な巫女」の生き方が表現するものがそのまま幻想郷的な幸福、幻想郷らしさとなるのだろう。

博麗ランドの事業が大失敗して家計が火の車になっても霊夢は元気です。

EX.STAGE 人間の里は幸福か?

幻想郷は精神的に豊かなコミュニティだ、という定義は本旨の大前提だ。
しかし求聞史紀、鈴奈庵や反則探偵で描かれる人里の状況は外の世界の視点で見ても必ずしも豊かな、幸福なものとは思えない描写が散見される。
鈴奈庵スラム(鈴奈庵の背景コマで描かれるスラム街みたいな雰囲気の里、今命名)や妖怪によるチェンジリング、妖怪に支配されていることに自覚的な知識層。抗鬱薬おじさん。
いずれも物質的に豊かで無いのは明白であり、絵として表れる表情や所作にも幸福さが読み取れない場合がある。
此処からは完全な想像となるが、「人里はああ見えて意外と幸福」というだけなのかもしれない。
モブキャラである都合上、台詞や活躍の機会が限られておりその心中は察しきれない部分も多くある。うんざりとした仮面の下で、東方キャラらしいユーモラスでタフな台詞を日夜吐き出しているのかも、と筆者は考えたい。
抗鬱薬おじさんも、末法思想を病んでこそいるが治療に前向きであること、何よりあの気迫で大妖怪二ツ岩マミゾウを圧倒せしめたことからもQOL(Quality of life)が高い筈だ。
また、人里のモブキャラ達はZUN先生の指定が少ないためか作画担当によって表情や生活ぶりが大きく異なる。絵とは、あくまで人物の一側面だけを切り取ったものになりがちであり描かれていない表情が行間に存在することは常に念頭に置いておきたい。

注記:「精神的豊かさ」は古文東方

ここまで読んで頂いて本当に申し訳ないのだが近年の東方作品では「心の豊かさ」について言及する文が無くなっている。そのため、本文で扱った「精神的豊かさ」自体が既に作品のテーマとして扱われなくなっている可能性が大いにある。
ただ、作中で言及される善悪や良し悪しとも言える基準として「豊かさ」は印象的な語句に思え、筆者なりに意味する所を追いかけてみた。
作中において、豊かなもの、豊かでないものとして分類できるものが無いか探してみるのも一興かもしれない。無論、作中の多様な価値観を二元論に押し込めてしまう意図は毛頭無い。

豊かなもの:酒、素敵な巫女、夢を見る子供(夢違科学世紀)、「誰の物でもない」夜空

豊かじゃないもの:外の世界、週刊誌、大空は誰の物か(私の物でしょ?感)

豊かさチェッカーフリーエディションの開発が待たれる。

結論:宇佐見菫子は可愛い

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