私は試論①において「古明地こいしの内面としての無意識」について述べた。
しかし、そもそもは古明地こいしは「無意識を操る」のであって自分がただ無意識で存在するだけの存在というわけではない。そうすれば、我々はこいしの能力はどこまで無意識を操ることができるのか?について、思索を深めていかねばならないであろう。
1 古明地こいしの操れるものは何か?-局所論による解釈-
本題に入る前に、あらためて明確にするべきことがある。それは、試論①でも述べた「局所論」と「構造論」の関係である。
局所論では心を三層構造として、領域として「意識」「前意識」「無意識」を想定する。一方、構造論では心的な領域とは別に、「イド(エス)」「エゴ(自我)」「スーパーエゴ(超自我)」という三つの機能を立てて説明する。ここで重要なのは、これらの「領域」と「機能」がそのまま対応するわけではないということである。例えば、イド=無意識のように単純にイコールで結び付くわけではない。エゴは意識の領域から無意識の領域にまたがって働く機能であり、無意識にもエゴの機能は含まれる。そのため、イド=無意識とするのも正確ではないのだ(1)。
また、局所論における前意識は、意識と無意識の間に位置する領域である。前意識はふだん意識されていない領域であるので、広義としては無意識の一部とみなせる。
以上を踏まえ、こいしの能力である「無意識を操る程度の能力」を、フロイトの理論に基づき解釈してみる。すると、こいしの能力が対象とする範囲は、局所論における広義の無意識領域、すなわち「無意識」と「前意識」にある心的内容であると考えられる。
2 古明地こいしの操れるものは何か?-構造論による解釈-
前章では、こいしの無意識を操る能力について、その適用範囲となる無意識の領域を中心に論じた。ではスーパーエゴやエゴのような、意識領域にまでまたがって働く心的機能についてはどう考えるべきだろうか。本章ではこの点を検討する。
まず、こいしはこれらの心的機能そのものを操作できるのであろうか?スペルカードに『本能「イドの開放」』、『抑制「スーパーエゴ」』とあることから、一程程度の干渉は可能だと考えるのが自然だろう。そのうえで、意識と無意識の領域にまたがって存在するスーパーエゴとエゴをどう理解するかが問題となる。
仮に無意識領域に存在する部分のみ操作可能であるとすれば、こいしは対象者の無意識に干渉し、対象者が意識しないまま行動や判断に影響を与えることが可能となる。一方、無意識領域にまたがるもの全てが操作可能とすれば、より複雑な作用が想定できる。たとえば「リンゴを食べたいが、理由はわからないが絶対に食べてはいけない気がする。」と思わせるといった状態である。この場合、「リンゴを食べたい」という欲望を無意識から意識に浮上させるのと同時に、スーパーエゴの作用によって意識領域におけるエゴの判断として出現させる。という説明も可能だろう。
ただし、この説明を成立させるためには、無意識領域でのエゴへの働きかけが、意識領域におけるエゴの機能にまで影響を及ぼすことが可能という前提が必要となる。
本考察では、この議論に一つの結論を結論を与えることは難しい。そのため、ここでは無意識操作の仕組みについて二つの仮説を述べるに留める。
3 古明地こいしはいかにして気配を消すことが可能であるか?
さて、ここまでこいしの操る無意識の範囲について考察してきた。本章では、これらの考察及びこいしのキャラクター設定から、こいしの能力がいかにして対象者に作用されるのかを検討したい。まず、『地霊殿』のテキストより一文を引用する。
無意識で行動する彼女は、誰にも気付かれることが無い。地上に出ようと、寝ている巫女の脇を通り抜けようと、天狗が警備する山を通ろうと、誰一人彼女の気配に気付かないだろう。
これはこいしというキャラクターの大きな特徴の一つである。ここには「誰にも気づかれない」という点が明記されており、東方求聞口授においても類似の記述がみられる。繰り返し述べている通り、こいしの能力は無意識を操るもので、自分の姿を消し去る能力ではない。そうであれば「こいしの能力によって何らかの形でこいしを”見る”ことができなくなっている」と考えられる。なお、この点についての詳細は後述する。
ここで一度フロイト理論における意識と無意識について整理をしておく。本来であれば詳細な説明が必要であるが、それでは長くなるため、言葉足らずになるのを承知の上で簡潔にまとめる。
無意識とは、我々が意識したくても通常意識することができない領域である。逆に言えば何かの契機で意識化されうる領域と言える。意識とは外界(我々の世界)と心の間で、外界からの刺激と心の内から湧き上がる快不快を感知するシステムが配置された領域である。ただし、ここでの説明は簡潔さを優先しており、理論を厳密に説明しているわけではないことに注意していただきたい(例えば、無意識の説明は厳密に言えば無意識と前意識を含む広義の無意識の説明となっている)。
