原義
日本語「偶像」
広辞苑から引用すると、「偶像」の意味はこのように示されています。
①木・石・土・金属などでつくった像。
②信仰の対象とされるもの。神仏にかたどってつくった像。
③伝統的または絶対的な権威として崇拝・盲信の対象とされるもの。
ラテン語 “idola”
英語 “idol” の語源となっています。
意味は偶像(日本語とニュアンスはほぼ同じと考えられる)で、哲学的に用いられる”idola”とは、デジタル大辞泉によると、「フランシス・ベーコンの用語。正しい認識を妨げる偏見や先入観」という意味となっています。
想定し得る原作におけるニュアンス
偶像=埴輪人形
埴安神袿姫の造り出す埴輪人形を偶像とする説です。
ここで、鬼形獣のおまけtxtを引用します。
人間の霊は無力な自分を呪い、神に祈った。
神もそれにこたえ、人間に信仰すべき偶像を与えた。信仰の力は革命的であった。
信仰心を持った人間霊は動物霊を恐れなくなった。
本来我欲でしか活動できない畜生界で、利他の精神で活動できるようになった事が大きいのだろう。
このおまけtxtでは、動物霊による隷属・抑圧から解放されるために神に祈りを捧げ、その結果、神=袿姫が埴輪人形(ex.杖刀偶磨弓)を与えたことが示されています。
人間霊の望みは、動物霊たちになされるがままの霊としての暮らしではなくて、神に助けられることだったのです。つまり、世界=「霊として生きていく地獄」を変えることこそが望みなのです。
そのために、神=袿姫に頼り、神が生み出した埴輪人形=偶像にこの地獄=世界を委ねた。ということです。
余談
先ほどのおまけtxtには続きがあります。
しかし本当に力を持ったのは人間霊ではなく、偶像だったのだ。
人間霊は偶像の向こうにいる神性に帰依しているつもりが、偶像そのものを信仰するようになってしまう。
その結果、偶像が人間を支配し始めるのは、自然の成り行きだった。
これは一つのアイロニーを示しています。もともと、人間霊は動物霊による隷属および抑圧から脱却することを目指していました。しかし、人間霊はそのものが神性を宿している偶像に対して過度な信仰心を抱いてしまい、その結果人間霊は今度は偶像に支配されてしまいます。本末転倒ですね。自由を、解放を目指した人々は、結局革命的な力を持つ圧倒的存在に支配されてしまうのです。
この状況は先の歴史にも類似しています。有名な例を挙げると、ナポレオン革命やナチズムがそれに該当しますね。それぞれについては世界史に関するサイトなどを閲覧すれば概要がつかめるため、説明を省略します。
不必要な部分の説明を省いて単純に言うと、「何かしらのカリスマを求め、それらに政治を求めた結果、ディストピアになってしまった」ということです。当時の人々にとってその状況がディストピアになるかどうかはさておき。
偶像=キャラクター
先ほどまでの話とは打って変わって、メタ的な解釈となります。ここでは、偶像=「『東方Project』のキャラクター」であり、世界=「幻想郷」ないし「『東方Project』の作品群、世界観」となります。
創作論として、創作者の思いがそのままキャラに反映されて、それがそのまま行動として創作世界に現れてしまうことは好ましくないと(私個人の主観ですが)考えられています。いわゆる「解釈違い」や、世界観の矛盾といったものが起こりやすいからです。
考察者の中にも、「創作者であるZUNさんによってではなく、幻想郷は舞台装置であり、その中でキャラクターたちは一人一人が尊重されるべき人格として動いている」と述べている人がいます。その考えが真である場合、自らの創作論をこの曲の題に改めて乗せた、という解釈も間違いではないかもしれません。
……ただ、私としてはこの解釈は正直懐疑的です。その理由としては、①『東方鬼形獣』という個別作品のシナリオとの関連性が著しく低いこと、②埴輪が持つ神性の関わりが低いことを挙げます。
次の解釈を最後の案として提示しますが、私は1つ目の「偶像=埴輪人形」が正当な解であり、次に述べる3つ目の解釈が裏の解であるというように考えています。
偶像=考察
ここからは幻覚度MAXでお送りします。ほぼすべて妄想であり、「こうだったら面白いな」という願望です。そしてここからが本題です。よろしくお願いします。
