錦上京でキーワードとなっていた「化石」について、香霖堂にそれを取り扱った回がある。(東方香霖堂 第十五話「名前の無い石」)この回では、近年の東方で頻出する「名付け」についても踏み込んだ話をしており、当サイトではこちらの記事でもまとめられている。
このことからも、「化石」という言葉には重要な意味が込められていると察することができ、先日もそのことに触れられたこちらの記事が投稿されていた。本記事では、香霖堂で示された「化石」の内容と錦上京での「化石」の表現を照らし合わせることで、特に浅間浄穢山深部に存在する化石の森についての理解を深めることを目的とする。加えて、そこに現れた新種の妖怪・渡里ニナによって提起された「真実」という問題がどう絡むのかということにも目を向けたい。
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まず、香霖堂での「化石」の立ち位置について整理する。香霖曰く、化石は単に死んだ動物の骨というわけではない。『石となった骨の元の動物に名前を付けた石』(p102)が化石であるという。そのため、神々が名前を付ける以前の動物の骨は化石たりえず、石として世界と同化し、神として成長を続ける、というのが話の大まかな説明の流れであった。
この回の起点となったのは、何故化石化している骨は現在の動物では考えられない大きさなのかという疑問であり、そこに霖之助独自の解釈を加えるのが先の説明であった。この段階で推察できることの一つに、化石は基本太古の生物の骨であるという前提で話が進んでいることが挙げられる。
物理的な石化にある程度の時間を要する以上当然のことではあるのだが、その前提から化石化している骨のほとんどは無名時代の生物のものというふうにこの説明では設定されているように感じる。すると、全ての化石においては、世界と同化し成長を続けている方が元々の自然なあり方であった、ということが考えられるようになる。
つまり、化石とは本来成長し続けるはずだった骨が、名前を与えられたことにより成長を止めたものなのである。抽象化すると、変化する性質を持つものが何らかの処置を施されることで変化を失う、ということを「化石」という事象は象徴している。なお、ここにおいて名付けが変化を失わせる役割にあるのは、物事の一側面のみを切り出すという性質に由来していると思われる。
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以上を踏まえ、錦上京における「情報」の流れを見てみたい。
月の民によって浅間浄穢山に置かれたユイマンは、自身について「生きた情報を永遠の真実に変える」と評している。(霊夢赤)また、彼女のおまけテキストでの能力欄には「蛇に食べさせて生まれ変わらせる程度の能力」と記載されている。浅間浄穢山に集まる情報は、ユイマンによって「生まれ変わり」をさせられているようである。
この「生まれ変わり」という現象は、実は「名付け」と類似している部分がある。先に述べたように、名前はそのものの性質を確定させる。それは香霖堂で提示された建御雷の例のように、そのものを新たな存在へと変えていると捉えることができるのである。更に、ユイマンが生まれ変わらせるのは「永遠の真実」と表現されていることから、「生まれ変わる先は不変の存在」という共通性もここでは保たれていると読み取れる。
月の民が穢れと評していることから、生命情報は変化の性質を持つものであると判る。これらを踏まえると、浅間浄穢山で行われているのは、生体情報(変化の性質を持つもの)を蛇に食べさせ生まれ変わらせる(何らかの処置を施す)ことで永遠の存在に変える(変化を失わせる)、というふうに、生物の骨の化石化と同じプロセスで捉えることができるのである。よって、香霖堂でも錦上京でも一貫して、化石は「変化する存在の不変化」の象徴として機能していると言える。
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しかし、ここで結論としてしまう前に、この状況における「真実」の存在について考えてみたい。今までの話からすると、真実について「化石=真実」という式が成り立つように見えるが、直感的に捉えるとこれは理にかなわないことであるように思える。「ある事件の犯人」という真実があったとして、それは最初から不変のものではないのか。虚実入り混じった情報が途中から全てそれに変わる、なんてことはあるのか。
このことについて考えるため、情報と真実の関係に目を向けてみる。
まずは両者の関係について、「AがBのとっておいたプリンを食べた」という状況を例にして考える。