ここで結論を先に述べると、「こいしはその能力によって我々の無意識に介入し、こいしの知覚情報を無意識へと抑圧(すなわち意識に上ることができないように)することで、自らの認識を阻害している」というのが私の主張である。
以下、この主張における認識阻害のメカニズム及び課題について説明する。
まず、対象は視覚情報、音情報などの、何かの刺激として感覚器官から取り込まれ、神経系を通って脳へと到達する。この過程で刺激が心的領域へ侵入するが、この感覚刺激は心の内部では受容できないため、それを変換する機能として知覚末端という概念がフロイトにより規定されている。知覚末端は外界と心をつなぐドア、変換ケーブルのような役割を担い、知覚末端そのものが意識であるというわけではない。ただし、知覚末端が作動する時、そこに意識が発生しているというのは試論①で述べている。
例えば私たちは、リンゴを見た時に「リンゴがあるな」と思うことがある。これは知覚末端で「リンゴを見ているぞ!」と認識するのではない。知覚末端は見たという事実を心に取り込むだけである。では、どのようにリンゴを見たと意識するのだろうか。知覚末端を通過して心に侵入した情報は無意識領域にある記憶組織という部位へ引き渡される。そしてこの無意識領域にある記憶組織が意識の方へと浮上することで意識される。つまり、我々がリンゴを見た時、確かに視覚は成立するが、その認識には一度無意識を経由する過程が存在する。
もう少し詳細に説明する。なお、説明が複雑になるので、次の点に留意していただきたい。ここでは意識という言葉を二つの意味で用いる。第一は『知覚情報が心に到達した瞬間としての意識』、第二は『対象を把握するという意識』である。
例えば我々が歩いているとする。この時、目の前の光景が知覚末端に到達すれば、その視界にあるものの情報は第一の意味で「意識」される。そこで立ち止まり目を閉じる。空の青さや道端のたんぽぽを思い出すことがある。この思い出すという行為が無意識を経由して浮上した第二の意味での「意識」である。しかし、視界の端にあった木の本数、葉の枚数までを詳しく思い出すことは通常できない。にもかかわらず、最初に知覚末端に到達した段階では、それらも含めて視界に入っていた。これが「見えてはいるが認識できない」という状態の一例である。そして、後者の意識、すなわち第二の意味での意識がこいしの認識論の核になる。
さて、こいしは我々の前に現れた場合、こいしの姿は確かに視界に入る。そして、その状態は知覚末端を通して心の領域に取り込まれるため、第一の意味での意識が発生する。しかし、「こいしを見た」という対照的認識(第二の意味での意識)をするためには、一度無意識(記憶組織)を経由しなくてはならない。ところが、この記憶組織は無意識領域にあるため、こいしの能力により操作され、意識へと浮上することが叶わなくなる。すなわち、こいしは視界の端にある木や葉、足元の小石のように「見えてはいるが認識できない」存在となるのである。
このようにして、こいしは認識を消失させることが可能となるのであろう。
4 本考察のまとめ
今回の試論では「古明地こいしの操作できる無意識はいかようなものであるか?」という定性的な考察を行い、それを土台にして「こいしの無意識の操作」についてこいしの特徴の一つである「気配を消す」という点から考察を行った。
前者において、こいしの操作可能な範囲は広義の無意識、すなわち無意識と前意識は操作可能であると考察した。そして後者では「なぜ我々はこいしを認識できないのか?」という点を、前述の「無意識にあるものは操作できる」という結論を土台にしてこいしの無意識操作の方法の一端について考察をした。
しかし、今回の試論では明確に今後に対する課題を残すことになった。まず、意識にまたがる心的機能(スーパーエゴとエゴ)はどこまで操作できるのかについて本考察で結論を下すのは保留した。また、定性的な考察を加えたにもかかわらず、定量的、すなわち「こいしは無意識を操りどれほどのことをできるのか」という点についても、本試論では能力の作用機構の構築を目的としていたため、踏み込んだ考察としては扱っていない。これらの点についても、いずれその他原作作品等も参考にしながら論じていきたいと考えている。また、こいしは他者に気付かれない(本考察では「認識されない」としている)が、実際には認識されることもある。では一体どのような過程でこいしを認識することが可能であるか?これについても今後考察を行う予定である。
5 参考文献・引用文献
(1)S.フロイト(1933/2025),”続・精神分析入門講義”,道簱泰三訳,岩波書店,p132-137

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