偶像=埴輪人形であると推察した項(2章1節)で紹介したおまけtxtを再び引用します。
人間の霊は無力な自分を呪い、神に祈った。
神もそれにこたえ、人間に信仰すべき偶像を与えた。信仰の力は革命的であった。
信仰心を持った人間霊は動物霊を恐れなくなった。
本来我欲でしか活動できない畜生界で、利他の精神で活動できるようになった事が大きいのだろう。しかし本当に力を持ったのは人間霊ではなく、偶像だったのだ。
人間霊は偶像の向こうにいる神性に帰依しているつもりが、偶像そのものを信仰するようになってしまう。
その結果、偶像が人間を支配し始めるのは、自然の成り行きだった。
このtxtを、少し日頃東方Projectに慣れ親しむ私たちにとって卑近な例に置き換えます。それが「偶像=二次創作」です。二次創作にもいろいろなものがあります。例えばこんな分類がありますね。どれだけ原作に近しいか、といったものです。このサイトで一つの尺度として用いられている「幻覚度」に近しいものですね。
二次創作に出されるキャラの設定が原作と乖離していることは珍しい話ではありません。あるいは、現在時点で語られていない情報であり、想像でしか書けない面などもそうですね。私たちは、よく「ありもしない表面上のネタ」に固執することがあります。例えば、キャラのカップリングや、内面や外見に関するネタの過度な擦りなど。よくよく原作を眺めて改めて考え直すと、それらが誤った解釈であることは往々にしてあります。
そのような解釈・二次創作はどんどんと公式に漸近していきます。主流となっているが正確には誤りとみられる説が公認ソーシャルゲームで採用されたりすることで、さらに公式へ帰化する勢いが高まります。ですが、原作や公式制作物ではその方向性とは真逆のアンサーを示すことがあります。最近で言えば智霊奇伝のキャラ描写はそれに該当するものと考えられます。
それに対して、多くの人は違和感を覚えます。その後の反応は人によって分かれます。順応する人、新たな設定の発見に興奮する人、自分が想像していた推しの像とはかけ離れておりショックを受ける人、さらにはそのショックのままに攻撃的な発言をしてしまう人。
後ろに述べた二つの例は、まさに「二次創作」や「解釈」といったキャラの「偶像」にとらわれてしまっているのです。イドラデウス=二次創作者によってCreateされたCreatureしか見えなくなってしまうのです。
そんな二次創作優位の東方Projectに対する独りよがりな想いの丈を、「偶像に世界を委ねて ~ Idoratrise World」という曲に託したのではないでしょうか。
”Idoratrise World”=「偶像化された世界」とは、まさに二次創作によって狂信的に創り上げられた、ZUNさん本人が「このようになるであろう」と予想した幻想郷世界とは異なる世界を指しているのではないでしょうか。
……という、幻覚度MAXの偶像です。
この説を最初に提唱したのは私ではありません。私はYoutubeの無断転載動画のコメント欄にあったものを拝読・咀嚼しただけです(そのコメントの投稿者とは現在もやり取りをしています)。
ここで私は原作離れした二次創作は~という私感を述べる意思はありませんが、ただ一つだけ思うところを述べるとするならば、心に偶像を抱くのは間違ったことではないということです。
せっかく考案した、唯一無二の偶像なのですから。
はしがき
最後の項を書くのに少しアツくなってしまいました。最後の方だけで見れば幻覚度MAXだとは思うのですが、他の論についてはある程度の論理性が存在する考えられるため、幻覚度を8に設定しております。
「偶像に世界を委ねて ~ Idoratrize World」、非常に素晴らしい曲です。このサイトに訪れる人ならば、ほとんどの人が聴いたことがあるとは思います。何度聴いても発見がある曲です。素晴らしい曲ですので、気が向けば……と言わず、今すぐ聴いていただければと思います。
それでは、これにて以上とさせていただきます。読了いただき感謝申し上げます。
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