十数年越しの対戦型弾幕STG復活が話題を呼んだ東方project第19弾、東方獣王園。ラスボスとして登場した地獄の鬼、日白残無には「虚無」を中心とした様々な仏教的モチーフがちりばめられていました。その難解さに筆者も頒布当時は理解が追いつかず、色々な人の解釈を参考にすべくSNSに張り付いていました。今回はそんな残無について私が持っている見解を一つ書き表してみようと思います。
残無は何故座っているのか
自分は残無の座る姿について元ネタがあるのではないかと考えています。それは、仏像に見られる「遊戯坐」という座り方です。
遊戯坐像の一例:https://x.com/kamakura_museum/status/825496178376663040?s=20
遊戯坐とは、全てが同じ姿という訳ではありませんが、片膝を立ててその上に手を置いたり、あるいは手を後ろについてもたれかかったりと、くつろぐような姿勢を特徴とする座り方です。また、岩の上に座っているというのも特徴の一つです。
そして、このタイプの仏像は日本では鎌倉で流行りました。つまり、遊戯坐像は鎌倉仏教の主流である禅宗で主に尊ばれていたのです。ここから残無の禅僧という要素と繋がります。残無の能力は虚無を操るというお前は何を言っているんだと言わんばかりのものですが、禅という視点で考えると虚無とは悟りとほぼ同義である「空」によく似た何かです。それを極めたという彼女は、悟りを得た先達として尊ばれる仏や菩薩にも匹敵する存在とも言えるのではないでしょうか。彼女の姿勢は、そんな彼女達の世界における到達者の表象なのかもしれません。
残る謎について
さて、残無の立ち絵を遊戯坐によって解釈してきましたが、これだけでは説明できないものが一つ残っています。それは、残無の後ろに生えた松です。これに関しては筆者も何の解釈も持ち得ていないです。確かに松は岩にも生える植物として有名ですが、それが表象するものが何であるのか、また別の知見が求められていると思います。このサイトで更なる発展があることに期待しています。
以上が私の残無の座り方に対する解釈です。遊戯坐から関連して水月観音との関係についての考えも実は少しあるのですが、そこまでいくと幻覚度が数段上がりそうなので、気が向いたときにコメントで補足するか新しい記事で書こうと思います。ご一読ありがとうございました。
補足:修正前の投稿について
初稿では残夢の座る岩について、岩ではなく地面ではないかという反論を想定し、それに対する解釈を提示するパートがありましたが、投稿後に早苗やナズーリンの残無に対する勝利台詞で既に岩だと明言されていたことに気付きました。
結論には影響せずむしろ補強するものだったので今回はなんとかなりましたが、このような確認不足によるミスは色々と信用を落としかねません。自らの至らなさを感じ、もっと精進していかなければと思いました。これから投稿される皆さん、筆者の二の舞にならないよう、投稿前は是非入念に原作を確認してみてください。
でもじゃあどうやって骨埋まってるんだあの岩
コメント
https://gensoukoudan.net/archives/702
こちらの記事で松についての一解釈を新たに記しました