AがBのプリンを食べたことが真実だったとして、その情報はAにおいては体験を通して、Bやそれ以外の人物においては目撃や伝聞を通して生まれる。しかし、これらの媒介物はすべて生物の感覚器官に由来するものであり、それゆえ不確実さを常にはらんでいる。Aの姿に見えていたものは実はCを見間違えていたのかもしれないし、Aが盗み食いしたというのは実はBによる印象操作のための嘘なのかもしれない。技術の進歩次第では、Aの体験すらも自分が食べたと感じるような仮想現実を見せられていたという錯覚の可能性が生まれてくる。このように、生物の知覚によって生まれる情報は、真実に限りなく近い値を取ることはあっても、等価にはなり得ないのである。
全能者の視点から見れば、この真実は確定していて変わることは無い。しかし、我々生命は決してそれに触れることはできない。これが本来の真実の持つ性質であると思われる。
ただし、この意味の真実ではなく、作られた情報の方を指して「真実」と表現する場合も多く見られる。しかし、それはただの皮肉ではなく、真実の不可知性に由来するものだと考えられる。
先ほど「情報は真実と等価になり得ない」と述べたが、これは理論の上での話であり、生命からすると両者の違いはほとんど感じられないものになっている。特に、昔の出来事に関してはその傾向は強くなる。体験による情報は得られないため信憑性の判断はつけ難く、また情報自体が自身に与える影響も少ないからである。まさに「居ても居なくても良い存在」として情報も真実も見られるようになるのだ。
また、次のような場合も考えられる。「Xは善人である」という状況について、この場合「事件の犯人」のような明確な真実は存在しない。Xという人物が人間である以上、完璧な善人であることはあり得ないし、そもそも「善」という基準が不明瞭である。よって、この場合初めから答えの無いものに「答えがある」と仮定して考えることになっている。答えの位置にあるのが架空の真実となったことで、元々手の届かない真実を仮想する手段であった情報は、答えとしての価値が高まるのである。
このように、「我々にとって真実が不可知である以上、同じぐらい手の届かないか、そもそも確実性を度外視した情報は、真実と同等に見える」という事情ゆえに、真実という言葉が便宜的に用いられる状況が発生しているのだろう。なお、この話は特に東方鈴奈庵で大きなテーマとなっていることも知られているが、今回はそちらまでまとめる余力が無かったため、恐縮ながら省かせていただく。
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この「本来の真実」と「便宜的な真実」という関係が、錦上京でも表されているのではないかと筆者は考えている。
真実について、霊夢の受け売りの言葉の中に「真実は不変、恒久で、ただひたすらに地の底で眠っている」という表現がある。(霊夢永Ex)この性質は、まさに浅間浄穢山の主・磐永阿梨夜のものと一致する。また、同台詞では「でらための情報が集まる理由は、真実を隠すため」とも言われている。興味深いことに、阿梨夜に関する情報はニナのいた化石の森には流れてきていなかったようである。(魔理沙獣Ex)とすれば、阿梨夜の神域は元々真実が集まる場所だったのかもしれない。
ユイマンは、自身が処理する生命情報について、「地中に沈める」のが役目と述べている。(霊夢青)このことからすると、情報は無垢な状態で月の都に流すためではなく、地中に隔離するために穢れを浄化されている、というふうに読み取れる。では何故穢れを浄化すると情報は地中に沈むのか。その答えが、阿梨夜の神域が持つ性質だったのではないだろうか。
情報の穢れを浄化すると、変化を失う。変化を失った情報は、真実のように我々とは無縁の存在になる。よって、浄化された情報は真実に近いものとして阿梨夜の神域へ向かい、化石として神域を囲む。この性質を利用することが、月の民による浅間浄穢山掌握の目的だったのではないか。
結論
以上で現時点での推論は述べ終わったので、ここで本記事の内容を簡単にまとめる。
化石とは、生物に関する情報を作為的に完結させることの象徴であり、その性質変化によりそれは真実と近似的存在になる。化石の森は月の都に流れるはずだった生体情報を完結させることで、真実の眠る地下へと追いやった結果生まれた場所と思われる。
変化と不変、情報と真実など二項対立どうしの関係を、対応するところを押さえつつ、そうでない部分の状況の整理を試みたつもりではあったが、その把握がかなっていることを今は願いたい。自他問わず本記事の内容への検討・修正を重ね、複数の作品にまたがる思想の理解を広げていけることを期待する。

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